登山家

富山藩士の富士登山 = 上村信太郎

 江戸時代中期の享和3年(1803)、加賀・大聖寺藩主の命により、富士参詣をした家来である笠間亨が記した日記が残されている。『享和三年癸亥日録』という題名で一般には「笠間日記」の名で知られており、そのなかに富士登山の記録が含まれている。


  大聖寺藩は、現在の石川県加賀市にあった藩で、加賀百万石、前田利家の四男で加賀金沢藩主の利常が隠居に際して三男利治に分封。加賀藩の支藩(7万石)となったという経緯がある。また、大聖寺という地名は『日本百名山』の著者深田久弥の出身地でもある。

 笠間亨は明和5年(1768)に儒学者那古屋一学の次男として生まれ、16歳のときに笠間平馬の養子になる。元服後は小姓、近習、表御用人等を歴任した。享和元年から江戸詰。この間に富士代参を果たす。

 では、徳川家斉将軍(第11代)の頃の富士登山がどんなだったのか「笠間日記」を見てみよう。6月10日に藩主から富士山御代参を命じられる。同行者は藩士の大野文八。出発前に武州小仏の関所を通る通行手形を用意している。
 江戸出発は6月16日(旧暦)。内藤新宿、八王子を経て三日後、吉田村に着いて田辺次郎右衛門の宿に泊る。この人物は富士講の元祖食行身禄入定のときに最後まで付き添った御師田辺十郎右衛門の子孫という。


 20日、登山準備(300文で案内人を一人雇い、予備のワラジ・食料の餅など用意)をして出発。浅間神社裏口まで田辺次郎右衛門が見送る。中の茶屋を過ぎ、馬返しで馬を乗捨てる。道中、いくつも堂がありそこを通るようになっている。これは「銭ヲ貪ルタメナリ」と感想を記している。二合目で金剛杖を買う。夕立あり蓑を着用。五合目の茶屋で休む。右方に小御岳石尊大権現の鳥居がある。七合目に身禄の堂があった。

 八合目の石室に泊る。室は4軒、「八合目迄吉田領也、是ヨリ上ハ須走領也」と記す。
御師に借りた綿入れなど4枚着るがまだ寒い。宿賃3人分、飯、汁、粥、布団などで2朱。

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鍋焼きうどんは食べられず。紅葉も富士山も最高=市田淳子

 三連休の真ん中の11月23日(日・祝)は、晴天に恵まれました。
 気温も高め、次の日は天気が崩れるという予報のせいか、人、人、人。渋沢駅から時間稼ぎのため予約したタクシーに乗りましたが、登山客が多いため隣の駅(秦野)からの助っ人、アルバイトの運転手さんでした。

 道がわからず迷いに迷って予定より30分ほど遅れて二俣の手前に到着しました。あんなに人が多かったのに、登り始めるとそれほどではなかったのは、一般のコースとは逆回りをしたせいかもしれません。

 登山道で木々の隙間から、富士山が何度も綺麗に見えました。とても眺めのいいコースです。
 都内では紅葉の季節ですが、丹沢も山の下の方は絶好の紅葉の季節でした。赤、黄色、そして常緑樹の緑と青空がとても美しかったです。

 標高は大したことはないと思って登り始めましたが、山道はかなり急登で休ませてくれません。ですから、途中で見える富士山と紅葉はより感動が大きかったです。

 小丸に11時40分頃到着しましたが、小丸から鍋割山までが気分的に遠く感じ、鍋割山に到着したのは、12時半でした。山頂は人だらけ。座る場所もないくらいでした。

 それでも、楽しみにしていた鍋焼きうどんを食べようと、山小屋に入って聞いてみると、なんと! 2時間待ち!! そんなに待ってはいられないと、準備してきたパンやお菓子などの非常食で昼食を済ませ、下山することにしました。

 下山は少し早足で…前を歩くお二人の頭にはビールと鍋焼きうどんがチラついているのか、早い!途中でリンドウの花が咲いていたのですが…。そして、大倉のバス停から15時30分のバスに乗り、渋沢駅に20分ほどで到着し、反省会をしました。

 真っ先に鍋焼きうどんはないかと探しましたが、メニューにはなく、帰ってから(?)鍋焼きうどんを食べることにしました。鍋焼きうどん以外、お天気も紅葉も富士山も最高の山行でした。

