A060-3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(14)陸前高田=被災者の私たちを忘れないで

 3.11小説の取材で、11月から、三陸の3カ所(陸前高田、気仙沼、気仙沼大島)に絞り込んで取材している。数多くの体験を聞き取りしている。他方で、現地の歴史にも目を向けている。

 奥州・藤原氏が栄えていた頃、陸前高田市の金鉱から大量の金が産出し、北上川を経由し、平泉に運ばれていた。陸前高田は当時から豊かなところだったという。
 3.11で、一瞬にして、1000年来の栄えた町がすっかり消えてしまったのだ。

 高田は銘木・気仙杉の産地である。宮大工の腕が伝承された、気仙大工が有名だと教わった。それら歴史を小説に取り込み、厚みをつけるために、3月末に「気仙大工関連施設」を訪問した。

「1年経った今、作家が来てくれる、ありがたいです」
 と案内担当の女性が歓迎してくれた。

「私は大津波の恐怖小説を書く気はありません、ノンフィクションの小説ですが、『3.11で人間の生き方がどのように変わった』と、それをより事実、真実に近いところで作品化したいと考えています。だから毎月、現地に来て、数々の人にお会いし、本音のところで取材させていただいています」
 そんな風に説明した。

彼女が急に涙声になり、
「大津波の襲われた直後はメディアがきて、大々的に取り上げ、世界に発信してくれました。すると、ボランティアが大勢で現地に来て手助けしてくれました。次は視察団です。最近は観光ツアーです。いまやメディアで3.11と言えば、原発問題になっています。大勢の被災者はまだ苦しんでいます。おなじ日本人なのに、大津波の被災者の存在が薄れ、忘れ去られようとしています」
 と語ったうえで、さらに、
「小説で私たちの被災者の心を伝えてください」
 とつけ加えた。

 新聞社、雑誌社の写真集は1、2度見れば、あとは資料として本棚に収まるだけである。どんな大メディアのものでも、伝承力はない。

「小説ならば、文学的価値があれば、後世まで読んでくれます。だから、私は精いっぱい取材して、後世に伝えたいのです。大津波と人間との関係を」
 私は自身にプレッシャーかけるつもりで、それはどこに行っても明瞭に言い切っている。実際に、そうしたいのだから。

 私が現地でよくたとえに出すのが、広島原爆を素材にした、井伏鱒二著「黒い雨」である。井伏さんは私と同郷の広島県人である。私は小説の習作時代に原爆を素材に作品化したことがあるから、より想いれが強い面がある。

「黒い雨」の登場人物は、原爆を被災した女性で、放射能の後遺症で嫁に行くにも差別されてしまう。その苦悶が書き連ねられている。

「小説だからこそ、原爆と人間の関係が描かれるのです。いつまでも社会問題として人々の心に残るのです。写真集では、若い女性の原爆後遺症との戦いなどつたえられません。大津波と人間。それも写真集では残せないと考えています」
 私は取材先で、そんな説明をすることもある。

 三陸大津波は古代からくり返し、被害を受けてきた。明治、昭和、そして平成時代とつづく。その都度、人間が多く死に、生きながらえても苦しい生活を強いられてきた。それが忘れた頃、人々は海岸・波打ち際まで生活圏を拡げていく。またしても、大津波にやられてしまう。

「3.11大津波と人間」を作品化し、後々の人が読めば、また必ず来るだろう大津波の警鐘に役立つ、という信念で臨んでいる。

 房総沖を震源地とした大地震が発生し、広田湾(陸前高田)とまったく同じ規模の大津波が東京湾を襲ったら、どうなるのだろうか。そんなのはゼロだ、とだれも断言できない。

 日本列島どこに行っても、津波は他人事ではないはず。3.11大津波は忘れてはいけない、目を逸(そ)らせてはいけないことなのだ。明日は我が身なのだから。

 こんかいの取材中の女性のひとすじの涙から、その認識をつよく持ち直した。

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