かつしかPPクラブ

「雄渾(ゆうこん)」の像のもとで(上)=宮田栄子


総合スポーツセンターの、敷地内の立像に惹かれた。

はるか彼方を見据え、槍をかまえているが、力が入りすぎてなく、のびのびしていて、見ていても気持ちがいい。

「雄渾」と名がついていた。辞書を引いてみると、「力強くて勢いのよいこと」とある。「力・パワー」にぴったりだ。



2014年5月18日、P・Pクラブは、総合スポーツセンターの取材を行った。副センター長の山本和弘さんから、くわしく説明を受ける。


 「この施設は昭和58年の設立以降、私ども(住友不動産エスフォルタ・東洋管材共同事業体)が葛飾区より指定管理者として要請され代行しています。

年間約45万人(体育の日は万単位)の利用者があり、昼間は主に主婦、夕方からは勤め人の方が多いです。毎月第4水曜日が休館になります。

従業員は約40人で2~3交替。受付、運営(駐車場)、トレーニングルーム、設備、警備、清掃などで、それぞれ力を発揮しています。

体育館は、トレーニングルーム、大小体育室、武道場、
(今日は第67回春季剣道大会が開催中で、3歳から大人まで約500余名が参加)

 他に弓道場、アーチェリー場、エアライフル場(これらは、安全管理がしっかりなされ、認定証を取得した人だけが入ることができます)

その他、会議室もあります。

[中川土手沿いに建つ体育館]

熱心に語る 副センター長 山本和弘さん

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人情を 未来へ (中) = 郡山利行

 縁があって取材した人達は皆、親の仕事を受け継いでいる人ばかりだった。
 そして、受け継ぐことを当たり前のこととして、ごく自然に語って下さったことも、共通していた。 

菊島小児科医院 菊島院長の思い


 葛飾区の南西部一帯では知らない人はいないと言ってもいい、菊島小児科医院の菊島秀丸院長は、1958(昭和33)年生まれ、55歳。
 父親の竹丸院長と二人で医院を開業していた時には、先代は、地域の人達から、親しみを込めて≪大(おー)先生≫と、呼ばれていた。

 先代が1957(昭和32)に開業した医院を、1993(平成5)年に引継いで、約20年経った今、≪若先生≫との愛称で、父親に負けない、地域での信頼を得ている。 小さい頃から跡を継ぐように言われて育ち、実際にこの道を選ぶことに、迷いはなかったという。


「 私が高校受験で夜中まで勉強していた時、2階の私の部屋だけいつも電灯が付いていたためでしょうか、小児科なのに、玄関のドアをたたく大人の人が時々いました。 

 この地域の工場で働いている人達でした。 父は、その人達を必ず診察してあげていました。 そのため地域の働く人達には、≪当たり前の先生≫になっていました。 診てもらって安心した患者さん達は嬉しくなって、立石駅の近くの店で、一杯やって家に帰っていたそうです 」と、息子の秀丸院長は、父親院長の思い出を語った。


「 この地域は、商店は自営で、工場は家内工業という、職住一体の生活環境だったので、母親のほとんどは、一日中乳幼児をおんぶしていました。
 そのため、具合が悪くなった子どもの様子が、母親にもよくわからずに 『大変です!』 と駆け込んできました。その時、父は私に、『それぞれの家の生活環境を、具体的にしっかり聞いた上で、診察するんだよ』 と、この地で子どもの治療に携わる姿勢を、語り継いでくれました 」

葛飾区東立石3丁目にある、菊島小児科医院は、地域の人達にとって・・・・・、

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日本の着物の歴史 = 浦沢 誠

  はたちのつどいの参加者の女性は「振りそで」姿、男性は「背広」姿が圧倒的に多かった。
  日本の衣服の歴史を調べると、701年に制定された「大宝律令」と718年に制定された「養老律令」には、礼服(らいふく)、朝服(ちょうふく)、制服(せいふく)が定められていた。


