登山家

紅葉にピッケルがいるの? 北アルプス・蝶ヶ岳で

 年に一度は北アルプスに登りたい、と常づね考えている。昨年は7月初めに小田編集長とふたりして裏銀座コースを登った。ピッケルとアイゼンが役立つほど夏道は残雪で埋まっていた。
 烏帽子岳、野口五郎小屋、雲ノ平で、小田さんと別れた、そのさきは単独行で三俣蓮華から双六岳を経て新穂高温泉に下った。この山行は山小屋の主、上條文靖さん一家、伊藤正一さん一家との印象的な出会いがあった。PJニュースにそれらを掲載した。
 

 ことしは槍ヶ岳を計画した。同行者は肥田野正輝さん(ITコンサルタント)。かれが3日間の日程を取れなかったことから、眺望の良い蝶ヶ岳の2日コースを選んだ。出発は10月5日の夜行バスと決めた。
 
 10月初には北アルプスに初冠雪があったが、根雪にはならなかった。このさき降雪があれば、三千メートル級の山頂が白雪、中腹は紅葉、裾野が緑色、という最高の美観「三段染め」になる。今回の山登りには、その期待をもった。

 気象庁の週間予報では、5日から「気圧の谷」の通過よる雨だ。下界が雨でも、山頂は雪の可能性がある。ふたりはピッケル、アイゼン、ツェルト(非常テント)を持参することに決めた。

 6日の早朝、上高地に着いたときは本降りだった。ヤッケ上下を着込んで、傘を差して出発した。徳沢園から標高を上げても、雨ばかり。期待した雪にはならなかった。

 ピッケルはまさに無用の長物だ。この手の経験は過去に何度もある。雨が雪に変わって、ピッケルがない悲惨な状態を思えば、別段、苦ではない。手にする一本のピッケルの重さは難儀じゃない。

 蝶ヶ岳ヒュッテの山小屋に泊まった。富山市内の男女パーティーの酒宴に招かれて加わった。この季節に、ピッケルを手にしていた私はずいぶん目立っていたらしい。
「雪予想が外れた」というと、低気圧の読みが下手だと笑われた。さすが雪国・富山のひとだ、雪には敏感だ。

 私が富山代藩主だった佐々成政(戦国大名)の話題を持ちだすと、よく知っていますね、とそれにはずいぶん驚かれた。

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登山家・上村信太郎さんの「ギアナ高地探険記」が電子文藝館に掲載

 上村信太郎さんとは、日本山岳会で知合い、親しくさせていただいている。上村さんは群馬県出身で、高度のテクニックをもったクライマーであり、海外遠征も豊富な経験を持つ。『エベレストで何が起きているか』という著作が示すように、ヒマラヤにも精通している。こうした関連の著作が多い。

 ここ十数年は『すにーかー倶楽部』の主幹として活動する一方で、執筆活動をしている。山岳雑誌『岳人』などにも、山のエピソードを寄稿している。そのなかでユニークな紹介があった。「島崎藤村は日本山岳会のメンバーだった」という意外な事実の発掘だ。藤村といえば、日本を代表する文壇人だ。同時に、日本ペンクラブの初代会長だった。

 上村さんは日本ペンクラブの会員でもある。「ペンクラブ入会後、何もして来なかったので今回、電子文藝館に『ギアナ高地探険記』を掲載した」という案内を頂いた。

                  ロライマ山頂に立つ上村信太郎さん

                      (撮影者:小野崎良行さん)   

 38歳の上村さんが遠征隊長として、処女峰を踏破した、実体験にも基づいたノンフィクションだ。南米ギアナ高地は、地球最後の秘境だ。メンバーが決まる過程から、ストーリーが運ばれている。

 山麓には毒蛇、サソリ、毒蜘蛛がうじゃうじゃいる。遠征を希望しながら、尻込みし、参加を取りやめる女性。これらは体験記でないと描かれないものだ。
 5人の遠征隊がやがてギアナ高地に入るのだ。

