A045-かつしかPPクラブ

銭湯の光=宮田栄子

「ひかり」をテーマに思案に暮れていた時に、出かけた帰り道、ひときわ明るい「ひかり」を見つけ、立ちつくした。ひかり、みーつけた・・・・・・それは、銭湯の大窓だった。


30年ぶりの銭湯

 記者はこの取材のために、30年ぶりに銭湯に浸かった。場所は葛飾区立石2丁目の「富の湯」だった。番台で迎えてくれたおばあちゃんは、30年前もそこに座って待っていてくれた。
「おじいちゃんがいなくなって、もう、風呂屋をやめるつもりだったんだけどね。娘夫婦が続けようって言ってくれてさ……。でも、私がいなくなったら、もうやめなって、言ってるんだよ。大変な仕事だもの」

 懐かしい番台の阿部俊子さんは88歳だが、元気な屈託のない笑顔で言った。

 銭湯は広い。そして、明るい。広い窓から、光があふれている。
 「明るすぎて、テレビも満足に見えないよ」
  阿部俊子さんは、むしろそう語る。


  壁の絵は当然ながら富士山だと思っていた。ところが、「隣の男湯の方がすごいんだよ、天下の剣の『箱根の山』だよ」という。
「写真、撮っといで」
 そう言われて尻込みしながら遠くから撮った。

 しかし、その箱根の山の写真は残念ながら、使えるものではなかった。記事だけとは、実に残念な想いだった・・・。

 大きな湯船は、湯のあたりが柔らかい。井戸水を汲み上げ、薪(集めた廃材)で沸かしているという。
 昔は、湯の温度が高くて、水道の水を出しっぱなしで入って、周りから白い眼で見られたが、この日の湯は やさしかった。

 いつの間にか、番台にいたおばあちゃんが隣で浸かっていて、よもやま話に花がさく。湯からあがると、定番の瓶入りコーヒー牛乳。甘露、甘露。130円なり。

煙突は銭湯の目じるし

 記者が10代の頃、どこの銭湯も、芋を洗うがごとくの状態だった。30代(30年前)に、葛飾のアパートに越して来た時、1軒おいた隣に「富の湯」があった。その頃もけっこう混んでいて、みな譲りあいながら入っていた。地理に慣れないうちは、出かけた帰りによく迷子になり、「富の湯」の煙突を見つけてはホッとししたことをおぼえている。



富の湯の煙突からは今日も力強く煙が出ていた。

銭湯の光

 葛飾区内の銭湯は、最盛期の昭和43年には156軒あったが、平成26年42軒が、かろうじて残るのみとなっている。立石、東立石地区は、60年代に16軒となり、現在、立石に4軒、東立石に1軒だけとなった。

 人口が増え、住宅が密集してきたにもかかわらず、内風呂付き住宅が当然の時代となり、銭湯に行く人がめっきり減ったことが、その原因だ。

 庶民の地といわれる葛飾で、この状態である。日本全国の銭湯があやぶまれている。

 昼は見落としてしまいそうだが、陽が落ちると遠目にも光が誘う。大窓からの光が嬉しい。愛国湯・同4丁目・ビルの1階


 居酒屋やコインランドリーの並ぶ路地の奥に、まるでアニメの「千と千尋の神隠し」の湯屋のように浮かび上がっていた。
                    成弘湯・同6丁目

 夜になると、人通りが少なくなる。年配者がリュックを背負ってやってくる。ここには銭湯の数が段々少なくなっている現実がある。
 遠くから足を運んでくる。お年寄りには負担がかかる。  東立石2丁目・「喜久の湯」


 都内の入浴料金はどのように推移してきたのだろうか。(単位・円)

 興味深いのは、昭和45年より洗髪料がなくなったことである。さらに、物価スライドにより、ほとんど毎年値上がりしていた入浴料は、平成20年でストップしている。

 (東京都浴場組合資料より)


【図表を大きくみたいとき】 写真の上にカーソルを置いて、左クリックしてください。拡大されます。


 今回の体験取材で、「湯船」とは、よくぞ名付けたと思う。

 銭湯の広い湯船につかっていると、まるで舟に横たわって、大海原に放たれたような開放感がある。
久しぶりの銭湯。すっかりはまってしまった。
 一方で、一つの文化としても銭湯を残して行くための努力が必要だと知った。

 内風呂があっても、折々に、銭湯を利用したいものだ。湯船や流し場で、ごく自然に交わす会話から、町の情報がたっぷりある。「近所づきあい」も取り戻せる。ひとの心と気持ちも和んでくる。

 銭湯の灯を守るためにも、さあ、これからみんなで、銭湯に行こう。銭湯の光が街と心を照らしてくれる。

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