A060-3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(5)大船渡=被災した酒造メーカーを訪ねる

 仙台・若林区にすむ佐野謙三さん(65)から、陸前高田市の仙水酒造が被害を受けたと聞いた。佐野さんはかつてJR関連会社の酒造仕入れを担当していた。そんな関係から、同社の内容に詳しかった。 戦時ちゅうの1944年に、陸前高田と大船渡の造り酒屋8軒が統制で一つになり、酔仙酒造が誕生している。現在は、とくに「雪っ子」が有名だと語っていた。


 それを聞いて、私には一つの思い出がよみがえった。20代後半だった。旧知の友を訪ねて宮城県・岩手県を旅した。知人とふたりして駅裏の居酒屋に入った。
「海鞘(ほや)を知っていますか」「雪っ子は?」と聞かれけた。瀬戸内育ちの私はともに知らなかった。

「ナマコが食べられますか。それなら、海鞘は大丈夫ですよ」
 と薦められた。思いのほか口に合い、おいしかった。
「雪っ子は濁り酒ですよ」
 とグラスに注がれた。甘酒と日本酒を混合したような味わいだった。甘酒、酒粕が好きな私だけに、その後は嗜好酒の一つになっていた。

 佐野さんはメディアからの情報だと言い、同社の従業員は大津波で死者・行方不明者7人もの犠牲者が出ているという。しかし、現在は一関市内の酒造メーカーに間借りし、『玉の春工場』として再建を図っていると聞かされた。
「働く人からも取材したい」
 その思いから、同メーカーを訪ようと決めた。
 カーナビに「玉の春」とセットしたが、意外やそこは旅館だった。

 104番の情報などから、同社大船渡支店のTEL番号があった。ひとまず大船渡に出向くことに決めた。他方で、港町で『海鞘』の取材もしたく、水産業の方々から話を聞きたい気持ちもあった。
 

 陸前高田の市街地で同社工場のタンクなども確認してから、大船渡にむかった。着いたのはもはや夕方4時だった。
 仙水酒造大船渡支店は見当たらず、電話で確認したところ、支店は閉鎖され、一関市に一本化されていた。 水産業者を訪ねるには遅すぎる時間帯だった。

 それは落胆でなく、「取材」は遠回りはあたりまえ。電話のなかで、来春には 仙水酒造の方に会って話が聞ける、コンタクトは取れた。一つずつ情報が重なっていく、そんな手ごたえすら感じた。

 大船渡の漁船が停泊する波止場に出むいてみた。港湾のあちらこちらに瓦礫の山があり、地震と津波の爪痕が残っている。私は岸壁で、あえてパソコンを開き、ユーチューブから大津波の映像を見て、疑似体験をしてみた。

 堤防を津波が越えた。防災無線が津波の接近をくり返し告げている。湾内の対岸にはまだ走る車が見える。「飲み込まれるにちがいない」とかんたんに予測がついた。

 私が立つ岸壁の水位がいきなり増す。たちまち海岸線が海に沈む。漁船が持ち上がり、陸上へと運ばれはじめる。私の立つ場所がかんぜんに水没した。
「私の身体は津波に巻き込まれる、1分後に死す」
 想像とはいえ、異様な恐怖に襲われる。

 ビデオの中で、丘に向かって人が逃げる。「早く、早く、」と悲鳴が聞こえる。
 荒々しい津波が家屋やビルに襲いかかる。渦巻く潮流に流される家屋があちらこちらに激突する。粉々になっていく。津波は巨大で凶暴な獣に似て町に襲いかかる。

 引き潮も荒々しく、家屋、車など次つぎに持ち去っていく。
「私の遺体は物体で傷だらけだろう」
 私は恐怖の疑似体験から、それを文章化する目で、あらためて四方の廃墟の建物をみた。【つづく】


 ※次回の被災地取材は、真冬の1月中旬を予定しています。
酷寒の現地を体感し、執筆に生かしたいと考えています。

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