寄稿・みんなの作品

【孔雀船91号より】 眠れぬ夜の百歌仙夢語り〈七十七夜〉望月苑巳

 朝起きて私と顔が合うなり、まるで条件反射のように角を生やす我がマグロの女房殿。言葉の十字砲火、怒りにロックオンだ。台風ならカテゴリー4くらいの強さか。

「トイレを使ったら必ず窓を開けてよね」
「え~っ、お風呂の水もう抜いちゃったの、これから洗濯に使うんだったのに~。勝手にやらないでっていつも言ってるでしょ」
「パンツは裏返しに干さないで、タオルは端をピンとさせてよね。いい加減常識でしょ」
「そんなところに突っ立ってないで。邪魔よ!」
 しまいには付録でこんな一言も。
「何でも先にやらないと気がすまないんだから。きっとあなたは棺桶の蓋まで自分で閉める気ね」
 よく聞くと、身体が太っているので言葉も太っている。
「あなだはがんおげのぶたまでじぶんでじめるぎね」
 〝立て板に文句〟とはこういうことを言うのだろう。苦情のデパートだ(どこかで聞いた言葉だな)。次は「勝手に息を吸わないでよ」なんて言いかねない。オゾロジヤ~。といいたいところ。だがそこは大人の対応で、額を床につけ速攻で謝る。

「申し訳ございません。どうかお許しください、奥方様」
(ウソダピョン?もう古いかも)。非常識な顔(どんな顔だよ)が、こちらも条件反射になっている。悲し~い。ひょっとしてオイラはドMかも。


 でも逆に考えれば、この言葉の速射砲、実はマグロの女房殿の健康のバロメーター。今日も元気印の証拠だと考えればいいだけ。先に逝かれちゃ寂しいからな。
 次女の希望が朝シャンしたらしく〝貞子〟のような姿で降りてきた。
「オカーサン、それじゃオトーサンが可哀想。まるでカスみたいじゃない」と助太刀に入ってくれた、と思ったら続けて「オトーサンにも生きる権利があるんだから」だと。

 これじゃ共謀罪が成立するぞ。ファッショだ、人権蹂躙だ、祭りでワッショイ! (おちゃらけてはいけません=天の声)ドンビキの2乗。北のミサイルより怖いストレス爆弾が恐怖の大王のように降ってくる。
 ドツボのミックスジュースでついつい「俺を空気と思ってくれ」と言ってしまった。すると、
「空気もオナラするのね」
「それはきっと空気漏れだよ」
「空気漏れってなんでこんなに臭いの?」
「腸内フローラが悪さするからだろ」
「いいものばかり食べさせてあげてるのに、恩知らずね」
「どうせ町内の不良ら、のせいさ」
 恩知らずですみません。風評被害が怖い。

 これ以上言うとまた反撃を喰らう羽目になるので、ただただお腹をさするばかりのオトーサンでありました。おやっ、お腹が無礼千万にもコダマしています。アブナイアブナイ。南無阿弥陀仏。いつものように、コソコソと地下の秘密の部屋へ退散といきますか。

 気分一新、天変地異、無知蒙昧が、まさかのジャーマン・スープレックスを食らって床にはべっていた本を開く。不埒な日本人の本質みたり春の宵、ってなわけで、第二幕へアタッカで続く。


   ほのぼのと春こそ空にきにけらし天の香具山かすみたなびく

 突然の場面転換で驚いた向きもあろう。この百鬼夜行のエッセイにふさわしいカスタマイズされた展開にお付き合いいただきたい。
 昨年の夏は猛暑ではなく酷暑という言葉がふさわしい。地球温暖化に加えて台風5号が列島縦断、熱波の置き土産、いや最後っ屁というべきか。

 だからこの春こそは心をほっかりさせてくれる歌でも…と思った次第。冥途の土産にいいかも。
 新古今和歌集巻一春歌上にある後鳥羽天皇の歌だ。元久二年三月の三十首御会で「後鳥羽院御集」に収められている。

