3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(23)陸前高田=津波と聞いたら欲捨て逃げろ

 明治29年6月15日の午後8時に、「明治大津波」が襲来した。広田村(現・陸前高田市広田)では、552人が亡くなり、流出戸数が157戸と、石碑に記されていた。
 寝入りばなを襲われたのだろう、1村にすれば、大変な死者である。

 昭和8年3月3日午前3時に、津波が襲来している。旧広田村は死亡者45人、流出125戸だった。(石碑から)。

 2011年3.11大津波でも、太平洋側と広田湾側と双方から大津波が襲いかかり、広田半島の袂(小友小、中学校の付近)を分断し、数日間、陸の孤島にさせてしまった。と同時に、広田町は大勢の犠牲者を出している。

 大津波の襲来するたびに犠牲者を出す。先人の教訓がなぜ生かされないのか。
 広田町には、津波に対する住民への警告の碑が7カ所ほどある、と聞いた。陸前高田市の漁師の方に案内してもらい、碑を探し歩いた。

 7つを全部見て回った。(1カ所は見当たらず)。角柱(23㎝X4)の4面には、それぞれ犠牲者を出さないための津波の心構えが彫られている。


『低いところに住家を建てるな』
『地震があったら津波の用心』
『それ津波機敏に高所へ』
『津波を聞いたら、欲捨て逃げろ』

 石碑はすべて命令文である。それを守らなければ、ふたたび大惨事になるだろう、と警告する。

 3.11の取材において、各地で、一度避難した人が家に帰ったために死んだ、という犠牲者が多いのに驚かされてしまう。急ぎ自家に往復のつもり。だが、突如として襲いかかる巨大な津波のスピード(時速60キロくらい)にはかなわず、命を落としている。

 立地場所により、角柱の文面は微妙にちがう。
「欲を捨てて逃げて、逃げろ」
 この文面だけはすべて同じである。先人の犠牲者たちも、この理由が多かったのだろう。

 家具を捨てる、財産を捨てる、位牌も捨てる。一度逃げたら、ゼッタイ家に戻るな、恐ろしい津波がくるぞ、という最も大切な教訓なのだ。

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小説取材ノート(22)気仙沼=被災地にも、真贋があり

 気仙沼の海岸を徒歩で取材していると、
「国の支援があっても、気仙沼市の復興計画が進んでいないし」
 という苛立ちと不安を漏らす、市民の声をよく聞く。行政につよく期待しながらも、半分はこんなものだろう、という雰囲気に感じられる。


 気仙沼の海岸線は、大地震による地盤沈下で、満潮時には50-60㎝も沈む。土地をかさ上げしないと、家が建てられない。
 行政の復興計画では海岸に沿って高い防波堤を作る、立案がなされている。観光・気仙沼港が目隠しになる、と反対派もいる。
 是か非か。復興計画が進まないから、家屋や工場や店舗がいつどこに建てられるのか、そのメドがつかないのが実態だ。

 水産加工業者などは冷凍庫とか、加工工場を失ったままである。内陸地に工場を建てると、魚市場からの搬送費がかさみ、競争力を失う。しかし、海岸は行政の規制で、新設できない。
 一年あまり経っても、いまだ新設の加工工場が建てられない。だから、魚を水揚げしても、引き取り手の工場がないから、需要がない。
 遠洋漁業のマグロ漁船などは、焼津や三崎に行ってしまう。気仙沼の街がなおさら寂れてくる。いまや悪循環に陥っている。

 市街地の整備・復興が進まないので、街の排水溝が壊れたままである。大雨が降ると、水のはけ口がない。トイレの汚水を流す場所がない。
「海に流れ出ているようですよ」
 とこっそり教えてくれた人もいる。日常の生活環境が改善されず、衛生環境の厳しさはなおも続いている。

 同市魚町では、行政の対応を待っていられないと言い、不法建築で取り壊されることを覚悟のうえで、3-4階建ての鉄骨店舗を作っている人もいる。きっと建築確認も取れていないだろう。こうした強硬手段は、立場を代えてみれば、どこか被災者の苛立ちとして理解ができる。

