A060-3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(11)気仙沼大島=1000年前からの伝説

  気仙沼港から25分の気仙沼大島・浦の浜港に渡った。気仙沼大島はこれまで「緑の真珠」と言われてきた。3.11の大津波で、美しい海岸と砂浜が無残な姿になった。


 大津波が来ると、島が3つに割れる、という伝説があった。1000年前から伝わったのではないか、と推測されている。

 気仙沼大島は起伏の多い地形である。3.11の大津波は、太平洋側と気仙沼側(戻り津波)の双方から、20メートルの高さで同島を襲った。島の中央部で合流し、島を2つに分断したのだ。
 南部では盛り土の新道路があったので、津波の合流は堰き止まった。(島の東西を結ぶ舗装道路がなければ、津波の高さからして島は3つに分断されていた)。地形通りならば、「伝説の三分断」だった。

 それは単なる民話の世界でなく、いま現在も、島民に訊いても、子どもの頃から「親や、祖父母から聞いて知っていました。半信半疑でしたけど」という。
 明治大津波、昭和大津波、ペルー地震でも、島は分断されなかった。それでも大津波の三島分断の伝説は子々孫々まで、平成時代まで語り継がれてきていたのだ。
 
 瀬戸内海の雄・村上水軍は鎌倉時代から百戦錬磨だった。倭寇として中国大陸にも渡る。織田信長との海戦に勝った。やがて、秀吉に敗れた。その落ち武者が熊野からさらに北上し、気仙沼大島に落ち延びたという。同島には村上を名乗る家が多い。(島の語り部の話し)。
 海を知り尽くした村上水軍の末裔だけに、島民に津波の恐怖を警告し、避難路を意識させてきた。約1000年前からても、消えない素地と風土とがあったのだろう。

 3.11では、同島・浦の浜と気仙沼港を結ぶフェリー3隻がすべて被害に遭った。一隻は燃えて炎上し、他の2隻は陸に打ち上げられている。
 電話もケータイもつながらない。救援も仰げない。そのうえ、多くの人が避難した亀山が火災に遭った。山火事の消火の要請はできず、島民たちは孤立した恐怖に襲われた。山火事は山頂まで達した。
「まるで地獄にいるようだった」
 そう語る島民は、ひたすら自らの手で消すしかなかったのだ。(みんなの作品・伊東勝正さんが当時の写真提供)。

 最初に到着したのが、米軍の第7艦隊「トモダチ作戦」の米兵たちである。大勢が涙を流して感謝したという。
 その後、海上自衛隊がきた。オーバー・クラフトやヘリで、島民を艦上に移送し、風呂に入らせてくれたり、おにぎりや豚汁をご馳走なったりした。そのうえ、隊員たちが艦内を案内してくれて、島民の質問には何でも答えてくれたから、日本の防衛知識を得たと話す。
 
 避難所では、国民休暇村の元料理長が腕を振るってくれたから、とても美味しく食べられたと話す。最も困ったのが水だという。島民は学校のプールの水を沸かして飲料水にしていた。

 避難所にはペットが持ち込めない。車の中で、犬とともに100日間過ごした年配者・男性からも取材できた。当時はガソリンが入手できない。車内でも凍りつく。
「ワンちゃんは、ボランティアから支給されたメシを与えても食べない」
 このまま死ぬのではと思ったらしい。
「ボランティアの獣医から缶詰が提供されたから、ワンちゃんの命が助かった」
 と語っていた。

 仮設住宅の住民は、行政の高台移転の設計図が出ないので、2年、3年先の自分が見えてこない。自分たちは何年も立ち直れないのではないか、という不安。人生設計がいつまでもできず苦慮していた。

 あるボランティア団体が、昨年末に仮設住宅の住民からKJ法で聞き取りしていた。それが同集会所のボードにいまだ残っていた。この団体がどれだけ行政につよく働きかけたのだろうか……。住民はそれに期待しているようだが、少なくとも現在までフィードバックされていなかった。
 
 避難所の食事は無料である。仮設住宅に入れば、おのずと食費は自前。高齢者たちに話を聞くほどに、厚生年金と国民年金の違いが、そのまま生活格差になっていた。

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