3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(13)気仙沼大島=ビル屋上の座礁船に乗る

 気仙沼大島の仮設住宅で、3月27日夕方6時半から、女性陣7人と懇談方式で取材活動をしていた。そのさなか、夜8時ちょうどに岩手沖地震が発生した。

 みんなの目がTVに釘付けになった。

 同島は震度5弱(4かも)だったことから、3.11以来の大きな揺れだな、とだれもが話していた。
「3.11の時、最初はこのくらいの揺れでしたよ。長いな、と思っていると、こんどはどーんと大きな揺れがきた」と話す。

 現地の聞き取りでは、多くの人が地震の揺れの前にゴーという地鳴りがしたという。私には体験がないだけに、巧く表現できないが、それで地震が来ると、察知したらしい。

 同島の地盤が約1メートルほど下がり、潮の満干に関係なく砂浜が消えた。地盤全体が一気に下がり、地割れがしたりするのだから、地面がうなっても当然だろう、と理解できた。


 3.11の話になった。
 気仙沼市街地の石油タンクが火災になった・その火災から、大島のカキ養殖イカダに火がついた。それが燈篭流しのように、大島海峡を左右に行き来していたと話す。

『船底一枚下は地獄』という格言がある。彼女たちは子どものころから、漁師の嫁になればリスクがある、とごく自然に叩き込まれているのだろう。身内・親戚の漁師の死すらも、湿っぽくない。

時には笑い転げたり、冗談を言ったりする。

「早く逃げろ、逃げろ、と大声でいったのに。位牌を取りに行って、爺ちゃんは死んでしもう。位牌を取りにいかないものが生きて、位牌を取りに行ったのが死んだ」
「爺ちゃんとは祖父ですか」
「ちがう、実の父親よね」
 父ちゃんといえば、亭主のことである。
 これらが話のなかで飲み込めるまで、かなり時間を要した。

「うちらはタオル一本もちださないから、生きているんよね」
 漁師の奥さん連中は、災難すら磊落(らいらく)に話す。

 仮設住宅の人たちは大津波で、家屋が全壊し、漁船を失っている。

 小倉(仮名)さんは所有のカキ漁船が津波にやられたと、あきらめていた。ところが気仙沼市街地のビルの屋上に乗っていた。

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小説取材ノート(12)陸前高田=引取り手のない遺骨が25体

 3.11小説取材で3月下旬も、陸前高田市を訪ねた。ある寺の本堂では、身元不明の遺骨が宗派を超えて、花が飾られた祭壇に祀られていた。市の管理であるが、住職は毎日、読経をあげている。

 陸前高田市はとてつもなく2000人強の被害者を出した。3.11の発生後から、市街地および海洋で発見、収集された遺体の破損はひどく、多くが身元不明者だった。4月8日から、トラックで千葉市と佐倉市の火葬場に運ばれた。

「身寄りもないご遺体ですから、誰にも送られることなく、ひっそりと火葬されているのかと思っていました。しかし、両火葬場では、市長さんや議員、数々の人が喪服で、お見送りしていただいていたと、それを聞いたとき、私の涙が止まりませんでした」
 住職の奥さんが目を潤ませながら、そう語っていた。

 ピーク時には360体の身元不明の遺骨が安置されていたという。現在でも身元がわからない遺骨が25体あった。それら遺骨には「矢作OOO」などの番号を記す。名前がわからないから当然といえば、それまでだが、妙に悲しみを誘う。

 全国からお菓子とか、線香とか、山形県の小学生が作った千羽鶴が送られてきていた。静岡県からは「千体仏の彫刻」もあった。それらの顔は悲しみに満ちている。紙粘土のおひな様、松の地蔵菩薩など、多種が供えられていた。

 故人の氏名がロウソク一本ずつに書かれていた。住職はそれを日々に取り換えて灯りをともしている、と話す。

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小説取材ノート(11)気仙沼大島=1000年前からの伝説

