登山家

日本山岳会の総会・懇談会で

 (社)日本山岳会の総会・懇談会が5月17日、プラザエフ(四谷)で開催された。それに参加した。議決は原案通りだった。社団法人の会員は他にもあるが、こうした総会には極力参加するようにしている。どこも、予算案の議事は本音のところ、面白くない。そのうえ、活動報告書を見て、自分がいかに会で活動をしていないかと思い知らされる。


 社団法人の会員となると、議事の途中とか、一般質疑で、手を挙げて質問する人が必ずいるものだ。この質問を聞くのが楽しみの一つ。多くの場合、活動の中心にいる人たちが、手を挙げてくる。いまある課題とか、取り組みの問題点などが出てくる。
「なるほど、この会にはそういう問題があるのか」
「そういう考えがあるのか」
 と、会の動向とか、一翼とか、ものの見方などを知ることができる。
 
 昨年の大晦日に、日本山岳会・上高地研修所で、夜の酒で、「うるさい」という小言から、言い争いになったらしい。それが影響し、正月のお屠蘇の雰囲気も悪くなった、と同会の会報に取り上げられていた。
 総会の質問者は「処分を」という。「山男は、まあ、酒飲みですから。自分もそうでした」と会長は切り抜けていた。

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雪峰の硫黄岳登山は2つの目的。ひとつはTOKYO美人・3作目の写真  

 5月14、15の2日間、小田編集長(ライブドア・PJニュース)とふたりで、本沢温泉小屋に一泊し、雪の硫黄岳(2760メートル)に登ってきた。

 先月、小田さんと同計画をしていた。途轍もない春の嵐のために断念し、高尾山に変更した。今回の硫黄岳も12日、13日には台風がやってきた。出発直前まで危ぶまれたが、15日の晴れ予報に期待した。私には2つの目的があった。

 小田さんのほうはノートパソコンを持参し、山岳地でのニュース編集送信の実験があった。(山奥の自然災害:リアルタイムの記事送信)。この試みは低山の高尾山では成功していた。

 東京を出るときは、まだ強い雨が残っていた。登山口についたころは細雪。すぐに上がった。しかし、道路はぬかるみ、四輪駆動でも奥まで入れず、かなり手前から歩きはじめた。ヤッケを切ることもなく、その面では気楽な初日だ。

 本沢温泉は、日本で最高所の露天風呂がある。私は、ここでは過去からテント泊のみ。小田さんも、この小屋泊は初めてだ。
「テントにすればよかったね」
 小田さんがそのことばをくり返す。一言でいえば、観光地化された山小屋だった。

 硫黄岳一帯はここ数日間、雪が降り続いていたという。(2枚目の写真が硫黄岳全景)
   


 翌朝から登りはじめたが、雪でトレースがすべて消えていた。ルートを作りながら、腰まで埋まりながら、夏沢峠に着いた。
 小田さんはノートパソコンで、ニュース送信を試みた。電波が弱く、持続性がなく、通信は成功しなかったという。そして、登山に徹していた。

 夏沢峠から山頂まで、どこまでも、トレースのない道づくりの厳しい登攀だ。日差しが強いので、雪が緩み、膝頭、腰までも埋まる。トップは小田さんの体力に任せてしまった。

 私は昨年4月4日に、硫黄岳山頂直下で、約200メートルの滑落アクシデントを起した。(3枚目の写真・切り立った中央の部分が、スリップして滑落した地点)。ピッケルの制動で、かろうじて止めることができた。大きな怪我もなく、生きて帰れた。そのときの同行者のPJ肥田野さん(ITコンサルタント)には迷惑をかけた。今回は心苦しいので、肥田野さんには声をかけなかった。。

「硫黄岳の噴火口に落ちて、助かる人がいるんですか」と八ヶ岳の元山小屋従業員に言われたことがある。今回はその検証がしたかったのだ。正確な滑落は第二ケルン(標高2700M)から、205メートルの滑落だった。PJニュースに書く予定だ。

 登攀中に、当初予定していなかった、もうひとつの+1の話題があった。
 小田さんの友人である、新井裕己東大スキー山岳部監督(鹿島槍北壁・初スキー滑降の記録を持つ)が先月28日に五竜岳で、(冒険)スキー滑降中に死んだ。
 小田さんは新井さんは今冬にも何度か、北アルプスに登っている。前々から、穂高さんと新井さんを紹介しますよ、といわれていた。その実現がなく、新井さんは逝ってしまった。
 小田さんは、五竜岳から長根県警ヘリーで降ろされてきた新井さんの遺体と、松本空港で対面している。「顔がグチャグチャだった」という。まだ半月まえのできごとだ
          