 収入面でも、雇用保険が期限切れとなってしまった。収入がない。水産加工業の工場が建たないから、再雇用してもらえない。働く場所がない。
 仮設住宅暮らしには3年の期限があるし、わが家がどこにいつ建てられるのか、見通しがない。
「気持ちが落ち着かない」
 それが被災した市民の生の声だ。

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小説取材ノート(21)気仙沼=漁師の死。こんな偶然もあるのか

 気仙沼海岸の桟橋には焼け焦げた跡が残り、ブリッジなどは未だ海中に落ちている。それら被害はなんど来ても修復されることはない。


 陸電設備の先には、見た目に古い漁船が接岸していた。どの船には船名と母港が明記されている。よくみると、北海道・道南の船だった。60代の漁師が岸壁で、細長い鉄材を切り、漁船の偽装工事をおこなっていた。

 どういう経緯で入手したのか。あるいはリースなのか、と気になった。
「北海道の漁船のようですが……?」
 私は声がけをしてみた。
「これは仲介業者を通して買ったんだ。震災でなくなったから。漁師はやはり沖に出ない、とな」
 その決断までには、一年あまりがかかった口調だった。

 大震災前は、男3人の兄弟が中型漁船で近海漁業で生計を立てていた。3.11で、大切な漁船を失ったという。
 一部の漁師は地震の直後、とっさに漁船を沖に出して(沖だし)、船体の難を逃れている。それは生死をかける危険な行動だ。
 多くの漁師は、わが身の安全第一で、漁船の沖だしなどせず、気仙沼湾に係留したまま、逃げた。それらほとんどの漁船が損失している。

「漁船をなくされたのは火事ですか、それとも津波で陸に打ち上げられたからですか」
「実は、うちの漁船は大船渡の造船所で、エンジンのオーバーホールをしてたんだ。大地震がきたあと、次男が漁船が気になるからといい、ここ(気仙沼)から車で大船渡にむかった。途中の陸前高田で、大津波に遭って死んだ。次男は船を心配して、津波で命を亡くした」
 そんな悲運もあるのか。

「気仙沼と陸前高田の間に、つい最近、トンネルが完成したから、気仙沼から時間が短縮された。むかしのように山越えなら、高田で災難に遭わなくてもすんだのに。便利になったことで、次男はちょうど高田の大津波に出くわしたんだ」
 と無念そうに語っていた。


 3人きょうだいの1人を亡くした。漁船もない。借金もしたくない。陸上の仕事を探してみたが、性に合わない。中古船の仲介の話があったから、この際は借金してでも、漁師をもう一度やろう、と決めたんだという。

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小説取材ノート(20)気仙沼=神社ではお祭りのメドがたたず

 気仙沼は入りくんだ複雑な地形で、外洋の波が避けられる良港である。マグロ・カツオ漁船やサンマ漁船の基地である。

 湾内に突き出す、小さな岬(神明崎)には赤い浮見堂がある。岬の丘陵の階段を上ると、五十鈴神社である。関係者に聞くと、伊勢神宮の五十鈴川からの由来だという。

 境内には樹木が茂り、港を見下ろす景勝の地である。
 つつじが咲く、枝には、おみくじが雪の花のように数多く結ばれていた。漁師たちが出漁の折りには、安全祈願、出航祈願で詣でているという。

 3.11の東日本大震災のとき、気仙沼は大津波と石油タンクの大爆発で、最大の被害を被った。死者・行方不明者は1000人以上となった。
 同神社は港の中央の高台に位置するだけに視界が広く、被害の全体が見渡せたのではないか。目撃者に取材した。

 大地震に続く、大津波が来たとき、魚浜町の同神社に避難してきたひとは2-3人でしたという。ほとんどがおなじ町内の内陸側「茫洋」(ぼうよう)の丘に逃げている。

 港に突き出す同神社は目測すれば、海抜20メートルくらい。押し寄せた津波の高さからギリギリの高さで危うい。茫洋の方は裏山へと続くから、いくらでも高いところに駆け上れる。
「より安全なところ」という、逃げる者の心理からだろう。

 
 社務所で、当時の話を聞いてみた。大地震の後、室内では石油ストーブが倒れ、ヤカンが飛び散った。(耐震装置が働き、火は出なかった)。散乱した食器や家具などを片付けていたから、大津波の襲来には気づかなかったと話す。
 これには不思議な気がした。まわりが渦巻く大津波なのに……。