                                    記録 : 市田淳子


『関連情報』

鍋割山(標高1,273m)

登山日 : 平成26年11月23日(日・祝)

参加メンバー : L石村、岩渕(美)、原田、市田

コース : 渋沢→二俣→小丸→鍋割山→後沢乗越→ミズヒ沢→二俣→大倉→渋沢


ハイキング・サークル「すにいかあ倶楽部」会報№183から転載

大惨事の1か月前だった、御嶽山(3067m)に登頂したのは=武部実 

 平成26(2014)年8月18日(月)に、新宿から高速バス(8時10分発)で、木曽福島に向けて出発した。渋滞も無く順調に、と思っていたら、なんと30分遅れ。
 木曽福島の美味しいお蕎麦屋さんであわただしくそばをかき込むはめになった。赤沢自然休養林で森林浴を楽しみ明日からの登山に備える。(木曽福島泊)


 翌19日、今回は黒沢口の登山コースなので、木曽福島からバス(8:40発)で御嶽ロープウェイの山麓駅までいく(約1時間)。
 
 山頂駅の7合目(2150m)に10時00分に着。雨が降っているので、レインウェアを着込んだりと身支度を整えて10時25分に出発した。

 樹林帯のコースだが、雨をさえぎるような大木もなく、ひたすら登り続ける。11時40分には女人堂8合目(2470m)着。ここで昼食タイムとなった。コーヒーやお汁粉を注文して休憩する。 

 12時15分に出発。雨もやんできたので、雨具を脱ぐ。いたるところにある石碑(霊神場)では、先達に先導された講の人達が祈祷する姿を見かける。
 信仰の山だなと改めて思い知らされた。


 14時20分には九合目(2800m)着。中野さんの足取が重く、顔色も悪いようだ。覚明堂という登山指導所と避難小屋をかねているところで休ませてもらう。

 お茶を入れてもらい、血中の酸素濃度を測ったら、中野さんは、79%と低い値。典型的な高山病の症状だ。
 酸素吸入(1000円)をしてもらったら、顔に赤みがさして楽になったようだ。
 ちなみに全員測ってもらう。一人が82%のほかは、ほぼ90%台。ところが私は99%という高い値、管理人にほめられた。

 今夜の宿泊場所である二の池新館小屋まではすぐ近くなので、とりあえず小屋に向けて出発する。15時25分に到着した。夕飯まで間があるので、5人で頂上まで約1時間のピストンをする。


 20日は朝4:30に起床する。この時間から空が赤みを増して、好い天気の予感。5時過ぎには木曽駒の北側にある経ヶ岳(2296m)付近から、ご来光を拝むことができた。

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女性の登山パワーはすごい(下)=紫蘭会が40周年記念イベント

 女性だけのACC「紫蘭会」の40周年イベント会場で、
「山は連れていってもらう、連れられ登山ではなにも身につきません。それではだめですね。自己の責任において、自立した山行を目指す。皆にリーダーをやらせました」
 と会長の小倉董子(のぶこ)さんは強調した。

 最初は躊躇(ちゅうちょ)していても、進んでリーダーをやってくれるようになる、と話す。リーダーで苦労しても、山は辛い思い出が良い想い出に変わる、という。


 斉藤京子さん(元大学教授)が40周年記念イベントの実行委員長である。「作品はたくさん賑やかに」と呼びかけた。会場(江東区文化センター)には、会員たちの創作した絵画、書道、写真、陶芸品などが数多く展示されていた。

 小倉さんの著書もならぶ。最近の著作は「知識ゼロからの山歩き入門」(幻冬舎)である。靴・ウェアの選び方、地図の見方、天候の予測、疲れない歩き方がある。この点に関して、
「体力のない方でも、ゆっくり、小幅で同じペースで登る。ゆっくり歩けば、地球の果てまで歩けます。道なき道も登れます。それは入門者にも、ベテランも同じです。それが生涯楽しめる歩き方です」
 とインタビューでも強調していた。


 山に登る者には山岳遭難がつねに意識のなかにあると思う。心構えなど、その点の意見をもらった。
「自然(山岳)は何ごとが起きるか解りません。有名登山家でも雪崩に遭う。予想もせず、突然、火山が爆発していん石が落ちてくる。それが山の怖さです」
 そう前置してから、
「運・不運も才能のうち」
 そう割り切れない面があるが、とっさの判断でリュックを頭にのせて助かった人もいる。こうした瞬時の知恵やアイデアも、山で身につけていく必要がある。それはちょっとした冒険心が育ててくれるという。