  気仙沼港から25分の気仙沼大島・浦の浜港に渡った。気仙沼大島はこれまで「緑の真珠」と言われてきた。3.11の大津波で、美しい海岸と砂浜が無残な姿になった。


 大津波が来ると、島が3つに割れる、という伝説があった。1000年前から伝わったのではないか、と推測されている。

 気仙沼大島は起伏の多い地形である。3.11の大津波は、太平洋側と気仙沼側(戻り津波)の双方から、20メートルの高さで同島を襲った。島の中央部で合流し、島を2つに分断したのだ。
 南部では盛り土の新道路があったので、津波の合流は堰き止まった。(島の東西を結ぶ舗装道路がなければ、津波の高さからして島は3つに分断されていた)。地形通りならば、「伝説の三分断」だった。

 それは単なる民話の世界でなく、いま現在も、島民に訊いても、子どもの頃から「親や、祖父母から聞いて知っていました。半信半疑でしたけど」という。
 明治大津波、昭和大津波、ペルー地震でも、島は分断されなかった。それでも大津波の三島分断の伝説は子々孫々まで、平成時代まで語り継がれてきていたのだ。
 
 瀬戸内海の雄・村上水軍は鎌倉時代から百戦錬磨だった。倭寇として中国大陸にも渡る。織田信長との海戦に勝った。やがて、秀吉に敗れた。その落ち武者が熊野からさらに北上し、気仙沼大島に落ち延びたという。同島には村上を名乗る家が多い。(島の語り部の話し)。
 海を知り尽くした村上水軍の末裔だけに、島民に津波の恐怖を警告し、避難路を意識させてきた。約1000年前からても、消えない素地と風土とがあったのだろう。

 3.11では、同島・浦の浜と気仙沼港を結ぶフェリー3隻がすべて被害に遭った。一隻は燃えて炎上し、他の2隻は陸に打ち上げられている。
 電話もケータイもつながらない。救援も仰げない。そのうえ、多くの人が避難した亀山が火災に遭った。山火事の消火の要請はできず、島民たちは孤立した恐怖に襲われた。山火事は山頂まで達した。
「まるで地獄にいるようだった」
 そう語る島民は、ひたすら自らの手で消すしかなかったのだ。(みんなの作品・伊東勝正さんが当時の写真提供)。

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小説取材ノート(10)気仙沼=小学校教諭の好判断

 気仙沼港内や、町なかの倒壊家屋はいまなお多い。県や市の合同庁舎は無残な姿をさらす。
 気仙沼市だけでも、3.11の後、今年の2月半ばまで1031体の遺体が収容されている。なぜ被害が甚大だったのか、と取材を重ねた。
 チリ地震の時は4メートルの津波だった。被害が出ていなかった。「昨年も大津波警報が出たけれど、海岸にちょろちょろでした。今回、6メートルの大津波警報が出ても、オオカミ少年になっていました」と多くの人は話す。さらには、「地震の揺れが大きいから、去年のちょろちょろよりも、多少は大きな津波がくるだろうな」と構える程度だった。

 実際には10メートル以上の津波が町を襲ってきた。地域によっては20メートルを超えた。津波に気づいてから、乗用車、ライトバン、トラックなどに乗り、高台に避難を始めた。
 地震による停電で信号機が消えている。道路は大混乱に陥った。津波の速度はランナー並みである。瞬く間に、人々は飲み込まれた。

 津波に追われた体験者から話を聞くことができた。
「波そのものは見えません。家々が背後からブルドーザーで押されて、次々に家屋を押し倒し、迫ってくる感じです。砂埃と水埃りが煙のように背後にわいている。逃げても、逃げても、家が追い付いてくる。死を覚悟しました」と恐怖を表現する。


 廃校となった気仙沼南小学校に行ってみた。校歌の石碑の側から、グランドいっぱに廃車が山積みだった。当時を知る人から取材した。
 生徒たちが下校を始めた時、大地震が発生したという。教諭たちが懸命に全生徒を学校に呼び戻した。
「地震で、わが子を案じて引き取りに来た親に対して、生徒はひとりも引き渡さなかった」
 教諭の判断は正解だった。
 すぐさま大津波だ。教師と生徒は3階に避難した。1階はたちまち水没した。