 夜になると、津波で流される船舶どうしがぶつかりきしむ音、コンビナートの石油タンクが爆発する音、さらには流れ出た石油が海面で真っ赤に燃えているので、空が焼け焦げているし、大変なことになっていると、気づいたと語ってくれた。

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小説取材ノート(19)大島=6歳の少女の悲劇は新たな伝説か

 気仙沼大島は3.11で大地震、大津波、そのうえ4日間の山火事に襲われた。島民約3200人のうち死者は23人、行方不明者は8人だった。他の被災地と比べると、規模の割には犠牲者が少なかったともいえる。1000年来の伝説の語り継ぎが生かされたのだろう。

 小・中学校はともに高台にある。大地震が発生した後、小学校では全員を体育館に集め、下校を認めなかった。他方で、中学校は生徒を下校させるか否か、校長と教頭の意見が対立していた。やがて、全校生徒の集団下校となった。(関係者の談)

  左手・田中浜(太平洋側の津波)  右手・裏の浜(気仙沼湾からの津波)


 3.11の大津波は太平洋側と、気仙沼湾からと2か所から津波が襲来した。そして島が2つに分断されている。その直前、生徒たちが津波の通り道にさしかかっていた。消防団員から、
「津波が来るぞ。危ない、学校に戻れ」
 と語調も強く命じられた。
 生徒たちは走って逃げた。間一髪のところ助かった。教職員の考え方、意見は割れたが、同島の小・中学生から1人の犠牲者も出なかった。

 保育園(0歳児から年長組を扱う)から、一人の園児の死者が出た。それが同島では子どもの唯一の犠牲者となった。被災場所は田中浜と裏の浜とを結ぶ、津波の通り道で起きた。(写真・島の中央部)

 遺族が取材に応じてくれた。

少女には諸事情があり、祖父母が0歳児から親代わりで大切に育ててきた。


 3.11の強烈な大地震が発生した。祖父母はまず保育園から愛孫を連れてもどり、3人で避難しようと考えた。ふたりして車で保育園に迎えに行った。
 園児たちは縁側の通路で、頭巾代わりの座布団を被っていた。
「年長組ですから、良いですよ」
 保育士が少女の引き渡しを了承してくれた。
 次なる行動は、裏の浜の店舗兼住宅(かつて新聞配達業)に立ち寄った。祖父が位牌を取りに、家のなかに入っていった。
 その間、祖母と少女は車で待っていた。
「津波がくるぞ、田中浜から」
 通行人が走ってきて教えてくれた。祖母がふり向くと、島の中央部の丘陵を越えた津波が、すぐ背後に迫っていた。
「父ちゃん(祖父)、早くして。津波よ」
 そう叫けぶも、津波が車体を飲み込み、押し流す。脱出はできない。浮いた車はノーコントロールで民家や電柱、観光案内所の建物などにドーン、ドーンとぶつかり流されていく。祖母と少女は死の恐怖だった。
 やがて、大きな建物の塀に車体がぶつかり停まった。そこは亀山観光リフトの近くだった。

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小説取材ノート(18)気仙沼・女川=大津波で命をかける沖出し

 大地震がくれば大津波がくる。漁師はそれを見越して漁船を守るために、すぐさま沖に出る。それを「沖出し」という。古来から現代まで、その沖出しが行われている。戦う相手は大津波である。転覆すれば、生命は亡くなる。
 そのリスクを考えると、漁船よりも命が大切であり、陸上の高台で身を守る方が賢明か。この選択肢はとっさの判断で決まる。

 私は3.11小説のなかで沖出しを組み込みたいと考え、気仙沼、女川(おながわ)、そして江島(えのしま・金華山の近く)の3カ所で取材した。「大津波」は語彙からくるイメージだと、大嵐の波浪のように巨大な数十メートルの波が襲いかかってくる、という認識だった。だが、沖出しの漁師から聞くと、海上の波などそう高くないと言う。