『ギアナ高地探険記』日本ペンクラブ・電子文藝館

富士登山は1合目から、7月1日~3日間。修験者の道案内人として

 知人が6月23日から、沖縄にいってきた。3日間は快晴だったし、復路の旅客機の機内から、雲か突き出た富士山が見えたといい、写真を見せてくれた。
 山頂には雪がずいぶん残っている。7月1日からの富士登山の装備には、ピッケル、アイゼンが必要だ。梅雨の盛りだし、悪天候はある程度覚悟しなければならない。

「風雨と、雪で、3日間か」
 と気持ちを引き締めながら、つぶやいた。

 富士山の航空写真を見させてもらった同日、登山リーダーの畠堀操八さんから、『08年富士山完登日程表』が届いた。登山計画書の片隅に、「念のために、ピッケルを持参してください」と記載されていた。

 今回の登山の特徴は、京都・聖護院の修験者(僧侶)と信者の道案内である。畠堀操八さんがトップで、私がラストの役目。ラストは落ちてくる登山者を拾う役を担う。

 畠堀操八さん(登山家)は、富士山および周辺の史跡研究家でもある。4、5年前に、静岡県側から平安時代から富士信仰で登れていた「村山古道」を発見した。メディアにも、ずいぶん紹介されてきた。古道復活が、村おこしになると、富士宮市も力を入れていた。

 一方で、昨(07)年、林野庁が青森奥入瀬の裁判で、敗訴になった。遊歩道を歩いていた女性が、高さ約10メートルから落下した、倒木で重態となった。国に瑕疵(かし)責任あり、と認められたのだ。つまり、国が負けた。

 林野庁は、こうした裁判を怖がり、全国のあらゆる国有林の立入りの厳しい制限をはじめた。山小屋などは悲鳴を上げている。たぶんにもれず、村山古道も対象になった。林野庁静岡の課長から口頭で、「立入禁止」が伝えられたのだ。(書類を出さないところが、役人根性だけれど)。

 

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日本山岳会の総会・懇談会で

 (社)日本山岳会の総会・懇談会が5月17日、プラザエフ(四谷)で開催された。それに参加した。議決は原案通りだった。社団法人の会員は他にもあるが、こうした総会には極力参加するようにしている。どこも、予算案の議事は本音のところ、面白くない。そのうえ、活動報告書を見て、自分がいかに会で活動をしていないかと思い知らされる。


 社団法人の会員となると、議事の途中とか、一般質疑で、手を挙げて質問する人が必ずいるものだ。この質問を聞くのが楽しみの一つ。多くの場合、活動の中心にいる人たちが、手を挙げてくる。いまある課題とか、取り組みの問題点などが出てくる。
「なるほど、この会にはそういう問題があるのか」
「そういう考えがあるのか」
 と、会の動向とか、一翼とか、ものの見方などを知ることができる。
 
 昨年の大晦日に、日本山岳会・上高地研修所で、夜の酒で、「うるさい」という小言から、言い争いになったらしい。それが影響し、正月のお屠蘇の雰囲気も悪くなった、と同会の会報に取り上げられていた。
 総会の質問者は「処分を」という。「山男は、まあ、酒飲みですから。自分もそうでした」と会長は切り抜けていた。

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雪峰の硫黄岳登山は2つの目的。ひとつはTOKYO美人・3作目の写真  

 5月14、15の2日間、小田編集長(ライブドア・PJニュース)とふたりで、本沢温泉小屋に一泊し、雪の硫黄岳(2760メートル)に登ってきた。

 先月、小田さんと同計画をしていた。途轍もない春の嵐のために断念し、高尾山に変更した。今回の硫黄岳も12日、13日には台風がやってきた。出発直前まで危ぶまれたが、15日の晴れ予報に期待した。私には2つの目的があった。

 小田さんのほうはノートパソコンを持参し、山岳地でのニュース編集送信の実験があった。(山奥の自然災害:リアルタイムの記事送信)。この試みは低山の高尾山では成功していた。

