A060-3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(4)陸前高田=あの両親が死す

 11月15日、陸前高田に入った。気温が3℃で、ミゾレが降る。広大な市街地は跡形もなく、いまや想像を超えた、巨大な荒野だった。
 3.11の大津波で、倒壊した家屋や建造物はすでにシャベルカーなどで整地された、人気すらない、「無」の世界だった。それが却って、数千人の死者に取り囲まれているような、得体のしれない不気味な戦慄すら覚えた。

「広島の原爆投下の後とおなじだな」
 それが率直な印象だった。1945年、広島に原爆が投下され、大火炎で市街地のすべてが焼かれてしまった。見渡すかぎり焼け野原となり、建造物は唯一、原爆ドームだった。

 廃虚の高田市役所の近くに車を停めた。降りて建物を凝視した。天井が落ち、各階の窓がすへで割れ、漂流物の流木や布類が絡まる、無残な姿をさらしだす。広島原爆ドームと、どこか類似するものを感じた。

 私がこの陸前高田にきたのは、約20年前だった。ある企業の人事部に勤務していた私は、求人の挨拶を兼ねて高田高校を訪ねた。同高出身者には、卓球(団体)で県大会準優勝、東北大会の出場経験ある、脇本久美さんがいた。彼女にとっては、社会人になって、私が最初の上司だった。そんなことから、高校訪問の後、彼女の自宅に立ち寄って挨拶した。

 彼女の両親はクリーニング店を経営していた。夫婦して思いのほか歓待してくれた。そのうえ、父親が美しい松原の海岸まで案内してくれた。実に見事な風景だった。父親が郷土自慢の口調で、海岸の特徴を語ってくれたことが印象に残る。

 3.11の大津波が強烈な破壊力で、高田の海岸線を乗り越え、市街地を襲った。平坦な市街地は広域に濁流の渦になり、阿鼻叫喚の地獄絵となった。逃げ惑う高田消防団員がビデオで撮っていた。映像は前後左右、逆さま、悲鳴が続く。それは撮影できたというよりも、ビデオカメラが回り続けて記録されていたというべきだろう。高田市は2千人以上の大勢の犠牲者を出した。

 3.11以降、脇本クリーニング店の両親の安否が気になっていた。しかし、脇本久美さんは結婚退職し、その後の音信などない。月日が流れた。9月末に、小さな手がかりから、脇本クリーニング店の両親と、消防団員だった弟さんの3人が亡くなった、と聞いた。胸が痛んだ。

 私が東日本大震災の現地取材を決めて、東北へのチケットを買い求めた11月初旬、彼女から不意に電話がかかってきた。連絡がついたのだ。
 父親と弟さんの遺体は早くに見つかった。母親は長く行方不明だったという。約半年後、8月末に遺体が瓦礫の下から見つかり、DNA鑑定で死が決定づけられたと語った。
この間、彼女は数多くの棺を見て回ったようだ。
「私の結婚式の写真が2キロ先で見つかったんですよ」
 こうした話をふくめて約45分ほど、当時からの状況を聞いた。

 高田に入った私は、脇本クリーニング店の場所を特定したうえで、そこで3人の冥福を祈りたかった。
(店舗は市役所に近かったが、どこにあったのか?)
 住民から場所を教えてもらいたくても、気温が3℃だと、見渡すかぎり歩く人などいない。ただ、碁盤の形状の道だけが視野に入る。

 
 車を走らせてみた。大船渡線の線路はズタズタだった。津波に巻き込まれた廃車が山積みされていた。消防車、……、それらは町全体が破壊された証言者のようだった。所どころ、車、木材、瓦礫などに分類された廃材が山積みになっている。重機とトラックが廃材の処理をする。それ以外は動きのない近い世界だった。

 パトカーが巡回しているが、2キロ3キロ先でも確認できる。それほど視界を遮る構造物がない。幹線の国道にでると、トラックや乗用車が行きかうが、心なしか台数が少なく思えた。


