登山家

高橋千劔破(ちはや)さんの「名山シリーズ」三部作の完結を祝う会

 表題の出版記念会が7月17日の夕刻から、東京・千代田区の如水会館で盛大に行われた。発起人は阿刀田高、浅田次郎、新井満、加賀彦、黒井千次など各氏、あわせて12人。世話人は版元の河出書房である。

 
 高橋千劔破(ちはや)さんは日本ペンクラブの常務理事である。かつて歴史物の出版社の名編集長で、歴史物の著作に関しては第一人者だ。と同時に、著作には、『歴史を動かした女たち』『赤穂浪士』『江戸の旅人』『忠臣蔵銘々伝』など多数ある。

 立教大学時代には山岳部に所属し、登山のエピソードは多い。高校時代も修学旅行をすっぽぬかして、奥多摩・川苔山に登った、と私に教えてくれたことがあった。まさに学生時代から山男だ。


 今回の作品は、「北海道から九州まで、名山の歴史と文化と民族を掘り起こした、名山シリーズである。三部作で、百名山が完結した。それを祝う会である。


  (写真・右:高橋千劔破さん。09年6月の日本ペンクラブ・年次総会で)

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入梅前の低気温で、沢登りは断念。尾根歩き=川苔山

 6月10日、PJニュース・小田編集長と、二人して奥多摩の本仁田山(1224m)と川苔山(1363m)に登ってきた。
 当初は川苔山の逆川(さかさがわ)の沢登りだった。シャワークライム(頭から水を被る)、泳いで対岸に渡るルートだから、気温が低いと、全身ずぶ濡れになる。冷水では凍えてしまう。
「当日の気温によって決めましょう」という二段構えだった。

 当日は朝から曇り空で、気温の上昇が望めなかった。夕方からは雨の予報だ。
「沢はむずかしいですね」
 ふたりは尾根歩きに変更した。

 奥多摩駅(標高343m)からは町役場の前を通り、本仁山の登山口に着く。山葵(わさび)田が多いから、水はきれいだ。ここから一気に急登。途中、山葵田の農道に迷い込んで、10分ほどロスをした。ジグザグの登山道がどこまでも登っていく。すれ違う登山者は一人もいない。標高差が約800メートルの急登つづきだから、一般には下山ルートとして利用されている。

 小田さんは東大(本郷)、早稲田大の講師もされている。自宅から大学まではサイクリング車で通う。脚力は十二分にある。ふたりはハイペースで登る。多少は息が荒くなっても、PJニュースについて諸々と語り合う。登山者とは山頂まで、ひとりもすれ違わなかった。

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傷ついた鹿と格闘した、都会人=こぼれ話

 PJニュース編集部の小田編集長を含めた、6人のメンバーと27日に早稲田大学正門前「ママキムチ」で会合があった。吉川編集者が同日から掲載された、『田舎暮らしごっこ』の記事はとてもおもしろい、と話題として持ちだした。

 道志村(山梨県)の山間に築100年以上の一軒家がある。それを借りた、ユニークな田舎暮らしのグループ『神地倶楽部』(かんちくらぶ)のメンバーが、「自分流の田舎暮らし」をおこなっている。約10人。かれらは道志の村人とも仲良くなり、畑の耕作についても知恵を貰い、開墾している。

 囲炉裏の側で、数々の体験談を聞いたなかに、こぼれ話がある。メンバーの一人が「猟師の銃弾で傷ついた鹿と格闘した」と語った。
 記事は、事実だからといっても、すべてを書けない。都会人の中年男が角のある野生の鹿と死闘を演じた。貴重な体験だが、記事に盛り込んでも、血なまぐさい話だし、証拠写真はないし、読者には本当かな、と疑われてしまう。

 ニュースにはならなかった事実。こぼれ話として、ここで再現してみたい。親しくなった村人の猟師が鹿撃ちに連れて行ってくれたという。冬場の鹿は里に下りてくるが、禁猟区で銃は使えない。山の奥に入った。1時間半ほど経ったころ、鹿に遭遇したのだ。


 漁師が狙いを定めて撃った。銃声とともに、一頭の鹿が倒れた。北垣英俊さんは、それで死んだものだと思い、歩み寄った。突如として、血を流す鹿が立ち上がってきた。
 北垣さんと鹿は向かい合った。傷ついた鹿だから、危険だ。「どうすべきか」と思いながらも、とっさに両手で角をつかんだ。相手は野生動物だ。

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紅葉にピッケルがいるの? 北アルプス・蝶ヶ岳で

 年に一度は北アルプスに登りたい、と常づね考えている。昨年は7月初めに小田編集長とふたりして裏銀座コースを登った。ピッケルとアイゼンが役立つほど夏道は残雪で埋まっていた。
 烏帽子岳、野口五郎小屋、雲ノ平で、小田さんと別れた、そのさきは単独行で三俣蓮華から双六岳を経て新穂高温泉に下った。この山行は山小屋の主、上條文靖さん一家、伊藤正一さん一家との印象的な出会いがあった。PJニュースにそれらを掲載した。
 