 被災地・女川の漁港で、40歳の漁師から「沖出し」について体験が聞けた。3.11の2時46分。陸より約200メートルほど沖で銀ジャケの養殖作業をしていた。突如として、船上でドドド、と地震の揺れを感じた。
 過去には船の上で地震など感じることはなかったという。
「これは大きいぞ、と思いました。陸の防災無線から大津波警報が流れた。ふだん作業中に聞き流しているラジオがなぜか鳴らなくなった。(放送局の問題か)。乗船する父親をまず陸にあげ、漁具を高台に移してくれと言った。自分は漁船を沖に出しました。二手に分かれたのです」

 牡鹿半島の沖約三キロの地点にまで行った。漁船が岬に近かったりすれば、大津波で陸に打ち上げられてしまうからだ。3日間はずっと沖にいたという。

「巨大な十数メートの波は一度だけです。船体が波に持ち上げられた後、落ちていく。このときは舵が利かないので、それは怖かった。あとは激しく渦巻く潮流との戦いでした。津波というと、波のイメージがあるけど、海洋では波など感じないし、激流が渦巻いている。そんな速い潮との戦いです」

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小説取材ノート(17)気仙沼大島が燃える=4日間の火との死闘

 山火事が、気仙沼大島の最高峰である亀山の山頂を越えた。消防士の13人と、消防団員(50人)で島にいたのは約30人だけである。山火事は消しても、消しても、火が他に移り、なおも燃え続ける。炎は野獣とおなじで人間に襲いかかってくる。
「火は敵だ。この野郎、止めてやるぞ」
 消防士は山腹を駆けまわる。不眠不休の消防士たちの疲労は極致でも、消火をやめられない。

「ここが終わったら、あっちの消火もあるんだよな」
 湾内から水を取り、20mホースを20本以上つなぐ。400メートルの長距離送水である。山林の樹木がじゃまして、ホースは簡単に延びない。
 大島は孤立し、消防署の食料備蓄すらもなくなった。空腹でも、食べ物を探して走りまわる余裕などない。死闘だった。
 島人が炊き出しで、おにぎりを持ってきてくれる。そして、消火活動を手伝いたいという。

「住民がいくら助けたいといっても、住民には危険なことはさせられない。ケガ人を出したら、負けなんです」
 消防士は何度も断る。1か所を消しても、転戦(てんせん)で、次なる場所へと400メートルのホースをくり出す。

 大島の山火事の特徴は、地面を這って燃えていることだった。火の粉が飛ぶ火災ではない。それだけに舗装道路は、火を食い止めるには最も良い場所である。

「おらたちが防火帯を造る。火が来ていない山の地面を、あらかじめ掘る、削るだ」
 それは住民の提案だった。山の特徴からすれば、燃える樹木や草を切り取り、地面をむき出しにすれば、火炎はそこで止まるはずだという。
 2車線の林道に沿って、5車線、6車線に相当するベルト地帯を山中に造る作戦だった。

「この作業なら、住民は火炎に巻き込まれず、安全だと判断しました」
 消防士は語る。
 住民、ボランティア、企業の人、なかには中学生たちもいた。全員が力を合わせた。島を全焼させないと、土壌をむき出しにしておく防火帯づくりに懸命になった。

消防士としては民家の手前で、放水で建物を守ることに専念できた。

 消火活動を始めてから初日、2日目と、稜線や林道を防火地帯として守り続けた。しかし、山火事は魔物である。火は強風にあおられ、稜線の一か所を破った。盲点となった観光リフトを伝わり、山裾野に降り、島の南部へと移る気配が濃厚になってきたのだ。



 大島の中央部は太平洋がわと気仙沼湾がわと2か所からの大津波に襲われている。そして、島は北と南に分断されている。繁華街が津波の通り道(海峡)になり、家屋、家具、車、船などガレキの山である。それらはほとんどが可燃物だ。

「島の南側まで、類焼させるな。火が来たら、3200人の島民の逃げ場がなくるぞ」
 それは島民の恐怖だった。本州からの援軍はない。まさに、袋のネズミ状態に陥る。

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小説取材ノート(16)気仙沼大島が燃える=絶体絶命の3200人

 私は昨年から何度か気仙沼大島に取材で訪れている。島民からは「火事の時、逃げ場がないし、死の恐怖でした。消防職員も、消防団員も、住民も、仕事で島にきていた人も、必死で消火作業にあたりました」と話を聞いていた。