 東京を出るときは、まだ強い雨が残っていた。登山口についたころは細雪。すぐに上がった。しかし、道路はぬかるみ、四輪駆動でも奥まで入れず、かなり手前から歩きはじめた。ヤッケを切ることもなく、その面では気楽な初日だ。

 本沢温泉は、日本で最高所の露天風呂がある。私は、ここでは過去からテント泊のみ。小田さんも、この小屋泊は初めてだ。
「テントにすればよかったね」
 小田さんがそのことばをくり返す。一言でいえば、観光地化された山小屋だった。

 硫黄岳一帯はここ数日間、雪が降り続いていたという。(2枚目の写真が硫黄岳全景)
   


 翌朝から登りはじめたが、雪でトレースがすべて消えていた。ルートを作りながら、腰まで埋まりながら、夏沢峠に着いた。
 小田さんはノートパソコンで、ニュース送信を試みた。電波が弱く、持続性がなく、通信は成功しなかったという。そして、登山に徹していた。

 夏沢峠から山頂まで、どこまでも、トレースのない道づくりの厳しい登攀だ。日差しが強いので、雪が緩み、膝頭、腰までも埋まる。トップは小田さんの体力に任せてしまった。

 私は昨年4月4日に、硫黄岳山頂直下で、約200メートルの滑落アクシデントを起した。(3枚目の写真・切り立った中央の部分が、スリップして滑落した地点)。ピッケルの制動で、かろうじて止めることができた。大きな怪我もなく、生きて帰れた。そのときの同行者のPJ肥田野さん(ITコンサルタント)には迷惑をかけた。今回は心苦しいので、肥田野さんには声をかけなかった。。

「硫黄岳の噴火口に落ちて、助かる人がいるんですか」と八ヶ岳の元山小屋従業員に言われたことがある。今回はその検証がしたかったのだ。正確な滑落は第二ケルン(標高2700M)から、205メートルの滑落だった。PJニュースに書く予定だ。

 登攀中に、当初予定していなかった、もうひとつの+1の話題があった。
 小田さんの友人である、新井裕己東大スキー山岳部監督(鹿島槍北壁・初スキー滑降の記録を持つ)が先月28日に五竜岳で、(冒険)スキー滑降中に死んだ。
 小田さんは新井さんは今冬にも何度か、北アルプスに登っている。前々から、穂高さんと新井さんを紹介しますよ、といわれていた。その実現がなく、新井さんは逝ってしまった。
 小田さんは、五竜岳から長根県警ヘリーで降ろされてきた新井さんの遺体と、松本空港で対面している。「顔がグチャグチャだった」という。まだ半月まえのできごとだ
          
 硫黄岳で、わたしの滑落検証を聞きながら、「九死に一生ですね」と言い、新井東大監督の死と重ね合わせていた。
 昨年は1ヵ月早く、滑落地点にもっと雪が多かったと説明した。「きょうのように岩盤がもっと露出していたら、新井さんに似た遺体でしょうね」と私は話した。まさに、+1の話題だった。

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春の大嵐で、八ヶ岳の春山登山が、「高尾山」の取材ハイクに

 今年2月、小田編集長(PJニュース)から、「3月にでも、八ヶ岳に登りましょう」と誘われた。2人は山の呼吸を良く知る。承諾した。私は日本ペンクラブ主催「世界フォーラム」の記事で、予想外に時間がとられた。そんな背景から4月8、9日に決まった。他方で、「八ヶ岳の積雪期ならば、天狗岳も良いですね」と意見を出しておいた。
 小田さんから、硫黄岳の提案があった。


 私の脳裏には、昨年のアクシデントが横切った。07年4月4日。八ヶ岳・硫黄岳の噴火口に約200メートル滑落し、九死に一生を得た。
「あんな噴火口に転落して、生きていた人がいるんですか」
 と赤岳山荘の元従業員に言われたくらいだ。切り立つ雪の斜面で、ピッケルで制動できたが、もし岩盤の突起などがあれば、叩きつけられて死んでいたと思う。
 
(昨年のアクシデントと同じ硫黄岳で、時期も数日違いだ。因縁めいているな)
 そう思ったが、それは断る理由でもなかった。今年は滑落に十二分に対処する、と心構えを作った。