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小説取材ノート(9)気仙沼=まるで空爆だった

 3.11小説の背景・舞台は、2つの都市に絞り込んだ。大火災が起きた気仙沼市と、市街地がすっかり消えてしまった陸前高田市である。
 11月から真冬の被災地で、寒さを体感しながら取材を始めた。1月は陸前高田だった。2月半ばには気仙沼市にでむいた。気仙沼は日本でも有数の大漁港だ、さぞかし大都市だろう、という先入観があった。
「えっ、JR駅がこんなにも小さいの」
 それが第一印象だった。駅前は高台で、津波の被害は受けていなかった。

 駅前から車で、気仙沼・最大の被害地である鹿折(ししおり)と内湾(ないわん)地区に入った。日本一の水産加工業がある、気仙沼の心臓部である。奥には住宅地が広がっている。
 地形は気仙沼の湾が深く入りこむ。それが災いして、大津波が奥まるほどに勢い十数メートルの高さまで駆け上り、街と人々とを襲った。

 気仙沼は大型漁船が入港する基地だから、燃料を積み込む石油備蓄タンクがある。重油、軽油、ガソリンなど20基以上がすべて大津波で流された。と同時に、タンクどうしぶつかり合った瞬間に発火し、爆発、炎上した。その火炎が倒壊した家屋に燃え移る。人々は逃げ惑う。

「空爆と同じでした」
 そう表現する。決して誇張ではない。石油だから、焼夷弾と同じ、消防士も火炎が強くて近づけない。
 消防車の進入路はガレキで阻止されている。街は3日間にわたって燃えつづけた。消防、警察、自衛隊の必死の作戦で、進入路を確保し、やっと消火活動に及んで鎮火した。だが、町は燃えつくされていた。

 鹿折の国道脇には、今なお440tの巻き網漁船が国道の横に打ち上げられている。

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小説取材ノート(8)陸前高田=「頑張れ」って不愉快だ

 11月初めに被災地に入った。閖上と陸前高田の市街地に立ち、ともに大津波で都市がなくなった光景を見たとき、広島県出身の私は「これは原爆と同じ惨事だな」と心から思った。
 井伏鱒二さんの「黒い雨」、林京子さんの「祭りの場」のように、文学として後世に伝えなければならない、とつよい使命感を覚えた。私の力量はともかくとして、最大限にそれに向かってつくす。執筆まえに十二分な現地取材がなければ、厚みのある作品は生まれない。それだけは確かだ。

2度目として、真冬の被災地に入った。
 前回(11月)は手さぐりであり、被災者からひとりも話が聞く機会が得られなかった。こんかいはあえて真冬の三陸を意図とし、1月半ばに入った。良き紹介者を得られたことから、酔仙酒造、カキ養殖業者、製材業者、大工組合の方々、延べ9人と面談できた。
「3.11の群像を小説として書き残す」。それぞれがこの趣旨を理解してくださり、生々しい話をも深く聞くことができた。
 小説化のために語ってくれたもので、主たる内容や個人的なものは守秘義務があり、作品化する前に開示できないけれど……。

 妻子を亡くされた方も複数いた。実家の家族が全員死んだ方もいた。それらの方々から、作品のテーマの一つでもある、「生きている環境の変化と心」を聞かせてもらった。自然災害に対する日本人の価値観から、「人間とは何か」までも問う。
 身内に死者が出なかった方も、いずれもがつよく印象に残る証言をしてくれた。

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小説取材ノート(7)陸前高田=目前で助けを

 高田松原の防潮林は約7万本のクロマツ、赤松で、国の名勝として年間に約100万人の観光客が訪れていた。3.11の大津波で破壊された。いまや「一本松」で有名になった。「希望の松」として復興のシンボルにもなっている。

陸前高田市を取材していると、一本松とは嘘で、米崎寄りに2本のクロマツが生存していると判った。大船渡線の陸前高田駅の次なる、脇ノ沢駅からすぐの海岸である。高田松原とすれば、東の外れに位置する。
 こちらの二本松は緑の針葉樹として生命力がある。青々としていた。

 3.11では、高田の松原が全域にわたって破られ、2千人強の犠牲者が多くでてしまった。マグニチュード9.0でありながら、なぜ大津波が予測できなかったのか。住民には、どこか松原の安全神話とか、過信とがあったのか。
 