 小倉さんはかつて女性4人2台の車で、サハラ・東欧女子地球走破隊(2万キロ)、南米女子縦断隊(3万2000キロ)などアドベンチャー・ドライブを行っている。フロントガラスが粉々に割れるなど、思わぬことが次々に起こる。その場の出来事ごとに臨機応変に処す。

「危険を前提にした知恵がないと、山には登れません。ちょっとした冒険心をくり返し、瞬時の工夫を重ねることで、安全に対処する知恵が身につけられます」
 小倉さんのことばには、実践してきた説得力がある。


 夫の小倉茂暉さんは麻布高校時代の山岳部員だった。谷垣禎一さんや故・橋本龍太郎さんが同山岳部に在席していた。
 国民の祝「山の日」は、谷垣禎一さんが推進委員会長として推し進めてきた。小倉董子さんに同祝日についてコメントをもらった。
「山の日を利用して、山のリーダーを養成する機運を高めてほしい。そして、育った学生、社会人たちが次の世代につなげていく。それを望みます」
 祝「山の日」は来年8月11日から施行される。


 40周年イベントの最終日は、大勢が積極的に参加する『40年の軌跡』の朗読劇が行われた。会員が5行ずつ朗読する。最後に、小倉さんが心をこめて「マイ・ウェー」を歌った。


                                写真:滝アヤ

                                【了】


【予告】朗読劇『40年の軌跡』は、『穂高健一ワールド』(みんなの作品)で紹介します。 

 撮影:佐藤京子(紫蘭会・会員)

    

女性の登山パワーはすごい(中)=紫蘭会が40周年記念イベント

 ACC「紫蘭会」は手作りだ。紫蘭会の特長は登山計画も手作りだ。
 40年間で海外には25-6回行っている。40周年記念イベント会場に駆けつけた人たちが、小倉董子(のぶこ・写真・左)会長と懐かしい山行の想い出を語り合っていた。
 
 海外の初トレッキングは1980年のネパールだった。出発前には、『シェルパ、ポーターを40人も雇ってお姫さま道中』と皮肉ぽく新聞に書かれたという。現地に着くと、ちょうど国家的な秋のお祭り「ダサイン」(15日間)のさなかだった。
「動物の血を神に捧げる」
 その儀式で、各家の玄関先には、赤土で化粧した羊の首が飾られていた。女性会員たちはその光景を見て卒倒しそうになったという。

 町を離れて山間部に入ると、7日間はテント泊だった。ポーターがつくってくれた料理には馴染めず、ほとんどが下痢・便秘に苦しめられた。
「ロウソク一本、暗いなかで話すと、『きょうは夢の超特急? それとも生みの苦しみ?』などと自分をさらけ出せるようになる。それがうれしかった」
 と小倉さんは回顧する。それは何を意味するのかと、あえて聞いてみた。


「バカにならないと、自然と一体化は難しい。お嬢さんや奥様たちは、日常生活ではなかなかなれません。女性が山でバカになれるために、心を裸にして騒ぐ即興の『魔の芸能大会』をやってきました」
 テントのなかで、恋や失恋の唄を歌い、胸の内をさらけ出して語り合う。
 生の姿をさらけ出せば、心の交流が図れる。意思疎通が強まれば、チーム・ワークは向上し、困難に打ち勝つ精神が培われてくる、と小倉さんは話す。


 ちなみに、即興の『魔の芸能大会』が、最終日のイベントの朗読劇『紫蘭会40年の軌跡』に再現された。


 20歳代で同会に入った人でも、40年経てば60歳代である。30年間、20年間と同会に所属してきた人たちは、元気な高齢者である。彼女たちの活躍の場を広くするためにも、「登山から街歩きまで」幅広く展開している。


 これまで節目の記念イベントでは、山関連の水墨画、水彩画、油彩画、版画、写真、陶芸などの展示を行ってきた。会員はそれに向けた努力もおこなう。それが同会の求心力にもなっている。小倉さんも、40年来の水墨画を展示していた。
 みんなして将来に向かってゆるぎなく活動している。山行+創作活動が会存続の大きな要因の一つになっているといえる。
 