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父娘で、御正体山の登山=山梨県

 空が澄み渡った快晴の下、次女と御正体山に登った。父娘(おやこ)の登山は久しぶりだ。以前はいつだったか、思い出せない。少なくとも、ことしは初めてだ。

 年初から父娘の間で、時折り、「山に登ろうか、今度いっしょにマラソンに出ようか」という話題はあがっていた。それぞれ別の生活様式を持つ。ふたりのタイミングがうまく合わなかった。11月になって、師走6日に、父娘ともに同一の日程が取れたのだ。


 私には3人の子どもがいる。長女と息子は運動など見向きもしない。
次女のみが市民マラソン(フル、ハーフ)、登山(月に3、4回)、アクアラング(海外で潜る)、自転車(離島一周)とアクティブな娘だ。年間通して山に登っているし、秋口以降はたびたびフルマラソン、ハーフマラソンに出場している。

 マラソンと登山が私には共有できる。「父娘のDNAがよく似ている」ともいわれる。ただ、私は瀬戸内の島に生まれ育ったから、娘が興味をもつ離島とか、潜水とかにまったく関心がない。お金を掛けてまで離島とか、海に泳ぐにいく気がしないからだ。海よりも、山に登ったほうが好い、という考え方で徹している。

「富士五湖周辺の山はどうかしら?」と娘が御正体山、節刃が岳、杓子岳などを候補に上げてきた。私は迷わずに御正体山ときめた。過去から一度は登りたいと思っていた山だったが、アクセスが悪く実現できていなかったからだ。


 登山計画はすべて娘に任せた。前日、娘からのメールで、村役場と市役所に電話して、雪情報を聞いてみたという。『昨日ちょっと雪が降った。山頂に残っているか否かは不明。下からみるかぎり、雪は見えない。軽アイゼンは持参しよう』という趣旨のことを伝えてきた。防寒着を含めて、それなりの用意をした。

 新宿6時26分の高尾行きの電車に乗り込んだ。大月駅で乗換え、富士急行の谷村町(やむらまち)駅で下車した。この間に地図を見ながら、稜線ルートを登ることに決めた。娘が予約していたタクシーに乗り込み、道坂(どうざか)トンネルで降りた。

 トップを歩く次女は実に余裕がある登り方だった。足は軽い感じだ。11月中旬に戸田ハーフマラソンに出場し、先週は川苔山に登っている。
 私のほうは肩の故障から、ことしマラソンに出ていない。娘との体力の差は歴然としていた。(父親に合わせた歩調だな)それが読み取れた。

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日本山岳会・年次晩餐会=東京・品川

 日本山岳会の恒例の晩餐会が、12月1日18時から、グランドプリンスホテル新高輪・国際パミール3階「北辰」で開催された。全国から500人強の会員が参列した。会員の皇太子は『愛子さん誕生日』と公務とが重なり、参列しなかった。

 宮下秀樹会長は開会挨拶で、11月に北海道支部会員が十勝岳連峰・上ホロカメットク山(標高1920メートル)で雪崩に巻き込まれて4人死んだことへの、悼みを述べた。3人は同会が取り組む「中央分水嶺踏査」に加わっていた会員だったという。

 会長挨拶のあとは、北海道の遭難死4人を含めた物故者46名(大半が病死)への黙祷をおこなわれた。

 新名誉会員と新永年会員の発表があった。新永年会員となった中村純二さんのスピーチは、拝聴に値するものだった。
 中村さんは50年前に同会に入会された。当時は、ヨーロッパのアルピニズムにあこがれ、困難、未知の山、未踏峰に立ち向かってきたという。同時に、ヒマラヤを目指した。いまの年齢において、登山には自然と融合した東洋的な登り方があると知った。それはベルトコンベアーで登るのでなく、自分なりの山登りであるべきだと述べた。そのうえで、会員の高齢化が進むいま、東洋登山の推奨を訴えた。年齢をからめた西洋流と東洋流の登山という、切り口の良さには感心させられた。

