A045-かつしかPPクラブ

人情を 未来へ (中) = 郡山利行

 縁があって取材した人達は皆、親の仕事を受け継いでいる人ばかりだった。
 そして、受け継ぐことを当たり前のこととして、ごく自然に語って下さったことも、共通していた。 

菊島小児科医院 菊島院長の思い


 葛飾区の南西部一帯では知らない人はいないと言ってもいい、菊島小児科医院の菊島秀丸院長は、1958(昭和33)年生まれ、55歳。
 父親の竹丸院長と二人で医院を開業していた時には、先代は、地域の人達から、親しみを込めて≪大(おー)先生≫と、呼ばれていた。

 先代が1957(昭和32)に開業した医院を、1993(平成5)年に引継いで、約20年経った今、≪若先生≫との愛称で、父親に負けない、地域での信頼を得ている。 小さい頃から跡を継ぐように言われて育ち、実際にこの道を選ぶことに、迷いはなかったという。


「 私が高校受験で夜中まで勉強していた時、2階の私の部屋だけいつも電灯が付いていたためでしょうか、小児科なのに、玄関のドアをたたく大人の人が時々いました。 

 この地域の工場で働いている人達でした。 父は、その人達を必ず診察してあげていました。 そのため地域の働く人達には、≪当たり前の先生≫になっていました。 診てもらって安心した患者さん達は嬉しくなって、立石駅の近くの店で、一杯やって家に帰っていたそうです 」と、息子の秀丸院長は、父親院長の思い出を語った。


「 この地域は、商店は自営で、工場は家内工業という、職住一体の生活環境だったので、母親のほとんどは、一日中乳幼児をおんぶしていました。
 そのため、具合が悪くなった子どもの様子が、母親にもよくわからずに 『大変です!』 と駆け込んできました。その時、父は私に、『それぞれの家の生活環境を、具体的にしっかり聞いた上で、診察するんだよ』 と、この地で子どもの治療に携わる姿勢を、語り継いでくれました 」

葛飾区東立石3丁目にある、菊島小児科医院は、地域の人達にとって・・・・・、

「 息子たちは、そりゃもう、いつもいつも、たっぷりお世話になりましたよ 」(岡島さん)
「 少し遠かったけど、息子を何回も連れていきましたよ。 混んでたなァ 」(福本さん)


「 菊島さんはですね、なんてったって、私が≪お得意さま≫でしたよ、それ位お世話になりました 」(増田屋中山さん)
「 若先生に、子どもはもちろん、おー先生には、私までいつも診てもらいましたよ 」(立石の小料理屋おかみさん)

現在は、予約制になっているので、以前のような、待合室の大混雑風景は、なくなった。


 夫婦共働きが多い生活環境で、最近の子どもの健康について、菊島院長は次のように語った。
 「 年間を通して、乾燥肌といった皮膚のトラブルと、便秘症が多いですね。 乾燥肌は、乳幼児に過度な薄着をさせる、育児の傾向がみられるためです。 便秘症は、子どもが朝起きてから、家を出るまでの時間が、少ないのでなりやすいのです。

 そして子どもも親も、便秘の状態を、当たり前だと思ってしまっているのですよ。 腹痛が起きたりして、ようやく親が気付くことが多いのです。 子どもの健康を第一に考えて、朝の時間を工夫して欲しいです 」

「 小学生の頃、この先のマブチモーターの工場は、時々不良品のおもちゃを、そのまま山のようにゴミとして、工場の外に捨てたのですよ。 聞きつけた仲間達と飛んで行って、いっぱい持って帰りました。 そのおもちゃをばらして、小さなモーターの中にある、永久磁石と巻きつけてあるコイルを手に入れることが、それはもう最高に嬉しかったですね 」

その少年が、やがて子どもを診る医者になって、地域の子ども達の健康を守っている。

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