 小倉さんには、ACC「紫蘭会」のモットーについて聞いてみた。
『ユーモアを解する。ちょっと冒険する』
 この2つが大切だという。

写真:滝アヤ
                                   
                                 【つづく】  

女性の登山パワーはすごい(上)=紫蘭会が40周年記念イベント

 山岳はなにが起こるかわからない。そのためにはリーダーの求心力と、山仲間の強い精神の結びつきが必要である。
 西洋(アルペン)登山が明治時代に日本に入ってから、長く男性スポーツだった。小倉董子(のぶこ)さんは早大山岳部の初の女子部員だった。彼女は女性登山の草分け的な存在である。


 40年前の昭和50(1975)年に、朝日カルチャーセンター(ACC)「女性のための入門登山」がスタートした。
 主任講師は小倉さんで、同センター横浜、夜間コースなど大勢の受講生を集め、昭和59(1984)年に最多の334人に及んだ。第1回の実技登山は「那須茶臼岳・朝日岳」だった。


 同講座は18年間つづいた。その後は、このまま終了は惜しいと、ACC「紫蘭会」は存続し、国内外の登山活動を行ってきた。
 ことし(2015年)1月19日~21日の3日間、ACC「紫蘭会」40周年記念イベントが江東区文化センターで行われた。現在の会員は約100人である。


 会長の小倉さんは、日本山岳会・永年会員で、森林インストラクターの審査委員である。40年間にわたる活動を続けてきた。
 イベント会場で、小倉さんがインタビューに応じてくれた。登山のきっかけから、同会の歴史、登山の将来・方向性など多岐にわたって語ってもらった。


 小倉さんは山形県出身である。
「私は、父親(早稲田大学・山岳部出身)仕込みの山登りです。子供のころから、スキー板にシールを付けて麓から山頂へと雪山を登りました」
 彼女は登山の動機を家庭環境だと語る。

 彼女は山形西高校の登山スキー部で活躍した。早稲田大学に入学すると、早大山岳部に入った。初の女性部リーダーになる。卒業後は婦人画報社に入社し、雑誌記者として活躍する一方で、後輩指導にも尽くされた。


 1957年には早大赤道アフリカ遠征隊(横断1万キロ)に参加し、キリマンジャロに登頂している。この時は5ヶ月間の休暇をとっている。その4年後に、ニュージーランドにも行っている。
「いま考えますと、こんなにも長期休暇を取って、よくクビにならなかったものです」
 小倉さんは若き日をふり返る。

 雑誌に記事を書く。その約束事があったから、会社は大目に見てくれたのだろう。と同時に、出版業界が華やかりし頃で、会社全体に余裕があったからだろう。

                                      写真:滝アヤ

                                       【つづく】

日本山岳会の晩餐会=和服の姿の山ガール会員が増えたな

 日本山岳会(森武昭・24代会長)の恒例となった晩餐会が、12月6日(土)6時から京王プラザホテルで、開催された。皇太子殿下をはじめとした会員510人が参列した。

 ことしの新入会員は一気に増えて211人で、そのうち同晩餐会に45人が参加した。最近の山ブームを反映し、若手が増えた。

 かつて日本山岳会は伝統を重んじ、入会条件が厳しかった。ある意味でプロフェッショナルクライマーでなければ、手の届かない山岳会だった。しかし、会員の高齢化が進み、若返りが求められている。
 いまや若手の登山愛好者が増えている。「山ガール」が流行語になっている時節である。同山岳会は入会条件を大幅に引き下げた。その結果として、見た目には30-50代の男女が増えた。
 女性の着物姿も過去になく目立った。

 森会長が冒頭に挨拶に立った。
「ことし(2014年)は、御嶽山の噴火事故で、大勢の登山者が犠牲になってしまった。57人の亡くなった人の冥福を祈り、6人の行方不明者の早期発見を祈ります」と、自然災害の痛ましさを語った。

 明るい話題としては、5月23日、祝日「山の日」が制定された。16番目の祝日である。これは6年まえに、日本山岳会の当時の宮下会長が提言したもの。山岳5団体と国会議員連盟で実現した。