 気象庁は大津波警報を出したとき、岩手県に高さ3mの津波がくると予測した。同庁は次々に6m、10mと変更していった。しかし、停電などでうまく自治体に伝わらなかったようだ。

 陸前高田市役所の防災無線は、「3-4メートルの津波が来ます」と放送をくり返す。「放送の最後に、ギャーと叫んだ、防災無線の声がいまも耳に残っています」と住民の一人が語ってくれた。
 

 JR脇ノ沢駅(高田駅からひとつ次の駅・跡形もない)プラットホームには、チリ地震の最高位として(標高2m~3m程度)水位標識だけが残されていた。これが犠牲を大きくした一つの要因らしい。
 陸前高田市の住民は大地震=津波を考えなかったわけではない。チリ地震の潮位が意識のなかに根づいていたのだ。有線放送の3-4メートルの津波ならば、高田松原の4.5mの堤防は越えないだろう、と考えたのだ。

 私を案内してくれる方がプラットホームを指し、「老人ふたりがここに腰かけて、津波がくるという沖合をのんびり見ていたんです」、早く避難しないと危ないよ、と叫んだという。
 老人とならば、チリ地震の経験則があるから、かえって大丈夫だと踏んでいたのだろう。

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小説取材ノート(6)塩釜=ボランティアを装う泥棒

 小説の取材で、被災地に入るのは2度目である。今回の大震災では、消防団員の犠牲者が多かった。
 松島湾に突起した半島の、七ケ浜町にすむ消防団員・鈴木一哉さん(仮名・40)から取材協力が得られた。生々しい犯罪の実態を知ることができた。

 大津波は松島の島々が防潮堤代わりになり、津波の被害が出ていない。地震による半壊、倒壊のみである。反面、外洋に面したところは強烈な大津波に襲われ、大勢の死者と行方不明者を出している。

 鈴木さんは地震直後に勤務先から帰路についた。仙台市内が交通渋滞で、帰宅できたのが真夜中。自家は松島湾内がわで、家屋の損傷だけで、家族は無事だった。
 すぐに消防団員として、外洋側の救助に向かった。それから3日間は自宅に帰る余裕すらなかったという。

 外洋がわの集落は大きな被害を出していた。標高13メートル地点で警戒していた、消防ポンプ車が流されて死者が出ている。大津波はそれ以上の高さだったのだ。
 
 鈴木さんたち団員は夜明けとともに捜索活動に入った。都度、余震による恐怖があった。「家屋の倒壊の瓦礫と、ヘドロと、釘が足に刺さるし、なかなか先に進めませんでした」と話す。
 自衛隊が遺体を発見すると、消防団員が遺体安置所に運んでいく。彼はその車の運転が主な役目だったと語る。

 農家や漁業が盛んな地区だけに、米や食料は持ち寄り、婦人部の炊き出しで、自給できた。ただ、電気や水道がない、ガソリンは不足し、不自由な生活には変わりがなかった、と話す。

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小説取材ノート(5)大船渡=被災した酒造メーカーを訪ねる

 仙台・若林区にすむ佐野謙三さん(65)から、陸前高田市の仙水酒造が被害を受けたと聞いた。佐野さんはかつてJR関連会社の酒造仕入れを担当していた。そんな関係から、同社の内容に詳しかった。 戦時ちゅうの1944年に、陸前高田と大船渡の造り酒屋8軒が統制で一つになり、酔仙酒造が誕生している。現在は、とくに「雪っ子」が有名だと語っていた。


 それを聞いて、私には一つの思い出がよみがえった。20代後半だった。旧知の友を訪ねて宮城県・岩手県を旅した。知人とふたりして駅裏の居酒屋に入った。
「海鞘(ほや)を知っていますか」「雪っ子は?」と聞かれけた。瀬戸内育ちの私はともに知らなかった。

「ナマコが食べられますか。それなら、海鞘は大丈夫ですよ」
 と薦められた。思いのほか口に合い、おいしかった。
「雪っ子は濁り酒ですよ」
 とグラスに注がれた。甘酒と日本酒を混合したような味わいだった。甘酒、酒粕が好きな私だけに、その後は嗜好酒の一つになっていた。