 大島在住の20-60代の働き手は毎日、フェリーに乗り、対岸の気仙沼市街地の水産加工業に働きに出ている。3.11の2時46分の島の状況となると、カキ養殖業者と、多くは子どもと老人たち。消火パワーの総合力としては弱く、3200人の島民は絶対絶命のピンチに陥ったのである。

 メディアは島に来ておらず、報道されない。島の緊迫状態は本土には伝わらず、自衛隊も、海上保安庁も現れない。

 北部の火は島の最高峰を越えて、島の南に向かった。このまま火が消せなければ、どうなるのか。「島民は追い詰められて袋の鼠で、生命を失のではないか」
 かれらは恐怖のどん底に突き落とされたのだ。

 それは3.11小説取材に折り込む必要がある。震災からちょうど1年後の3月末に、気仙沼消防署・大島支所に出向いた。同所の消防士長から、当時13人の消防職員と島民との4日間にわたる火との闘いを取材した。

 東日本大震災で、気仙沼港は石油タンクの爆発から、市街地が火の海になった。他方で、燃える漁船や養殖イカダが「灯篭流し」のように、大島水道に流れてきた。
 気仙沼大島の北部に漂着し、火の手が上がったのだ。そのあたりの海岸は荒波で削られた断崖であり、道すらもない

 電気は停電だ。電話も、ケータイも通じない。島と本州をつなぐフェリーの一隻は気仙沼桟橋付近で炎上し、もう一隻は同島の浦が浜で陸上約150メートル奥に打ち上げられている。漁船は打ち上げられているか、沖合に流されている。
 本州と連絡をつけられる手段は消防署の無線機だけだった。

 消防官は地震直後から、3か所の避難所を回る。大津波で家屋が流されて、死者も多数出ている。それらの対応の一方で、「煙が出ているぞ」という通報で、島北部に出向く。
 火の元が気仙沼市街地か、唐桑半島か、島内なのか、それすらも判らなかった。満足に道がないところなのだ。何回か、巡視に行く。一方で、大津波で大勢が被災しているのだ。

 3回目の北部偵察は3月12日の真夜中だった。午後23時40分。2人の消防官と駐在所の警察官と3人で燃える炎が確認できた。火はもはや海から道路まで、150メートルくらいの広範囲に拡がっていた。

 風が強く、たちまち亀山山頂からの稜線に近づく。消火活動としては、水産加工で使われる、(ワカメを洗う)水槽の設置を行う。それを消防車が水を吸い上げて消火をする。 道路から奥まったところは、(消防団が使う)小型ポンプで消火する。
「20t、40tが入っている水槽の真水を使い切りました。水がないと、火は消せません」
 消防士たちは最初の窮地に立った。

「建設会社の協力で、生コンのミキサー車で海水を入れて運んでくれました。とても助かったし、住民がこんなにも協力してくれるんだ、と感動しましたし、絶対に消してやるぞ、消防職員としても士気が上がりました」
 消防職員は語る。

 火災の性質として、腰から下の落葉が燃え拡がる。立木が燃えて炎がぱちぱち舞い上がる山火事とは違う。火が這(は)って不気味な勢いで押し寄せてくる。
 風とともに亀山の山頂に、火が迫ってきた。さらに、山を越えて南側に降りはじめた。

 火は大島神社に近づく。消防士たちは山麓の建物に放水する。限られた13人の消防士だから、広域な消火はできず、点と点で移っていく。
「山の放水は簡単にできません。山だから平地と違って、簡単に移動できない。こっちを消して、あっちに行く。『転戦』(てんせん)といい、ホースの水を抜いて軽くし、改めて延ばすのです。角度のある山ですから、足場を固めながら下り、また登って。凄い疲れます」
 さらには急斜面の樹の間を縫って、ホースを延ばす。放水がはじまる。消防士は不眠で体力消耗が激しくなる。

 この間に、亀山レストハウスが燃える。さらには、観光リストを伝わって、火が島の繁華街にむかって下ってくる。最悪の状況に陥りはじめた。

「大島を助けてください」
 島の消防幹部が切迫感から消防無線で、東京消防庁の防災ヘリを要請する。600ℓバケットで空中から散水する能力がある。その効果が期待できる。