「こんなに早く実現するとは思わなかった。今後どうするか、まだ十分な準備ができていない。国民が意味ある1日にしていたい。若者、子どもらが山に親しめる環境づくりをしたい」と方向性を示した。
 祝日「山の日」を推し進めた成川隆顕さん(元毎日新聞)が、会長特別表彰を受けた。


 第16回秩父宮記念山岳賞は、大澤正彦さん(東京大学・教授)の『湿潤アジア山岳の垂直分布帯の成立と保全に関する生態学的研究』に決まった。
 森会長から、「記念講演を拝聴したけれど、難しくて、わからなかった」と一言添えられた。大澤さんは賞状を授与されながら、そんなに難しかったですかね、わかり易く説明したつもりですけどね、と苦笑していた。

 新入会員代表は、小島誠さん(四国支部)だった。同山岳会の初代会長・小島烏水のお孫さんだと紹介されると、会場がどよめいていた。

 鏡開きの後は、乾杯、開宴と続いた。日本を代表するアルペン・クライマー谷口けいさんは和服姿で、皇太子殿下となごやかに歓談していた。殿下は一般会員であり、公務でない。鏡開き以外は、壇上のスピーチもないし、終始、笑顔でリラックスされているようだった。

 私は上村信太郎さん、関本誠一さんと同じテーブルだった。
 上村さんは今年の正月に発行された『富士山』(山と渓谷社刊)を紹介していた。同テーブルの人から、「1冊だけなの、10冊ぐらい持ってこないと買えないでしょ」と言われていた。
 関本さんとは、ことし9月の登った剣岳のエピソードを語り合った。3連休にぶつかり、山小屋が思うように取れず、パーティーが分散してしまったという話題だ。


 同テーブルで隣り合うのが、酒井忠さん(静岡大学・教授)だった。同席の馴染みで話しが弾んだ。私が祝「山の日」にからんだ、天保時代のテーマ「山の恩恵」の取材・執筆をしていると紹介した。
「ぜひ、山岳信仰を書いてくださいよ」と要望された。
 
 江戸時代の初期には酒井老中がいた。その子孫だと聞いて、驚いた。私はいま下書き段階だが、宝暦時代の群上一揆(ぐんじょう・いっき)を取り上げている。田村意次が台頭することになった、農民一揆の裁判で、評定所の吟味に酒井忠という老中だ。

 臨席する酒井さんは、老中と名前がなんと一文字違いだった。

 現代の酒井さんからもっと話しを聞けば、江戸時代前期の譜代大名で、第4代将軍徳川家綱のときに大老となった酒井忠(さかい・ただきよ)の方の子孫だと話す。

 大老でも、一文字違いだった。
 江戸時代だと、畏(お)れ多くて会えない大名だろうな。

 
 
 

3連休は混雑した北アルプス 剣岳および立山=強い結束の下でバラバラ


 毎年9月には北アルプス登山だ。

 日程調整に失敗し、3連休にぶつかってしまった。

 山小屋の予約が上手くいかず、いきなり二つのパーティーに割かれてしまった。

 テント泊も覚悟したけれど……。


 3連休のメリットは、美人の山ガールにモデルを頼めたことくらいかな。

 他のパーティの女性に、いきなりモデルを頼んだ。快く引き受けてくれた。


 昨年は、白馬に登り、2014年は剣岳に登るぞ、と意気込んでいた。

 すにーかー倶楽部のメンバーは、あの剣岳に登れた。

 われわれは手前の剣御前だった。


 剣御前も、それなりに迫力がある。



 別の女性ふたりがなんとなく付いてきたが、なんとなく一緒に撮影しなかった。

 シャッターを押す役だけたのんだ。

 彼女たち「先生」と呼び合っていたから、教師、医者か、そんな感じだった。



 メンバーがうかつにも、谷底に飛び降りそうになった。

 標高約2900メートルの高度感はたっぷりある。



 わられパーティー、老若男女です

 「あれ、女性がいない」


「は~い。ここにいますよ」

 愉快なママさん登山家です

 話し上手で、楽しい人です。

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信州・三郷から上高地に至る=大滝山・蝶ガ岳

 天保時代の信州を背景にした歴史小説を執筆のための取材に入った。7月27(日)、28(月)の2日間、安曇野側から大滝山・蝶ガ岳経由で、上高地に下る登山を行った。


 松本市にある「浅間温泉・山の会」が、飛州街道の約半分を歩く。長野選出の務台(むたい)俊介代議士も登るというので、私も同行させていただいた。

                                撮影:赤羽俊太郎さん(代議士秘書)