 ことしは槍ヶ岳を計画した。同行者は肥田野正輝さん(ITコンサルタント)。かれが3日間の日程を取れなかったことから、眺望の良い蝶ヶ岳の2日コースを選んだ。出発は10月5日の夜行バスと決めた。
 
 10月初には北アルプスに初冠雪があったが、根雪にはならなかった。このさき降雪があれば、三千メートル級の山頂が白雪、中腹は紅葉、裾野が緑色、という最高の美観「三段染め」になる。今回の山登りには、その期待をもった。

 気象庁の週間予報では、5日から「気圧の谷」の通過よる雨だ。下界が雨でも、山頂は雪の可能性がある。ふたりはピッケル、アイゼン、ツェルト(非常テント)を持参することに決めた。

 6日の早朝、上高地に着いたときは本降りだった。ヤッケ上下を着込んで、傘を差して出発した。徳沢園から標高を上げても、雨ばかり。期待した雪にはならなかった。

 ピッケルはまさに無用の長物だ。この手の経験は過去に何度もある。雨が雪に変わって、ピッケルがない悲惨な状態を思えば、別段、苦ではない。手にする一本のピッケルの重さは難儀じゃない。

 蝶ヶ岳ヒュッテの山小屋に泊まった。富山市内の男女パーティーの酒宴に招かれて加わった。この季節に、ピッケルを手にしていた私はずいぶん目立っていたらしい。
「雪予想が外れた」というと、低気圧の読みが下手だと笑われた。さすが雪国・富山のひとだ、雪には敏感だ。

 私が富山代藩主だった佐々成政(戦国大名)の話題を持ちだすと、よく知っていますね、とそれにはずいぶん驚かれた。

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登山家・上村信太郎さんの「ギアナ高地探険記」が電子文藝館に掲載

 上村信太郎さんとは、日本山岳会で知合い、親しくさせていただいている。上村さんは群馬県出身で、高度のテクニックをもったクライマーであり、海外遠征も豊富な経験を持つ。『エベレストで何が起きているか』という著作が示すように、ヒマラヤにも精通している。こうした関連の著作が多い。

 ここ十数年は『すにーかー倶楽部』の主幹として活動する一方で、執筆活動をしている。山岳雑誌『岳人』などにも、山のエピソードを寄稿している。そのなかでユニークな紹介があった。「島崎藤村は日本山岳会のメンバーだった」という意外な事実の発掘だ。藤村といえば、日本を代表する文壇人だ。同時に、日本ペンクラブの初代会長だった。

 上村さんは日本ペンクラブの会員でもある。「ペンクラブ入会後、何もして来なかったので今回、電子文藝館に『ギアナ高地探険記』を掲載した」という案内を頂いた。

                  ロライマ山頂に立つ上村信太郎さん

                      (撮影者:小野崎良行さん)   

 38歳の上村さんが遠征隊長として、処女峰を踏破した、実体験にも基づいたノンフィクションだ。南米ギアナ高地は、地球最後の秘境だ。メンバーが決まる過程から、ストーリーが運ばれている。

 山麓には毒蛇、サソリ、毒蜘蛛がうじゃうじゃいる。遠征を希望しながら、尻込みし、参加を取りやめる女性。これらは体験記でないと描かれないものだ。
 5人の遠征隊がやがてギアナ高地に入るのだ。

『ギアナ高地探険記』日本ペンクラブ・電子文藝館

富士登山は1合目から、7月1日~3日間。修験者の道案内人として

 知人が6月23日から、沖縄にいってきた。3日間は快晴だったし、復路の旅客機の機内から、雲か突き出た富士山が見えたといい、写真を見せてくれた。
 山頂には雪がずいぶん残っている。7月1日からの富士登山の装備には、ピッケル、アイゼンが必要だ。梅雨の盛りだし、悪天候はある程度覚悟しなければならない。

「風雨と、雪で、3日間か」
 と気持ちを引き締めながら、つぶやいた。

 富士山の航空写真を見させてもらった同日、登山リーダーの畠堀操八さんから、『08年富士山完登日程表』が届いた。登山計画書の片隅に、「念のために、ピッケルを持参してください」と記載されていた。

 今回の登山の特徴は、京都・聖護院の修験者(僧侶)と信者の道案内である。畠堀操八さんがトップで、私がラストの役目。ラストは落ちてくる登山者を拾う役を担う。

 畠堀操八さん(登山家)は、富士山および周辺の史跡研究家でもある。4、5年前に、静岡県側から平安時代から富士信仰で登れていた「村山古道」を発見した。メディアにも、ずいぶん紹介されてきた。古道復活が、村おこしになると、富士宮市も力を入れていた。

