A060-3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(15)気仙沼=日本列島の河口はふさげず

 大津波の被災地に行くと、時おり、カメラを持った人たちに出会う。被写体とどう向かい合っているのだろうか。それぞれの想いがあるから、知る由もない。ただ、薄気味が悪いと思われる被災現場では、ほとんど見かけない。


 私の被災地写真は、取材ノートの一部である。文章化するとき、手元に写真があれば、情景として描きやすいし、緻密に書き込めるからだ。

 災害現場で、私の滞在時間はやたらと長い。写真撮影しても、すぐ立去らず、悲惨な現場を凝視し、わが身を置いて、じっと緻密に思慮する。

 破壊された仙台行きバスの前で10分でも、20分でも凝視している。乗客はバスから脱出できたのだろうか。何人が亡くなったのだろうか、と現場の地形から想像する。

 そんな話をすると、講座のある受講生から、
「被災地に一度行きましたが、気味が悪いし、無人だし、ここで大勢死んだと思うと、ボクは立ち止まってじっと見ていられませんでした。小説家は度胸があるんですね」
 と言われたことがある。

「小説は想像力が大切です。机に向かって私のわずかな脳細胞で想像することは、たかが知れていますよ。まず現場で状況を見、より事実に近づこうとして、想像力を働かせるのです。だから、大勢の死者が出た場所でも、私は丹念に観察するのです。恐怖を感じれば、それはそれで作品に生かせるから」
 そう応えたことがある。


 気仙沼のタクシー運転手が「職場の仲間ドライバーの一人がこの辺りで死んだんです」と指した。津波が海から大川をさかのぼり、土手を越えた激流が町に襲いかかった。大渋滞だった道路の車はことごとく激流に飲まれた。

「人間の運は不思議ですね。仲間のもう一人が車の大渋滞で、大川の橋の上で動きが取れなかったんです。川の両岸の町はあふれた大津波で、車も人も流された。橋上だけが水が来ず、命拾いしたんです。それもわずかな台数だけですよ」

 気仙沼で、大川周辺が最も大勢の死者を出したところだ、と運転手は説明した。

 東京で例えれば、最も多くの犠牲を出したのは、海に近くても高層ビル群がある中央区や千代田区ではないのだ。
多摩川をさかのぼった大津波が世田谷区を襲い、神田川をさかのぼった大津波が練馬区を襲い、江戸川をさかのぼった津波が北区を襲い、こうした内陸で最大の犠牲者を出したようなもの。

 それは陸前高田でもいえる。気仙川(けせんがわ)を遡った大津波が、市役所など海岸から5キロ以上も離れた内陸の市街地を襲ったのだ。

 同市の大勢の消防団員が、海岸の高田松原の防波堤・水門を閉めに行った。大津波が気仙川を濁流でさかのぼり、都市の横っ腹から突いたから、水門の閉鎖はなんら役立たずだった。

 結果として、背後から津波に襲われた、消防団員らの殉死者を大勢出してしまった。そのうえ、水門過信が市街地を全滅させた。2000名からの死者を出してしまった。
 さらには何度も襲いかかる大津波が、高田松原の防潮堤すらも乗り越えたから、陸前高田市の生命と財産をことごとく奪ったのだ。。


 人間が力技で大津波を抑えようとして、日本列島に防波堤を隈なく作っても、大河の河口は塞(ふさ)げない。それが大津波にたいする盲点なのだ。

 1台の悲惨な仙台行きバスを凝視し、これまでの取材情報を重ねていくと、大津波に対する人間の過信や弱点にたどり着くのだ。

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