 硫黄岳で、わたしの滑落検証を聞きながら、「九死に一生ですね」と言い、新井東大監督の死と重ね合わせていた。
 昨年は1ヵ月早く、滑落地点にもっと雪が多かったと説明した。「きょうのように岩盤がもっと露出していたら、新井さんに似た遺体でしょうね」と私は話した。まさに、+1の話題だった。

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春の大嵐で、八ヶ岳の春山登山が、「高尾山」の取材ハイクに

 今年2月、小田編集長(PJニュース)から、「3月にでも、八ヶ岳に登りましょう」と誘われた。2人は山の呼吸を良く知る。承諾した。私は日本ペンクラブ主催「世界フォーラム」の記事で、予想外に時間がとられた。そんな背景から4月8、9日に決まった。他方で、「八ヶ岳の積雪期ならば、天狗岳も良いですね」と意見を出しておいた。
 小田さんから、硫黄岳の提案があった。


 私の脳裏には、昨年のアクシデントが横切った。07年4月4日。八ヶ岳・硫黄岳の噴火口に約200メートル滑落し、九死に一生を得た。
「あんな噴火口に転落して、生きていた人がいるんですか」
 と赤岳山荘の元従業員に言われたくらいだ。切り立つ雪の斜面で、ピッケルで制動できたが、もし岩盤の突起などがあれば、叩きつけられて死んでいたと思う。
 
(昨年のアクシデントと同じ硫黄岳で、時期も数日違いだ。因縁めいているな)
 そう思ったが、それは断る理由でもなかった。今年は滑落に十二分に対処する、と心構えを作った。

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父娘で、御正体山の登山=山梨県

 空が澄み渡った快晴の下、次女と御正体山に登った。父娘(おやこ)の登山は久しぶりだ。以前はいつだったか、思い出せない。少なくとも、ことしは初めてだ。

 年初から父娘の間で、時折り、「山に登ろうか、今度いっしょにマラソンに出ようか」という話題はあがっていた。それぞれ別の生活様式を持つ。ふたりのタイミングがうまく合わなかった。11月になって、師走6日に、父娘ともに同一の日程が取れたのだ。


 私には3人の子どもがいる。長女と息子は運動など見向きもしない。
次女のみが市民マラソン(フル、ハーフ)、登山(月に3、4回)、アクアラング(海外で潜る)、自転車(離島一周)とアクティブな娘だ。年間通して山に登っているし、秋口以降はたびたびフルマラソン、ハーフマラソンに出場している。

 マラソンと登山が私には共有できる。「父娘のDNAがよく似ている」ともいわれる。ただ、私は瀬戸内の島に生まれ育ったから、娘が興味をもつ離島とか、潜水とかにまったく関心がない。お金を掛けてまで離島とか、海に泳ぐにいく気がしないからだ。海よりも、山に登ったほうが好い、という考え方で徹している。

「富士五湖周辺の山はどうかしら?」と娘が御正体山、節刃が岳、杓子岳などを候補に上げてきた。私は迷わずに御正体山ときめた。過去から一度は登りたいと思っていた山だったが、アクセスが悪く実現できていなかったからだ。


 登山計画はすべて娘に任せた。前日、娘からのメールで、村役場と市役所に電話して、雪情報を聞いてみたという。『昨日ちょっと雪が降った。山頂に残っているか否かは不明。下からみるかぎり、雪は見えない。軽アイゼンは持参しよう』という趣旨のことを伝えてきた。防寒着を含めて、それなりの用意をした。

 新宿6時26分の高尾行きの電車に乗り込んだ。大月駅で乗換え、富士急行の谷村町(やむらまち)駅で下車した。この間に地図を見ながら、稜線ルートを登ることに決めた。娘が予約していたタクシーに乗り込み、道坂(どうざか)トンネルで降りた。

 トップを歩く次女は実に余裕がある登り方だった。足は軽い感じだ。11月中旬に戸田ハーフマラソンに出場し、先週は川苔山に登っている。
 私のほうは肩の故障から、ことしマラソンに出ていない。娘との体力の差は歴然としていた。(父親に合わせた歩調だな)それが読み取れた。