  それぞれの形式・色彩は、地位や役職により違いがあった。時代は移り平安時代後期になると「伴大納言絵詞」には庶民の姿が描かれている。

 男の多くは水干姿で、袴(はかま)は膝下(ひざした)までの丈である。女性は広袖(ひろそで)や小袖(こそで)の着流しで、腰布を巻いた姿もみられた。その後、鎌倉時代になると直垂(ひたたれ)が武家の礼服となった。女性の衣服は、小袖の上に腰巻き、湯巻きをまとう形になった。
 
 小袖の上に丈の長い小袖を引っかけて着る打掛(うちかけ)もできた。


  江戸時代前期になると、肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)とを組み合わせた裃(かみしも)が用いられた。
  庶民の文化として小袖が大流行した。歌舞伎などの芝居が流行し、錦絵や浮世絵で役者の服飾が紹介されると、庶民の装いは更に絢爛豪華なものとなった。また帯や組みひもが発達し、帯を後ろで結ぶようになった。

  鎖国政策により国外から絹を輸入しなくなった、江戸時代後期に入り天明の大飢饉も発生し、1785年に幕府は庶民が絹製品の着用することを禁止した。庶民は木綿製もしくは麻などの
衣服を着用した。


  幕末には、1864年に禁門の変が起こり幕府軍は軍服を西洋式にすることに決め、小伝馬町の守田治兵衛が2000人分の軍服を作り上げた。日本における洋服の大量生産の始まりだった。


服飾史学者の小池三枝によれば、着物は元来「着る物」という意味であり、単に衣服を意味する語であった。
しかし幕末に洋服が移入して以降「西洋服」・「洋服」と区別して「従来の日本の衣服」を「日本服」・「和服」と呼ぶようになり、さらに「着物」の語にも置き換えられた。