 務台さんは超党派「山の日」制定議員連盟の事務局長である(写真・右から2人目)。そして登山中には文化・文政、そして天保時代の信州・歴史的な知識を授けてもらった。

 日本ペンクラブ・広報委員の新津きよみさんから、「務台代議士は、かつて松本深志高校で同じ英語研究会だったのよ」と聞かされていた。その面でも、親しみを覚えた。

                               撮影:赤羽俊太郎さん(代議士秘書)
 

 大滝山荘で一泊した。同山荘の関係者に不幸があり、山小屋の主は下山しており、務台代議士も弔辞を読まれるので、宿泊はなされなかった。

 
 7月27(日)は大半が雨だった。翌朝は雲海が眼下にあるので、ご来光がしっかり拝めた。


 飛州街道の歴史の道を歩く。山頂近くの池塘(ちとう)にはサンショウウオがいる、と聞かされた。確認はできなかったが、水が澄んでいた。

 飛州街道の道は当時と違い、一部が迂回している。昨日は雨が降り、ガマガエルが登山道に出ていた。2日目は朝のうち快晴で、高山植物が眼を楽しませてくれた。

「厚真温泉・山の会」の皆さんは、植物の名前をよく知っている。興味と関心度が違う、と感銘させられた。

 播隆上人が41歳の時、1826(文政9)年に、小倉村の中田又重の案内で、初めて槍ヶ岳を登頂した。
 ウェストン氏(上高地を紹介)が名高いために、槍ヶ岳初登頂と勘違いされている。播隆上人の知名度を上げないと、この誤解は根づいたままになってしまう。

 新田次郎著「槍ヶ岳開山」が世に出たけれど、結婚もしていない播隆上人が、若いころ一揆で妻を殺して出家したと記す。物語は面白くなるが、作家の良心として、これはやってはいけない。

 歴史小説も当然ながら創作が入る。過去のわずかな資料から膨らませるのだから。しかし、史実を極端に折り曲げ、人殺しで人的なイメージを壊す。著名・無名の作家を問わず、許される範囲があるはずだ。新田次郎氏はそれを逸脱している。
 なぜならば、多くの人は「歴史小説だから、史実に近いところで書いている」と信じ込むからだ。

 私は、そんな想いで槍ヶ岳を見つめていた。


 飛州街道を作ったのが、小倉村の中田又重だ。務台代議士の配慮で、その子孫がこんかいの登山に加わってくれた。道々に、新道づくりの説明を受けたり、資料を頂戴したりした。

 6尺(1.8メートル)の新道を延々と作る。それも北アルプスの標高2700メートルを越えたり、稜線伝いにだから、想像を絶する。私財をなげうった中田又重には、どんな信念があったのだろうか。
 歴史小説として、どこまで迫れるだろうか。
 
 中田又重のスケッチ図が残されている。よく似た顔立ちなので、写真を正面から撮らせていただいた。後日、再取材する予定である。

心臓手術4回の80歳でエベレスト登頂。攻めの健康法で成功した

 2016年8月11日には、祝日「山の日」としてカレンダーにのってくる。山にどう向かい合うべきか。
 80歳でエベレストを登る冒険家もいれば、那須の山道の腐葉土を歩きながらふわふわ感を楽しむ山歩きもある。山と動植物の保護の視点から、後世への影響を考える研究者もいる。あるいは断崖絶壁を登る若手クライマーもいる。

 山には数々の楽しみ方がある。山から学ぶこともあるし、一方で後世を考える機会にもなる。

 栃木県の主催によるシンポジウム『ふるさととちぎの山の魅力・山の恵み~「山の日」を考えよう~』が、5月27日(火)に、栃木県総合文化センターで開催された。第1部はパネルディスカッション、第2部は『最高齢エベレスト登頂への道のり』と題した、三浦雄一郎さんの講演が行われた。
 
 福田富一栃木県知事は冒頭のあいさつで、「地元出身の船村徹さん(作曲家)から、「山の日」の提案がなされました。そして、祝日になりました。これからはいっそう山に魂を吹き込み、育て、守り、次世代に引き継ぎましょう」と述べた。