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日本山岳会・年次晩餐会=東京・品川

 日本山岳会の恒例の晩餐会が、12月1日18時から、グランドプリンスホテル新高輪・国際パミール3階「北辰」で開催された。全国から500人強の会員が参列した。会員の皇太子は『愛子さん誕生日』と公務とが重なり、参列しなかった。

 宮下秀樹会長は開会挨拶で、11月に北海道支部会員が十勝岳連峰・上ホロカメットク山(標高1920メートル)で雪崩に巻き込まれて4人死んだことへの、悼みを述べた。3人は同会が取り組む「中央分水嶺踏査」に加わっていた会員だったという。

 会長挨拶のあとは、北海道の遭難死4人を含めた物故者46名(大半が病死)への黙祷をおこなわれた。

 新名誉会員と新永年会員の発表があった。新永年会員となった中村純二さんのスピーチは、拝聴に値するものだった。
 中村さんは50年前に同会に入会された。当時は、ヨーロッパのアルピニズムにあこがれ、困難、未知の山、未踏峰に立ち向かってきたという。同時に、ヒマラヤを目指した。いまの年齢において、登山には自然と融合した東洋的な登り方があると知った。それはベルトコンベアーで登るのでなく、自分なりの山登りであるべきだと述べた。そのうえで、会員の高齢化が進むいま、東洋登山の推奨を訴えた。年齢をからめた西洋流と東洋流の登山という、切り口の良さには感心させられた。

     

 晩餐会は、第9回秩父宮記念山岳賞の受賞式が兼ねられていた。受賞者は松本征夫さん(元九大教授)で、チベット高原やシルクロードの路査研究と、今回『ヒマラヤの東、カンリガルポ山群、路査と探検史』の出版にたいして同賞が与えられたものだ。

 新入会員の代表挨拶は、深田森太郎さんで、故深田久弥(同山岳会の元副会長)さんの長男。「65歳で定年退職し、残された人生を山とともに歩みたい」と述べた。他方で、高校時代の父親のエピソードの一コマを紹介し、「山岳会サロンに行く父は、浮きうきしていた」と語った。

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乾徳山の登山と日本山岳会・101会

 9月9日。101会が主催する「乾徳山の登山」に参加した。ITコンサルタントの肥田野さんを誘った。
相乗りタクシーを降りた先の登山口で、リーダーから簡略に全員の紹介があった。参加者は15名(ビジターは、肥田野さんを含めた2人)。「たがいに2メートルの間隔をとれば、先頭と最後尾は30メートル。伝達できる範囲」とリーダーはいう。

 全員が経験豊富な登山家ばかりで、往路、復路とも脚力にも余裕がある歩き方だった。多くは学生山岳部、社会人山岳部などでリーダーだった登山家たち。登りから、下山するまで、しっかり等間隔で保たれていた。これは見事だと思った。

 パーティーのなかで、自分の行動を熟知している。各人が一歩ずつの歩幅やスピードがからだ全体でわかっているのだ。
 途中で、2人が体調不良に陥った。リーダーが付き添い、残る12人はサブリーダーが取り仕切る。リーダーの役割。それら判断がまさしく基本に徹していた。

 

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北アルプス・裏銀座縦走 雲ノ平から三俣蓮華岳③

 雲ノ平山荘で、伊藤二朗さんから2時間ほど、山小屋の諸問題について聞いた。
「山小屋がどういう立場で存在しているのか」
「国立公園とは何か」

 話は多岐にわたったが、環境省、林野庁などの行政の問題に尽きる。監督官庁の山小屋への規制は強いようだ。他方で、山小屋側から見たら、行政はさほどサポートにならない存在。つまり、規制ばかりいってくるし、何事も書類提出を求める、厄介な存在らしい。
 山小屋はもろい経営基盤の上に存在する。規制とは、他方で投資が必要になる。

 全国で焚き火禁止(一部農業を除く)。過去は山小屋の生ごみは燃やしたり埋めたりしていた。それができなくなった。生ごみは熊や鹿など野生動物を集め、生態系を狂わせてしまう。となると、ダイオキシンの出ない焼却炉の設置が必要。夏場一時期の営業の山小屋は経営基盤が弱い。とても、投資ができないと嘆く。

 雲ノ平の渇水化にも話題が及ぶ。伊藤さんは東京情報大学とのアクションプログラムで、10キロ㎡の緑化計画を推し進めるという。ふたりの話は尽きないが、出発の身支度をした。