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隙間植物 = 須藤裕子


植物の「生きる力」は強く、しぶとく、そして、面白い。隙間に咲く植物は、私たちの周囲のそこかしこに生きている。人間の足音を聞きながら。

「生物」の仲間として・・・・・・。


このひび割れた隙間に、仲間で入れた「ヨウシュヤマゴボウ」はラッキーだ。



「さぁ、出た。これからは、もっと葉を伸ばすぞー」と、思った矢先、不法投棄で置かれていたこの板は、間もなく取り去られた。

隙間植物には、過酷な運命だった。



歩道の端に、「アオギリ」が80センチほどの高さまで育っていた。だが、悲しいかな、そこは雑草としての性。

ほどなく、根元を残してバッサリ切られてしまった。しかし、その根元のアスファルトは、力強くこんもりと盛り上がっていた。

きっと、また、新しい木が伸びてくる。



隙間植物の「ミニアイランド」ができていた。周囲は青い海原ではなく、ごつごつした石の交じった歩道。しかも、堂々と歩道の真ん中だ。

ここまで育つと、踏みつけられるどころか、人が避けて通ってくれる。
「ありがたい。存在感を示したぞ」。

次に目指すは、「ビッグアイランド」だ

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冬の華:山茶花(さざんか) = 須藤裕子


冬に「美」といわれれば、花を連想することはないと思った。が、あった。それは赤い「サザンカ」だ。

冬枯れの色のない景色の中で、緑の葉と赤い花が目立つ。まるで、「冬は、私が主役!」と、言わんばかりだ。

近所には、垣根の「サザンカ」や、1本起ちを見かける。冬、外の風は冷たいが、一緒に、赤い「サザンカ」を愛でてみませんか。


「サザンカ」は沖縄や四国、九州などの南方に白色で咲き、自生していたのが始まりだ。

今では、「冬の華」として日本各地に広がり、その数は、約300にものぼる。

園芸の「華」でもある。


「サザンカ」談義。毎日、ラジオ体操に通う「田島勇二」さん(69歳)は、「サザンカ」の垣根の道を通る。

「サザンカ」の赤い花は目に留まり、花の先(咲き)が気になる。朝の挨拶にも、花が咲く。


                        白い「サザンカ」が、

                        冬の青空に生える。


垣根の役目を果たすサザンカ。しっかり家人を見守っている。

しかし、むかし武家屋敷では、「サザンカや椿は首が落ちる」といい、生け垣には使わなかった。

現代でも、病気見舞いには「首が落ちる」から、と喜ばれない。

それは、「ライオン交通株式会社」で咲く、1本の「サザンカ」。

冬の太陽は陽射しが弱い。わずかな光がサザンカの垣根を温めてくれる。

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人情を 未来へ (上) = 郡山利行

 ≪向う三軒、両隣≫、この表現は、江戸の町の神田、浅草、向島などに代表される、大小の長屋がひしめき合っていた街の、生活風情を表す言葉であり、江戸から遠く離れた、葛飾の地には当てはまらない。 

 撮影、2014(平成26)年4月2日、水元公園にて。 金町地区の保育園児たち。園児一人ひとりが、大きな水筒を身に着けて、いつでも自分で飲めるようにしているのが、ほほえましく見えた。
 先生が、「 そろそろ桜のお絵かき、おしまいよー!」 と声をかけた。


   写真集 葛飾区の昭和史(株)千秋社   昭和38年 子供たち 新小岩


                           *


 荒川の向うに広がっていた葛飾の堀切、新宿、四つ木地区の一部には、江戸下町風の街並みがあったが、ほとんどの地域は、昭和30年代までは、田んぼと畑と沼地が広がっていた。 そこは、産業としての農業と、大企業の数少ない工場と、圧倒的多数を占める各種地場産業の中小零細工場の、職住混在の地だった。

 その後、農業地域にも、工業を営む人たちが流れ込み、最終的には、当時ホワイトカラーと呼ばれた人とその家族が、農地と工場跡地を埋め尽くした。

 農業と新興産業の工場が、時代の流れで共存していた、昭和50年代までは、両産業の中間的存在で、商業とサービス業の人たちが活躍した。

 そして、この地域の人々の毎日の、毎月の、季節ごとのライフサイクルの中で、共通の生活スタイルができあがっていた。
 そのことが、葛飾の地が、過密な住宅地域とは異なる、独特な人情的つながりがある生活の地になったのかもしれない。

 今、失われつつある≪わがまち かつしか≫を、これからの世代に伝えて残すには、まずどのような人情の生活があったのか、知りたくなった。


 立石の岡島古書店 岡島さん 華やかな思い出 


 葛飾の下町と呼ばれる立石で生まれ育っている岡島さん(72歳)、親子2代にわたり、ここ立石1丁目で古本屋を営んでいる。 そのため、立石の生き字引である。 第二次世界大戦の戦後から、
この地域が繁栄を極めた時期の話を聞かせてもらった。

 岡島さんの夢に出てくる子供の頃の場面は、いつも同じとのこと。
「 近所のハスの田んぼから、1本かっぱらって逃げる夢なんですが、泥にはまってどうしても逃げられなくて、目がさめちゃうんです 」と、おおらかな時代の話から始まった。


戦後も時々停電した夜は、親爺さんは、カーバイトランプで店の中を灯していた。 カーバイトは、水に接するとアセチレンガスが発生し、火気があると激しく燃える鉱物である。 

「 そのカーバイトの工場がこの先にありましたが、1947(昭和22)年のキャサリン台風の洪水の時に、燃えちゃいました、すごかったです 」と、つい昨日の出来事のように語った。


 立石から四つ木全体が町工場で、働く人も多かった。 「 古本も、特に大衆物が、ものすごく売れましたよ。 夜遅くまで店を開いて、こっちの商売も頑張りました。 このあたりは、ブリキ製品の工場がたくさんあったので、プレス機械で指が詰まった人がいっぱいいましたね。

お客さんが書棚に手を伸ばした時に、気が付きました 」

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はたちの式典  =  浦沢 誠

  2015(平成27年)1月12日(月・祝)は快晴の青空のもと、かつしかシンフォニーヒルズにて「はたちのつどい」が開催された。主催は、葛飾区・葛飾区教育委員会・葛飾区選挙管理委員会主催である。