 しかし、当時は気仙沼の市街地も石油タンクの爆発で、激しい空爆状態に陥っている。消防は人命救助が最優先だから、気仙沼市街地のビルに取り残された人たちをつり上げている。
 

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小説取材ノート(15)気仙沼=日本列島の河口はふさげず

 大津波の被災地に行くと、時おり、カメラを持った人たちに出会う。被写体とどう向かい合っているのだろうか。それぞれの想いがあるから、知る由もない。ただ、薄気味が悪いと思われる被災現場では、ほとんど見かけない。


 私の被災地写真は、取材ノートの一部である。文章化するとき、手元に写真があれば、情景として描きやすいし、緻密に書き込めるからだ。

 災害現場で、私の滞在時間はやたらと長い。写真撮影しても、すぐ立去らず、悲惨な現場を凝視し、わが身を置いて、じっと緻密に思慮する。

 破壊された仙台行きバスの前で10分でも、20分でも凝視している。乗客はバスから脱出できたのだろうか。何人が亡くなったのだろうか、と現場の地形から想像する。

 そんな話をすると、講座のある受講生から、
「被災地に一度行きましたが、気味が悪いし、無人だし、ここで大勢死んだと思うと、ボクは立ち止まってじっと見ていられませんでした。小説家は度胸があるんですね」
 と言われたことがある。

「小説は想像力が大切です。机に向かって私のわずかな脳細胞で想像することは、たかが知れていますよ。まず現場で状況を見、より事実に近づこうとして、想像力を働かせるのです。だから、大勢の死者が出た場所でも、私は丹念に観察するのです。恐怖を感じれば、それはそれで作品に生かせるから」
 そう応えたことがある。


 気仙沼のタクシー運転手が「職場の仲間ドライバーの一人がこの辺りで死んだんです」と指した。津波が海から大川をさかのぼり、土手を越えた激流が町に襲いかかった。大渋滞だった道路の車はことごとく激流に飲まれた。

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小説取材ノート(14)陸前高田=被災者の私たちを忘れないで

 3.11小説の取材で、11月から、三陸の3カ所(陸前高田、気仙沼、気仙沼大島)に絞り込んで取材している。数多くの体験を聞き取りしている。他方で、現地の歴史にも目を向けている。

 奥州・藤原氏が栄えていた頃、陸前高田市の金鉱から大量の金が産出し、北上川を経由し、平泉に運ばれていた。陸前高田は当時から豊かなところだったという。
 3.11で、一瞬にして、1000年来の栄えた町がすっかり消えてしまったのだ。

 高田は銘木・気仙杉の産地である。宮大工の腕が伝承された、気仙大工が有名だと教わった。それら歴史を小説に取り込み、厚みをつけるために、3月末に「気仙大工関連施設」を訪問した。

「1年経った今、作家が来てくれる、ありがたいです」
 と案内担当の女性が歓迎してくれた。

「私は大津波の恐怖小説を書く気はありません、ノンフィクションの小説ですが、『3.11で人間の生き方がどのように変わった』と、それをより事実、真実に近いところで作品化したいと考えています。だから毎月、現地に来て、数々の人にお会いし、本音のところで取材させていただいています」
 そんな風に説明した。

彼女が急に涙声になり、
「大津波の襲われた直後はメディアがきて、大々的に取り上げ、世界に発信してくれました。すると、ボランティアが大勢で現地に来て手助けしてくれました。次は視察団です。最近は観光ツアーです。いまやメディアで3.11と言えば、原発問題になっています。大勢の被災者はまだ苦しんでいます。おなじ日本人なのに、大津波の被災者の存在が薄れ、忘れ去られようとしています」
 と語ったうえで、さらに、
「小説で私たちの被災者の心を伝えてください」
 とつけ加えた。

 新聞社、雑誌社の写真集は1、2度見れば、あとは資料として本棚に収まるだけである。どんな大メディアのものでも、伝承力はない。

「小説ならば、文学的価値があれば、後世まで読んでくれます。だから、私は精いっぱい取材して、後世に伝えたいのです。大津波と人間との関係を」
 私は自身にプレッシャーかけるつもりで、それはどこに行っても明瞭に言い切っている。実際に、そうしたいのだから。

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