 松原の海岸では、警察官5、6人ずつ2グループで捜索活動をしていた。廃虚の交番では、殉職警官の遺影が飾られ、花が添えられていた。

 廃虚のホテルの玄関先には、秋の花が咲くわずかな花壇があった。打ちのめされた町人が将来への希望をこめて咲かせているようだ。


 私は写真家「畠山直哉」さんを思い浮かべた。
 9月30日、東京都写真美術館が開催する「畠山直哉展」のプレスギャラリーツアーに出席した。陸前高田出身の畠山氏が、故郷の廃虚を撮影し、同展で展示していることから、報道陣はいつもよりも約2倍ほど押しかけていた。
「私はしゃべだすと止まらないんです」と言い、人間と自然のかかわる、海外撮影の写真を紹介していた。

  やがて、陸前高田の被災地の写真展示の前にきた。畠山氏は説明の途中で、幼いころからの故郷の愛着を語るうちに、言葉を詰まらせた。そして、目を抑えて泣き出してしまった。
 記者たちは静かに見守り、誰も質問を向けなかった。報道陣としては、今回の最も取材ダネだったのに……。

 同展の企画は昨年からのもので、3.11を狙ったものではない。それだけに、このタイミングで、高田市出身のカメラマンの展示会とは奇妙な偶然を感じた。(同展は12月4日まで、東京都美術館・恵比寿ガーデンプレイスで開催しています)


 市役所前に戻ってくると山口、福井、横浜ナンバーの『復興支援車』に乗った人が、現地の人たちと別れを告げていた。
 他にはボランティアの姿はなかった。殆どが引き揚げたのだろう。まだ、住民からの取材はできていないが、推量するに、住民みずからがこのさき生活を切り拓いて行かざるを得ない。当然、厳しい環境に置かれていく。

仕事はない、生活費はない、住まいのめどはない。さらには企業も消えてしまったし、働き口など満足にない。過去からの住宅ローンなどを抱えている。四面楚歌かもしれない。

 さらに住民を探し求めた。瓦礫の山の側に、60歳前後の夫婦がいた。尋ねると、男性が脇本クリーニング店の位置を教えてくれた。
 その方も高田高校の出身者で、母校の校舎も破壊されたと嘆いていた。

 現在の境地を聞いてみた。
「大津波が来た時、間一髪助かりました。いまは不安でいっぱい。仮設住宅で、目先の寒さが心配です。将来の見通しはないです」と言葉少なげに語り、車に乗り込んだ。

 私はいま陸前高田に立っている。
 3.11で、家族関係、親子の絆などがどのように変化していったのか、と創作活動として思慮していた。他方で、この先を考えていた。
 世間の温かい目はそう長く続かない。ある意味で、単なる同情心で被災者たちを見ていたところもある。やがて、被災者に対する気配り、心配りも薄れていくだろう。やがては忘れ去っていく。

 小説は、自然災害に対する人間のこころの変化を追っていくことができる。忘却のかなたに消えかかった災害の傷跡、人間の変化などを作品のなかで、ふたたび呼び戻せる。あるいは再現させることができる。それが文学の一つの役目だろう。
 そんなふうに考えながら高田を歩いていた。
 


 脇本久美さんには電話で、高田での話を報告させてもらった。彼女からメールが届いた。
『震災の場景を思うと つらくなるばかりです。今でも 信じられなく 受け入れたくない気持ちがあり 今は ただ まだ岩手(高田)で元気でいると思い いつも通りの生活を東京で生活を過ごしている感じです。両親が避難できて不自由な生活をするのもつらいだろうと思うし、一瞬にして 人生を絶たれるのも悔やまれるだろうし…」(原文通り)
 彼女がいま両親を悼む心境を語ってくれたのである。【つづく】



取材先の人物、企業、絞り込まれた地区名は、被災者のプライバシーの尊重、および取材源の守秘義務から仮名としています。

「3.11(小説)取材ノート」トップへ戻る