 佐野さんはメディアからの情報だと言い、同社の従業員は大津波で死者・行方不明者7人もの犠牲者が出ているという。しかし、現在は一関市内の酒造メーカーに間借りし、『玉の春工場』として再建を図っていると聞かされた。
「働く人からも取材したい」
 その思いから、同メーカーを訪ようと決めた。
 カーナビに「玉の春」とセットしたが、意外やそこは旅館だった。

 104番の情報などから、同社大船渡支店のTEL番号があった。ひとまず大船渡に出向くことに決めた。他方で、港町で『海鞘』の取材もしたく、水産業の方々から話を聞きたい気持ちもあった。
 

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小説取材ノート(4)陸前高田=あの両親が死す

 11月15日、陸前高田に入った。気温が3℃で、ミゾレが降る。広大な市街地は跡形もなく、いまや想像を超えた、巨大な荒野だった。
 3.11の大津波で、倒壊した家屋や建造物はすでにシャベルカーなどで整地された、人気すらない、「無」の世界だった。それが却って、数千人の死者に取り囲まれているような、得体のしれない不気味な戦慄すら覚えた。

「広島の原爆投下の後とおなじだな」
 それが率直な印象だった。1945年、広島に原爆が投下され、大火炎で市街地のすべてが焼かれてしまった。見渡すかぎり焼け野原となり、建造物は唯一、原爆ドームだった。

 廃虚の高田市役所の近くに車を停めた。降りて建物を凝視した。天井が落ち、各階の窓がすへで割れ、漂流物の流木や布類が絡まる、無残な姿をさらしだす。広島原爆ドームと、どこか類似するものを感じた。

 私がこの陸前高田にきたのは、約20年前だった。ある企業の人事部に勤務していた私は、求人の挨拶を兼ねて高田高校を訪ねた。同高出身者には、卓球(団体)で県大会準優勝、東北大会の出場経験ある、脇本久美さんがいた。彼女にとっては、社会人になって、私が最初の上司だった。そんなことから、高校訪問の後、彼女の自宅に立ち寄って挨拶した。

 彼女の両親はクリーニング店を経営していた。夫婦して思いのほか歓待してくれた。そのうえ、父親が美しい松原の海岸まで案内してくれた。実に見事な風景だった。父親が郷土自慢の口調で、海岸の特徴を語ってくれたことが印象に残る。

 3.11の大津波が強烈な破壊力で、高田の海岸線を乗り越え、市街地を襲った。平坦な市街地は広域に濁流の渦になり、阿鼻叫喚の地獄絵となった。逃げ惑う高田消防団員がビデオで撮っていた。映像は前後左右、逆さま、悲鳴が続く。それは撮影できたというよりも、ビデオカメラが回り続けて記録されていたというべきだろう。高田市は2千人以上の大勢の犠牲者を出した。

 3.11以降、脇本クリーニング店の両親の安否が気になっていた。しかし、脇本久美さんは結婚退職し、その後の音信などない。月日が流れた。9月末に、小さな手がかりから、脇本クリーニング店の両親と、消防団員だった弟さんの3人が亡くなった、と聞いた。胸が痛んだ。

 私が東日本大震災の現地取材を決めて、東北へのチケットを買い求めた11月初旬、彼女から不意に電話がかかってきた。連絡がついたのだ。
 父親と弟さんの遺体は早くに見つかった。母親は長く行方不明だったという。約半年後、8月末に遺体が瓦礫の下から見つかり、DNA鑑定で死が決定づけられたと語った。
この間、彼女は数多くの棺を見て回ったようだ。
「私の結婚式の写真が2キロ先で見つかったんですよ」
 こうした話をふくめて約45分ほど、当時からの状況を聞いた。

 高田に入った私は、脇本クリーニング店の場所を特定したうえで、そこで3人の冥福を祈りたかった。
(店舗は市役所に近かったが、どこにあったのか?)
 住民から場所を教えてもらいたくても、気温が3℃だと、見渡すかぎり歩く人などいない。ただ、碁盤の形状の道だけが視野に入る。

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