A060-3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(7)陸前高田=目前で助けを

 高田松原の防潮林は約7万本のクロマツ、赤松で、国の名勝として年間に約100万人の観光客が訪れていた。3.11の大津波で破壊された。いまや「一本松」で有名になった。「希望の松」として復興のシンボルにもなっている。

陸前高田市を取材していると、一本松とは嘘で、米崎寄りに2本のクロマツが生存していると判った。大船渡線の陸前高田駅の次なる、脇ノ沢駅からすぐの海岸である。高田松原とすれば、東の外れに位置する。
 こちらの二本松は緑の針葉樹として生命力がある。青々としていた。

 3.11では、高田の松原が全域にわたって破られ、2千人強の犠牲者が多くでてしまった。マグニチュード9.0でありながら、なぜ大津波が予測できなかったのか。住民には、どこか松原の安全神話とか、過信とがあったのか。
 
 気象庁は大津波警報を出したとき、岩手県に高さ3mの津波がくると予測した。同庁は次々に6m、10mと変更していった。しかし、停電などでうまく自治体に伝わらなかったようだ。

 陸前高田市役所の防災無線は、「3-4メートルの津波が来ます」と放送をくり返す。「放送の最後に、ギャーと叫んだ、防災無線の声がいまも耳に残っています」と住民の一人が語ってくれた。
 

 JR脇ノ沢駅(高田駅からひとつ次の駅・跡形もない)プラットホームには、チリ地震の最高位として(標高2m~3m程度)水位標識だけが残されていた。これが犠牲を大きくした一つの要因らしい。
 陸前高田市の住民は大地震=津波を考えなかったわけではない。チリ地震の潮位が意識のなかに根づいていたのだ。有線放送の3-4メートルの津波ならば、高田松原の4.5mの堤防は越えないだろう、と考えたのだ。

 私を案内してくれる方がプラットホームを指し、「老人ふたりがここに腰かけて、津波がくるという沖合をのんびり見ていたんです」、早く避難しないと危ないよ、と叫んだという。
 老人とならば、チリ地震の経験則があるから、かえって大丈夫だと踏んでいたのだろう。

 実際には10数メートルの大津波だった。高田松原を破った津波は、猛スピードで市街地に襲いかかった。一方で、気仙川を逆流していく。これらは5キロも、6キロも奥まった、国道沿いの集落をも破壊した。

 津波を見た住民の話を聞くと、「海から白い煙」が押し寄せてきた、「どす黒い煙」が湧き上がった、「エメラルドグリーンに見えた」と、表現がふしぎに違うのだ。沖合からの津波を見た人、岸壁で飛沫を巻き上げるとき見た人、街なかで見た人、さらには太陽の光の角度などで、色合いが異なっているようだ。
 
 ヘドロを巻き込んだ「黒い津波」と語る人が最も多かった。

 市が指定した避難所や寺などが襲われたことが、犠牲を大きくした。
 気仙川に近い小学校もその一つ。校庭まで避難してきた奥さんたちが安堵で立ち話していた。そこに恐ろしい勢いで津波が襲いかかってきたのだ。
「わたしは間一髪、斜面を駆け上れました。わたしの足もとでは、それら奥さんたちが『助けて』と悲鳴を上げて波に飲み込まれて、消えてしまったのです」と言い、縄の一本でもあれば、と悔やむ。

 気仙川に架かる大橋で、逃げる車どうしが接触事故を起こして喧嘩していた。時間的に見て、きっと2人して流されたでしょう、という目撃証言もあった。現地の人はけっして亡くなったとは言わない。「流された」と表現する。

中学校が高台にあった。仮設住宅がグランドに建てられているので、生徒たちは運動に不自由をしているようだ。津波は、生育盛りの子どもたちの伸びやかさを奪っていた。

 学校の高台から下った廃墟の一角で、昭和48年生まれの男性から話を聞くことができた。「ボクの姉と1歳児が車で流されました。この近くで、並んで車で流されていた人が車窓越しに、姉を見ていたんです。その方の車は突起物に引っかかり、助かったといい、状況を教えてくれたんです」と、しばらく無言で涙ぐんでいた。

 1歳児はこの近くで遺体で見つかった。姉はまだ見つかっていないので、いまだに探しているという。
「頭のなかでは死んでいるはず、と判っているんです。安置所では見つかってほしくない。姉がどこかで記憶喪失でも生きていてほしい」とかすかな期待を寄せているのだ。

 カキ養殖いかだを作る海岸まで、私を案内してくれた方が作業ちゅうの男性に、「久しぶりだ、津波以来だな。奥さんは?」と声をかけていた。
「流されてしまった。8月のお盆で、警察で死亡証明をもらって、もう区切りをつけたよ。墓を建ててやった」「墓のなかに何もないのも、悲しいな」という男どうしの会話が、私の目のまえで交わされていた。

 

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