 「美」と若い人たちの晴れ着姿や現在感じていることなどがどう結びつくのか。「はたちのつどい」に参加した、小・中学生時代の同級性グループを中心にした、新成人の男女を取材した。

 取材・撮影場所は、かつしかシンフォニーヒルズの周辺。


            国歌斉唱をする新成人
   
      
  式典会場は、かつしかシンフォニーヒルズモーツァルトホールです。式典は、午前11時から約1時間行われました。

  当日の天候は、快晴。最低気温1℃、最高気温9℃。北風が強く、日本海側では風雪の強い一日でした。

式次第は、国歌斉唱、区歌斉唱のあと青木克徳区長から励ましの言葉があった。

  青木区長は、今年成人になったのは4155人です。この20年間は厳しい状況であった。20年前のバブル崩壊、阪神淡路大震災、最近では中国の問題、高齢化の問題、4年前の東北大震災など、日本はそれらを克服し、一歩一歩前進 してきている。
素晴らしい葛飾をつくるため活躍してください。


  かつしかは、下町で人と人の付き合いを大切にしています。友達を大事に、夢を実現してください 。葛飾の基本計画のテーマは「協働」としています。皆さんの手で素晴らしいまちにしてください。と語った。

  続いて、久保区議会議長及び来賓の衆議院議員の平沢勝栄、参議院議員山口なつお、衆議院議員田村とも子さんから祝辞があった。



 新成人の司会者で祭典が勧められた。司会者たちは葛飾吹奏楽団(指揮者は大貫久)で、演奏も披露する。

  水橋 岳さん(左)と長嶋 葵さん(右)。


 ゲストに葛飾総合高校の校歌を作曲した、

 千葉県市川市生まれのシンガーソングライターの「建吾」が、曲目[星空の向こう」他2曲を披露した。

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銭湯の光=宮田栄子

「ひかり」をテーマに思案に暮れていた時に、出かけた帰り道、ひときわ明るい「ひかり」を見つけ、立ちつくした。ひかり、みーつけた・・・・・・それは、銭湯の大窓だった。


30年ぶりの銭湯

 記者はこの取材のために、30年ぶりに銭湯に浸かった。場所は葛飾区立石2丁目の「富の湯」だった。番台で迎えてくれたおばあちゃんは、30年前もそこに座って待っていてくれた。
「おじいちゃんがいなくなって、もう、風呂屋をやめるつもりだったんだけどね。娘夫婦が続けようって言ってくれてさ……。でも、私がいなくなったら、もうやめなって、言ってるんだよ。大変な仕事だもの」

 懐かしい番台の阿部俊子さんは88歳だが、元気な屈託のない笑顔で言った。

 銭湯は広い。そして、明るい。広い窓から、光があふれている。
 「明るすぎて、テレビも満足に見えないよ」
  阿部俊子さんは、むしろそう語る。


  壁の絵は当然ながら富士山だと思っていた。ところが、「隣の男湯の方がすごいんだよ、天下の剣の『箱根の山』だよ」という。
「写真、撮っといで」
 そう言われて尻込みしながら遠くから撮った。

 しかし、その箱根の山の写真は残念ながら、使えるものではなかった。記事だけとは、実に残念な想いだった・・・。

 大きな湯船は、湯のあたりが柔らかい。井戸水を汲み上げ、薪(集めた廃材)で沸かしているという。
 昔は、湯の温度が高くて、水道の水を出しっぱなしで入って、周りから白い眼で見られたが、この日の湯は やさしかった。

 いつの間にか、番台にいたおばあちゃんが隣で浸かっていて、よもやま話に花がさく。湯からあがると、定番の瓶入りコーヒー牛乳。甘露、甘露。130円なり。

煙突は銭湯の目じるし

 記者が10代の頃、どこの銭湯も、芋を洗うがごとくの状態だった。30代(30年前)に、葛飾のアパートに越して来た時、1軒おいた隣に「富の湯」があった。その頃もけっこう混んでいて、みな譲りあいながら入っていた。地理に慣れないうちは、出かけた帰りによく迷子になり、「富の湯」の煙突を見つけてはホッとししたことをおぼえている。