 一方で、昨(07)年、林野庁が青森奥入瀬の裁判で、敗訴になった。遊歩道を歩いていた女性が、高さ約10メートルから落下した、倒木で重態となった。国に瑕疵(かし)責任あり、と認められたのだ。つまり、国が負けた。

 林野庁は、こうした裁判を怖がり、全国のあらゆる国有林の立入りの厳しい制限をはじめた。山小屋などは悲鳴を上げている。たぶんにもれず、村山古道も対象になった。林野庁静岡の課長から口頭で、「立入禁止」が伝えられたのだ。(書類を出さないところが、役人根性だけれど)。

 

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日本山岳会の総会・懇談会で

 (社)日本山岳会の総会・懇談会が5月17日、プラザエフ(四谷)で開催された。それに参加した。議決は原案通りだった。社団法人の会員は他にもあるが、こうした総会には極力参加するようにしている。どこも、予算案の議事は本音のところ、面白くない。そのうえ、活動報告書を見て、自分がいかに会で活動をしていないかと思い知らされる。


 社団法人の会員となると、議事の途中とか、一般質疑で、手を挙げて質問する人が必ずいるものだ。この質問を聞くのが楽しみの一つ。多くの場合、活動の中心にいる人たちが、手を挙げてくる。いまある課題とか、取り組みの問題点などが出てくる。
「なるほど、この会にはそういう問題があるのか」
「そういう考えがあるのか」
 と、会の動向とか、一翼とか、ものの見方などを知ることができる。
 
 昨年の大晦日に、日本山岳会・上高地研修所で、夜の酒で、「うるさい」という小言から、言い争いになったらしい。それが影響し、正月のお屠蘇の雰囲気も悪くなった、と同会の会報に取り上げられていた。
 総会の質問者は「処分を」という。「山男は、まあ、酒飲みですから。自分もそうでした」と会長は切り抜けていた。

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雪峰の硫黄岳登山は2つの目的。ひとつはTOKYO美人・3作目の写真  

 5月14、15の2日間、小田編集長(ライブドア・PJニュース)とふたりで、本沢温泉小屋に一泊し、雪の硫黄岳(2760メートル)に登ってきた。

 先月、小田さんと同計画をしていた。途轍もない春の嵐のために断念し、高尾山に変更した。今回の硫黄岳も12日、13日には台風がやってきた。出発直前まで危ぶまれたが、15日の晴れ予報に期待した。私には2つの目的があった。

 小田さんのほうはノートパソコンを持参し、山岳地でのニュース編集送信の実験があった。(山奥の自然災害:リアルタイムの記事送信)。この試みは低山の高尾山では成功していた。

 東京を出るときは、まだ強い雨が残っていた。登山口についたころは細雪。すぐに上がった。しかし、道路はぬかるみ、四輪駆動でも奥まで入れず、かなり手前から歩きはじめた。ヤッケを切ることもなく、その面では気楽な初日だ。

 本沢温泉は、日本で最高所の露天風呂がある。私は、ここでは過去からテント泊のみ。小田さんも、この小屋泊は初めてだ。
「テントにすればよかったね」
 小田さんがそのことばをくり返す。一言でいえば、観光地化された山小屋だった。

 硫黄岳一帯はここ数日間、雪が降り続いていたという。(2枚目の写真が硫黄岳全景)
   


 翌朝から登りはじめたが、雪でトレースがすべて消えていた。ルートを作りながら、腰まで埋まりながら、夏沢峠に着いた。
 小田さんはノートパソコンで、ニュース送信を試みた。電波が弱く、持続性がなく、通信は成功しなかったという。そして、登山に徹していた。

 夏沢峠から山頂まで、どこまでも、トレースのない道づくりの厳しい登攀だ。日差しが強いので、雪が緩み、膝頭、腰までも埋まる。トップは小田さんの体力に任せてしまった。

 私は昨年4月4日に、硫黄岳山頂直下で、約200メートルの滑落アクシデントを起した。(3枚目の写真・切り立った中央の部分が、スリップして滑落した地点)。ピッケルの制動で、かろうじて止めることができた。大きな怪我もなく、生きて帰れた。そのときの同行者のPJ肥田野さん(ITコンサルタント)には迷惑をかけた。今回は心苦しいので、肥田野さんには声をかけなかった。。

「硫黄岳の噴火口に落ちて、助かる人がいるんですか」と八ヶ岳の元山小屋従業員に言われたことがある。今回はその検証がしたかったのだ。正確な滑落は第二ケルン(標高2700M)から、205メートルの滑落だった。PJニュースに書く予定だ。

