A060-3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(8)陸前高田=「頑張れ」って不愉快だ

 11月初めに被災地に入った。閖上と陸前高田の市街地に立ち、ともに大津波で都市がなくなった光景を見たとき、広島県出身の私は「これは原爆と同じ惨事だな」と心から思った。
 井伏鱒二さんの「黒い雨」、林京子さんの「祭りの場」のように、文学として後世に伝えなければならない、とつよい使命感を覚えた。私の力量はともかくとして、最大限にそれに向かってつくす。執筆まえに十二分な現地取材がなければ、厚みのある作品は生まれない。それだけは確かだ。

2度目として、真冬の被災地に入った。
 前回(11月)は手さぐりであり、被災者からひとりも話が聞く機会が得られなかった。こんかいはあえて真冬の三陸を意図とし、1月半ばに入った。良き紹介者を得られたことから、酔仙酒造、カキ養殖業者、製材業者、大工組合の方々、延べ9人と面談できた。
「3.11の群像を小説として書き残す」。それぞれがこの趣旨を理解してくださり、生々しい話をも深く聞くことができた。
 小説化のために語ってくれたもので、主たる内容や個人的なものは守秘義務があり、作品化する前に開示できないけれど……。

 妻子を亡くされた方も複数いた。実家の家族が全員死んだ方もいた。それらの方々から、作品のテーマの一つでもある、「生きている環境の変化と心」を聞かせてもらった。自然災害に対する日本人の価値観から、「人間とは何か」までも問う。
 身内に死者が出なかった方も、いずれもがつよく印象に残る証言をしてくれた。

 たとえば、酔仙酒造の若手社員、3人がそれぞれ出来事を語ってくれた。そのうちの1人が業務車から降りると、「突然、目のまえに、ものすごい津波が見えた。工場裏手の斜面を駆け上った。このとき視野に入っていた、ぼくの上司は流されました」と、その工場跡地で話してくれた。

(TVで放映された、酔仙酒造の看板がなぎ倒される、映像があるという。取材後、あらめてユーチューブで探すと、同社の工場・事務所を破壊する映像が確認できた。こんな大津波を十数メートル先に見て、よく逃げられたものだと思う)。工場跡から見た背後の急斜面を知るだけに身震いする。

「自分だけ逃げて申し訳ない」という心の痛みは消えていない、と話す。文学は心のケアにはならない。ただ、それを表現することはできる。
 
 こんかい取材した方々は再訪も快諾してくれた。理由の一つには、メディアに対する不満が内在しているようだ。とくに若者にその傾向が強い。
 

「生きるため、明日のために、精いっぱいやっているんだ。『がんばれ』、なんて、くじけた人間扱いで言ってほしくない。腹が立つ」。ある30代の男性は、「我々の災害はイベントじゃないんだ。TVなど観たくない」と吐き捨てた。
 多くのひとは文学として書き残してほしいと期待を寄せてくれた。

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