     

 晩餐会は、第9回秩父宮記念山岳賞の受賞式が兼ねられていた。受賞者は松本征夫さん(元九大教授)で、チベット高原やシルクロードの路査研究と、今回『ヒマラヤの東、カンリガルポ山群、路査と探検史』の出版にたいして同賞が与えられたものだ。

 新入会員の代表挨拶は、深田森太郎さんで、故深田久弥(同山岳会の元副会長)さんの長男。「65歳で定年退職し、残された人生を山とともに歩みたい」と述べた。他方で、高校時代の父親のエピソードの一コマを紹介し、「山岳会サロンに行く父は、浮きうきしていた」と語った。

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乾徳山の登山と日本山岳会・101会

 9月9日。101会が主催する「乾徳山の登山」に参加した。ITコンサルタントの肥田野さんを誘った。
相乗りタクシーを降りた先の登山口で、リーダーから簡略に全員の紹介があった。参加者は15名(ビジターは、肥田野さんを含めた2人)。「たがいに2メートルの間隔をとれば、先頭と最後尾は30メートル。伝達できる範囲」とリーダーはいう。

 全員が経験豊富な登山家ばかりで、往路、復路とも脚力にも余裕がある歩き方だった。多くは学生山岳部、社会人山岳部などでリーダーだった登山家たち。登りから、下山するまで、しっかり等間隔で保たれていた。これは見事だと思った。

 パーティーのなかで、自分の行動を熟知している。各人が一歩ずつの歩幅やスピードがからだ全体でわかっているのだ。
 途中で、2人が体調不良に陥った。リーダーが付き添い、残る12人はサブリーダーが取り仕切る。リーダーの役割。それら判断がまさしく基本に徹していた。

 

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北アルプス・裏銀座縦走 雲ノ平から三俣蓮華岳③

 雲ノ平山荘で、伊藤二朗さんから2時間ほど、山小屋の諸問題について聞いた。
「山小屋がどういう立場で存在しているのか」
「国立公園とは何か」

 話は多岐にわたったが、環境省、林野庁などの行政の問題に尽きる。監督官庁の山小屋への規制は強いようだ。他方で、山小屋側から見たら、行政はさほどサポートにならない存在。つまり、規制ばかりいってくるし、何事も書類提出を求める、厄介な存在らしい。
 山小屋はもろい経営基盤の上に存在する。規制とは、他方で投資が必要になる。

 全国で焚き火禁止(一部農業を除く)。過去は山小屋の生ごみは燃やしたり埋めたりしていた。それができなくなった。生ごみは熊や鹿など野生動物を集め、生態系を狂わせてしまう。となると、ダイオキシンの出ない焼却炉の設置が必要。夏場一時期の営業の山小屋は経営基盤が弱い。とても、投資ができないと嘆く。

 雲ノ平の渇水化にも話題が及ぶ。伊藤さんは東京情報大学とのアクションプログラムで、10キロ㎡の緑化計画を推し進めるという。ふたりの話は尽きないが、出発の身支度をした。

「父親(三俣山荘の経営者)は問題意識の高い人です。かつて林野庁と単独で法廷闘争を行い、最高裁まで争いました。終止符を打ちましたが、それだけでも、父は十数年間費やしています。この機会に、ぜひ三俣山荘の父親に会って、いろいろ話を聞いてあげてください。山小屋が抱える問題はいろいろありますから」といわれた。

 ジャーナリストへの取材要請でもあった。承諾すると、「父は話し好きですし、一晩泊まられる覚悟をされたほうがいいですよ」という。

  この段階で、槍ヶ岳を経由し、上高地に下りるルートはあきらめた。三俣山荘に一泊すれば、朝四時過ぎに起きて、五時発で、双六岳を経由し、新穂高温泉(岐阜県)に下っても、夕方だろう。どんなに遅くとも、明日には東京に帰らなければならない。
 三俣山荘で貴重な山情報が得られる。それならば、翌日の強行軍もやむを得ないと割り切った。

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