A045-かつしかPPクラブ

人情を 未来へ (下) = 郡山利行

 葛飾の地場産業について、初めて深く学んでみた。 葛飾だけにしかないと言えるほどに成育した業種の、誇りと輝きを、もっともっと区民に認識してもらうべきである。
 そうすることで、区の産業の特性を活かした、次世代への区民生活環境の在り方について、多くの提案が発せられると信じる。


福本ゴム工業社長 福本さん ゴム工場を語る 


 福本ゴム工業株式会社は、お花茶屋の駅の近く、葛飾区白鳥2丁目にある。福本俊一さん、69歳。 工場は、終戦後、外地から帰ってきた親爺さんが、いろいろな仕事を経験した後に始めたと、語った。


「 豆炭を七輪に入れたのが火力で、たい焼きを作るような鋳物の型で、一般工業用ゴム製品(まことに簡単な品物)を手仕事でやっていましたね。 その頃は、同じような工場仲間で、よく助け合っていましたよ 」
「 昭和30年頃、私が小学校5,6年生になった時に、明らかに時代が変わりました。豆炭火力から、工場に電力が入って、機械化が始まりました。 そのため、家の生活全体も変わりましたよ 」

「 私らの遊びも、くず鉄拾いやザリガニ捕りから、小遣いをもらって、駄菓子屋に通うようになりました。 学校では中学受験が流行り、親達は大学の付属中に行かせようとしました。私は行かなかったですけれども、何人かの仲間は、両国にある日大一中に行きました。6年後、彼らとは大学で一緒になりましてね、職種は違っても今も大事な地元の仲間です」

 福本さんは、穏やかな口調で、会社の生い立ちを皮切りに、若き日を語ってくれた。

「 親が家で仕事をしている仲間たちは、みんな、後を継ぐのが当たり前でしたよ。 誰も迷っていませんでした。 私も24歳から、親爺と一緒にゴムの仕事を始めました 」

 立石・四つ木地域の同業仲間達の工場と同様に、仕事の歴史は、紆余曲折の連続だった。
 福本さんは、ゴム工場特有の、ばい煙・粉じんや騒音・振動と臭気などの環境対策にも、積極的に取り組んで、地元のこの場所から転出することなく、頑張り抜いた。 
 そして2014(平成26)年現在、従業員約60人で、数社の乗用車の、ボンネットを開けた時に見ることができる、各種のゴム製品を作っている。

「 15年ぐらい前、中国が進出してきて、価格競争でつらい時期がありましたが、必死に設備投資に打ち込んだので、今があります 」 と、厳しい競争の時代を駆けている工場の、社長の言葉だった。
 また福本さんは、次世代への事業として2003(平成15)年に社会福祉法人を設立し、葛飾区内で、高齢者や子ども達への福祉施設運営にも携わっている。

「 子供の頃は、仲間達との少し遠出の遊びといえば、立石でした。 ここから歩いて行きましたよ。 途中の田んぼ道も、遊び場所でしたね。 そして大人になっても、やっぱり立石でした。 何といっても、飲んで楽しい所でしたよ 」 

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