 第1部はパネルディスカッションで、コーディネータは磯野剛太さん(全国「山の日」制定協議会事務局長)である。
「山の魅力は登山やハイキングだけではありません。海に対する恵みを生みだすところです。祝日を機会に、山としっかり向かい合ってほしい」
 と制定後のありようについて語り、パネリストに引き継いだ。

 ・ 萩原浩司さん(山と渓谷社・編集長)は、NHK百名山の編さんに携わる。
「奥日光はコンパクトで美しい配置になっています。山岳、中禅寺湖、戦場ヶ原など天が創造した傑作です」
 と栃木県の山の魅力を語った。

 ・ 谷本丈夫さん(宇都宮大学名誉教授)は、森の生い立ちからの研究に取り組む。最近は特に注目する事柄として、
「酸性雨の被害で、日光の杉並木が衰退しています。鹿と餌の関係で、尾瀬ヶ原などの貴重な高山植物が荒らされています」
 と山が抱える問題点を取り上げた。

 ・ 安間佐千さん(あんま さち、プロフリークライマー・写真左)は、宇都宮生まれの大学生。フリークライマーの世界チャンピオンである。
 2012年、2013年と連続してワールド杯の総合優勝をなしている。フリークライマーの何が面白いのか、と自問して聞かせてから、
「岩場は世界中にある。アイスクライミング、アルペンクライミングと、いろいなスタイルがあります。岩の形状はみな違うし、晴ればかりか、雨風もあります。自然のなかで、人間がギリギリに登れるか否か、そんな山もあります。私は世界の魅力ある岩を登たい」
 とみずから限界に挑戦していく意欲を語った。

 ・ 本間裕子さん(那須平成の森インタープリター)は東京生まれの東京育ちで、小笠原の母島で都レンジャーとして森の保護活動をしてきた。その実績で、那須に移り住む。
「那須に訪ねてきた人たちに、山をゆっくり時間をかけて山と森を観察してもらっています。樹皮のザラザラ感や樹木の温度。腐葉土のふわふわ感など、自然そのものを感じることができるのです。拾ってきた葉っぱを並べてみると、木々が生きてきた歴史の違いが解ります」
 とインタープリターの役割について説明する。 

 
 第2部の講演で、三浦雄一郎さんは70歳、75歳、80歳と3度もエベレスト登頂を成し遂げた。
「80歳で登頂した後、下山では体力を使い果たし、死神の甘い声が聞こえてきました」
 それは人間の限界だったと語る。

 講演では、エベレスト登山そのものよりも、日々の鍛錬を主として語った。登山は登りで体脂肪を燃やし、下りで糖を燃やす。と同時に、心肺機能を高める。こうした医学的な予備知識を聴衆に与えてから、三浦さんは60歳代で、体脂肪40、体重90キロもあり、そのうえ狭心症で心臓がすぐドキドキする、メタボの体だったと前置した。

 ここは体質改善をかねてエベレストを登ろうと目標を定めた。不整脈で4度も心臓手術をしているし、膝の半月板がすり減って1ミリもないし、これまた痛い。そのうえ、スキーで骨折もしている。

 こんな状態で、家族にエベレスト登山など話すと、反対されるに決まっているから、黙っていた。そこで、足腰を鍛えるために、『攻めの健康づくり』に励んだという。それはいかなるものか。
「足首に1キロの錘(おもり)をつけて、ザックを背負い、町なかを歩きました。食生活も改善し、早寝早起きに徹しました」
 そうすることで、体を改善し、鍛えることができた。膝の痛みが少しずつ取れてきて、半月板が4ミリになった。富士登山にも出向いたことから、骨の骨密度が20歳代になりました、と話す。

 エベレスト登山の成功の秘訣は、高度順応(高山病の予防)のために、ベースキャンプまで、若い登山家人よりも2倍の日数をかけて歩いた。それが良かったので、標高8500メートルまで元気よくつけた。ここでは登山の常識をくつがえし、「ウニの缶詰、鮭、手巻き寿司、お茶会もやりました」と面白く、食べ物にも凝ったと話す。
 この先は冒頭の死神がささやくほど、体力と脚力を使い果たすのだけれど。

 三浦さんのふだんの足腰をつくる攻めの健康法は、山好きな聴衆が多い中で、それぞれに体質改善、体力向上のやる気、あるいは何らかのヒントをもたらしたと思われる。