 登攀中に、当初予定していなかった、もうひとつの+1の話題があった。
 小田さんの友人である、新井裕己東大スキー山岳部監督(鹿島槍北壁・初スキー滑降の記録を持つ)が先月28日に五竜岳で、(冒険)スキー滑降中に死んだ。
 小田さんは新井さんは今冬にも何度か、北アルプスに登っている。前々から、穂高さんと新井さんを紹介しますよ、といわれていた。その実現がなく、新井さんは逝ってしまった。
 小田さんは、五竜岳から長根県警ヘリーで降ろされてきた新井さんの遺体と、松本空港で対面している。「顔がグチャグチャだった」という。まだ半月まえのできごとだ
          
 硫黄岳で、わたしの滑落検証を聞きながら、「九死に一生ですね」と言い、新井東大監督の死と重ね合わせていた。
 昨年は1ヵ月早く、滑落地点にもっと雪が多かったと説明した。「きょうのように岩盤がもっと露出していたら、新井さんに似た遺体でしょうね」と私は話した。まさに、+1の話題だった。

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春の大嵐で、八ヶ岳の春山登山が、「高尾山」の取材ハイクに

 今年2月、小田編集長(PJニュース)から、「3月にでも、八ヶ岳に登りましょう」と誘われた。2人は山の呼吸を良く知る。承諾した。私は日本ペンクラブ主催「世界フォーラム」の記事で、予想外に時間がとられた。そんな背景から4月8、9日に決まった。他方で、「八ヶ岳の積雪期ならば、天狗岳も良いですね」と意見を出しておいた。
 小田さんから、硫黄岳の提案があった。


 私の脳裏には、昨年のアクシデントが横切った。07年4月4日。八ヶ岳・硫黄岳の噴火口に約200メートル滑落し、九死に一生を得た。
「あんな噴火口に転落して、生きていた人がいるんですか」
 と赤岳山荘の元従業員に言われたくらいだ。切り立つ雪の斜面で、ピッケルで制動できたが、もし岩盤の突起などがあれば、叩きつけられて死んでいたと思う。
 
(昨年のアクシデントと同じ硫黄岳で、時期も数日違いだ。因縁めいているな)
 そう思ったが、それは断る理由でもなかった。今年は滑落に十二分に対処する、と心構えを作った。

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父娘で、御正体山の登山=山梨県

 空が澄み渡った快晴の下、次女と御正体山に登った。父娘(おやこ)の登山は久しぶりだ。以前はいつだったか、思い出せない。少なくとも、ことしは初めてだ。

 年初から父娘の間で、時折り、「山に登ろうか、今度いっしょにマラソンに出ようか」という話題はあがっていた。それぞれ別の生活様式を持つ。ふたりのタイミングがうまく合わなかった。11月になって、師走6日に、父娘ともに同一の日程が取れたのだ。


 私には3人の子どもがいる。長女と息子は運動など見向きもしない。
次女のみが市民マラソン(フル、ハーフ)、登山(月に3、4回)、アクアラング(海外で潜る)、自転車(離島一周)とアクティブな娘だ。年間通して山に登っているし、秋口以降はたびたびフルマラソン、ハーフマラソンに出場している。

 マラソンと登山が私には共有できる。「父娘のDNAがよく似ている」ともいわれる。ただ、私は瀬戸内の島に生まれ育ったから、娘が興味をもつ離島とか、潜水とかにまったく関心がない。お金を掛けてまで離島とか、海に泳ぐにいく気がしないからだ。海よりも、山に登ったほうが好い、という考え方で徹している。

「富士五湖周辺の山はどうかしら?」と娘が御正体山、節刃が岳、杓子岳などを候補に上げてきた。私は迷わずに御正体山ときめた。過去から一度は登りたいと思っていた山だったが、アクセスが悪く実現できていなかったからだ。


 登山計画はすべて娘に任せた。前日、娘からのメールで、村役場と市役所に電話して、雪情報を聞いてみたという。『昨日ちょっと雪が降った。山頂に残っているか否かは不明。下からみるかぎり、雪は見えない。軽アイゼンは持参しよう』という趣旨のことを伝えてきた。防寒着を含めて、それなりの用意をした。

 新宿6時26分の高尾行きの電車に乗り込んだ。大月駅で乗換え、富士急行の谷村町(やむらまち)駅で下車した。この間に地図を見ながら、稜線ルートを登ることに決めた。娘が予約していたタクシーに乗り込み、道坂(どうざか)トンネルで降りた。

 トップを歩く次女は実に余裕がある登り方だった。足は軽い感じだ。11月中旬に戸田ハーフマラソンに出場し、先週は川苔山に登っている。
 私のほうは肩の故障から、ことしマラソンに出ていない。娘との体力の差は歴然としていた。(父親に合わせた歩調だな)それが読み取れた。

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