「父親(三俣山荘の経営者)は問題意識の高い人です。かつて林野庁と単独で法廷闘争を行い、最高裁まで争いました。終止符を打ちましたが、それだけでも、父は十数年間費やしています。この機会に、ぜひ三俣山荘の父親に会って、いろいろ話を聞いてあげてください。山小屋が抱える問題はいろいろありますから」といわれた。

 ジャーナリストへの取材要請でもあった。承諾すると、「父は話し好きですし、一晩泊まられる覚悟をされたほうがいいですよ」という。

  この段階で、槍ヶ岳を経由し、上高地に下りるルートはあきらめた。三俣山荘に一泊すれば、朝四時過ぎに起きて、五時発で、双六岳を経由し、新穂高温泉(岐阜県)に下っても、夕方だろう。どんなに遅くとも、明日には東京に帰らなければならない。
 三俣山荘で貴重な山情報が得られる。それならば、翌日の強行軍もやむを得ないと割り切った。

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水晶岳の新築工事は標高2900メートル。また、難問が起きた。

この水晶岳工事は、4月にヘリが墜落し、2人の死者を出した。山小屋の伊藤圭さんは重体となった。それでも立ち上がって、3カ月後には工事の着工。他方で、ヘリ墜落で犠牲者を出した長野の業者には逃げられた。『捨てる神あれば、拾う神あり』。設計者の紹介で、新潟の業者が引き受けてくれたのだ。

7月7日から突貫工事だった。

水晶岳の新築オープンは、7/20日と北アルプスの各小屋には通達されている。登山者はそのつもりで、登山計画ぉよび行程を組んでいる。予約を受けている。

きょう17日、衛生電話で、父親の伊藤正一さん(84)と話す機会があった。「建設業者は柏崎市だったので、中越沖地震で、自宅が倒壊したとか、心配とかで、皆山から帰ってしまった」という。

ヘリの墜落と大地震。艱難辛苦を乗り越えるにしても、こんなにも波乱に満ちた、山小屋作りはあるのだろうか。
私にはもはや伊藤正一さんに同情の言葉もなかった。

※烏帽子だけから槍ヶ岳への裏銀座を縦走する登山者、日本百名山・水晶岳の登頂を目ざす方は、テントか、ツェルトを持参したほうがいいだろう。
 水晶小屋がなかった時代は、北アルプスで、最も疲労凍死が多かったルートだから。夏山だからといって、安易に考えないことだ。

野口五郎岳から水晶小屋、雲ノ平 ②

 野口五郎岳の山頂から、目指すは水晶小屋だ。2800メートル前後の稜線で、小さなピークをくり返し、登り下りする。左手にはいつまでも槍ヶ岳が同行してくれる。その面では、心地よい登山だ。

 登山靴の調子が悪い。靴底を張り替えてから2、3回とも、足の踵が靴擦れする。今回も、両足の豆がつぶれた。調布で買ったバンドエイドを張っているが、3日目ともなると、ほとんど効果ない。一歩ずつが痛みに耐えた歩き方になってしまう。

 水晶小屋の新築工事の鉄槌の音が、山岳に木霊す。前方には柱と屋根の組みが見えた。工事人の姿が豆粒程度だったが、距離が圧縮するほど2、人影が輪郭を持ってきた。

「ここから急な登りになるよ」
 小田さんの声で、まず一服する。あいかわらず休憩はショートで、すぐに歩きはじめる。
「きょうも快調?」
「いや。昨日は野口五郎小屋で、酒を飲みすぎた。多少は高山病のきらいがあるみたい」
 それにしても、かれの脚力は衰えていない。

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北アルプス・裏銀座縦走 ①

 7月6日から11日まで、小田編集長(ライブドア・PJニュース)とふたりで裏銀座を縦走した。山小屋の方々と親交が重ねられた。私の過去の北アルプス登山はテント露営がほとんどで、山小屋の実態を知らなかった。

 他方で、小田さんが裏銀座の山小屋の人たちと、ことのほか親しく、家族のようだった。

 今回はいっさい記事を書かず、登山だけを楽しむ。つまり、下界を忘れたい、一念だった。小田さんから紹介された山小屋の人たちとおもいのほか交流が深められた。
 山小屋の主人たちから、深刻な悩みを打ち明けられた。山小屋がおかれている現在の窮地。それを、ジャーナリストとして、世の中に発信して欲しいと強い要請を受けた。
「穂高さん、書いてあげなさいよ」と小田さんから薦められた。
 私は記事を書く約束をした。
 社会的に影響ある記事なので、PJニュースの記事掲載などと平行して、裏銀座の山行を紹介していく。

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