富の湯の煙突からは今日も力強く煙が出ていた。

銭湯の光

 葛飾区内の銭湯は、最盛期の昭和43年には156軒あったが、平成26年42軒が、かろうじて残るのみとなっている。立石、東立石地区は、60年代に16軒となり、現在、立石に4軒、東立石に1軒だけとなった。

 人口が増え、住宅が密集してきたにもかかわらず、内風呂付き住宅が当然の時代となり、銭湯に行く人がめっきり減ったことが、その原因だ。

 庶民の地といわれる葛飾で、この状態である。日本全国の銭湯があやぶまれている。

 昼は見落としてしまいそうだが、陽が落ちると遠目にも光が誘う。大窓からの光が嬉しい。愛国湯・同4丁目・ビルの1階

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『せっぺとべ』400年続くお田植え祭り(下)=郡山利行

 鹿児島・日置市日吉町の泥にまみれて、豊作を願う、せっぺとべはさらに盛り上がってきた。

 お田植え祭りは、ことし(2014)年6月1日(日)に行われた  

 神社境内に作られた臨時の神田での 『せっぺとべ』は、祭りがまだ始まったばかりなのに、せっぺとべ衆の顔は「さあ、これからだ!」と輝いていた。


 神田でのせっぺとべが終る寸前、4人の若い衆が、最後の元気を振り絞って、見事に一緒に、ダイビングした。

 せっぺとべ衆は跳ね終ると、昔からやっているように、神田の横を流れている大川で、泥を洗い流した。 

 その爽快感を想像するだけで、身震いがする。

 神社へ帰る行列の、最後部。この時、時刻は正午だった。
 神社での祭典が午前9時半に始まってから、たった2時間半の、お田植え祭り「せっぺとべ」だった。

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『せっぺとべ』400年続くお田植え祭り(中)=郡山利行

 鹿児島県日置市日吉町 八幡神社の400年つづくお田植え祭りは、ことし(2014)年6月1日(日)の行われた。

 お祭りは一段と盛り上がってきた。


 神田への御下り。

 神社での祭礼が終ると、直ちに神田へ、決められた順番で向かった。

 全ての団旗竿としべ竿が立ち並び、その下で、ほぼ全員のせっぺとべ衆が、円陣を組み、歌いながら、飛んで跳ねた。

 田植えがしやすいように、田んぼの土をこねらす意味と、田んぼの中の害虫を踏みつぶす意味があり、泥にまみれて今年一年の豊作を祈願する。

 精一杯の元気で、「せっぺとべ」踊りをすると言い伝えられている。

 この瞬間が、お田植え祭りでの、参加している者と見る者がそれぞれに、気持ちの高ぶりが最高潮に達した時だった。


 神社境内に作られた臨時の神田では、若い父親が仲間たちに見守られて、念願の長男(10ヶ月才)の両足を、どぼりと付けた。

 若い衆が、ぬる湯割りの焼酎を飲み、田の中で円陣を組み、唄を歌いながら勢いよく飛び跳ねる。

 竿が倒れそうになった時、それを防ぐ多くの仲間たちの動きが、泥田んぼの中でとても珍しく、観客から喝采を浴びていた。

 先端のしべは、絶対に田んぼに付けてはならないので、集団の名誉にかけて、せっぺとべ衆は必死である。

そして、この儀式が無事に終った瞬間に、彼らは田んぼの中で、弾かれたように飛んで跳ねる。 せっぺとべ!


 神田で、身体全体が真っ黒になった一人が、小さな女の子に泥をなすり付けようとしたら、少女は火がついたように泣き叫んで、お母さんにしがみついた。

 泥がつくと、一年が無病息災で過ごされるという、おまじないである。

 お母さんは子供の泣き叫びをかばい、写真右端のお父さんは苦笑い。

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