 一見平明でさらりと理解できる歌だと思ったら大間違い。恐ろしい細工が仕掛けられているからだ。
 さて、そこで問題。頭の「ほのぼのと」はどこにかかるのでしょうか。

 本居宣長は「春こそ空にけらし」だといい、石原正明は「かすみたなびく」と言った。しかし現代の研究者の間ではまた違った解釈をしているらしい。

 石田吉貞氏は「この語の響きを第五句まで預かっておくというのは無理がある」とし、「ほのぼのと――三句にかかる。ほんのりと、ほのかの意」としている。そして丸谷才一氏は「春こそ空にきにけらし」と「かすみたなびく」の双方にかかるのではないかという。

 言葉の曖昧性は日本語の特性でもあるが、古典和歌の時代にあっては、なお一層それを利用し、研究を重ねて技巧の極みとしたのである。恐るべし。

 ちなみに藤原定家が書いた「和歌手習口伝」の中には、この「ほのぼのと」を手本とした歌が載っている。


    よこ雲の別かるる空のかすむよりほのぼのと明けて春はきにけり

 そして「おなじことばこころなれども、すこしさまをかへぬれば、くるしからず」と述べている。本歌取りの心得で、これほど解かりやすいものはないかもしれない。「枕草子」の冒頭の名文句との関連性を考えてもいい。

 では次へ進もう。

    見渡せば花ももみじもなかりけり裏の苫屋の空きの夕暮れ

 ご存知、藤原定家の名歌である。だがこれなども、素直にハイ分かりました、とはならない。二種類の読み方が存在するのだ。

 まず「桜ももみじもない、春と秋を代表する美の喪失感を風情として表したもの」ととるか、もう一つは「海辺の夕暮れの寂寥感には桜ももみじも及ばない」とするか、ということである。

 丸谷氏はここでも、一の説の飛鳥井雅章、二の説の金子金治郎、両説とも認めた上で「二重に入り組んだこころを、この三十一文字に託したように思われてならない」としている。

 折口信夫は新古今の歌の散文訳を評して、鶏の羽根をむしったようになると笑ったそうだ。「解釈を一方にしぼり単純化するせいで新古今特有の模糊たる情趣が失われることが大きい」だからそれに気づいて「二様の解釈を立て、しかも彼ら(研究者)の詩学では詩の曖昧性をはっきりと意識できないため、一を取り他を捨てたのであろう」と丸谷氏は言っている(筑摩書房・日本詩人選10「後鳥羽院」)。


    春風にいくへの氷けさ解けて寄せぬにかへる志賀のうら波

 これは続新古今和歌集巻一春上にある後鳥羽院の歌だが、もとは「雲葉和歌集」巻一。

 第二句の「いくへ」は「幾重」と「行方」との掛詞。ここで面白いのは目に見えない情景を歌う詩人としての作業だろう。これも新古今の時代ならではの特性といえるのではないか。

 春風が吹く彼方で幾重もの氷が解けている朝である。琵琶湖の波は寄せないのに帰っていく――見えるはずがないものを歌うのも詩人に課せられた業と言うべきか。
 ここで誰もが認める後鳥羽院の絶唱について考えてみる。

    見渡せば山もと霞む水無瀬川ゆうべは秋と何思ひけむ

             (新古今和歌集巻一春上)

 M音が繰り返されるよどみない効果が何とも心憎い。そして雄大な景色に見入る己と対比するように心の風情が集約される。もちろん古今集にある素性法師の「見渡せば柳桜こきまぜて都ぞ春の錦なりける」が念頭にあったことは想像に難くない。その証拠に、


    深山辺のまつの雪まに見渡せば都は春のけしきなりけり

 という歌がある。つくづく新古今の世界は先達詩人たちへのオマージュというべきか、本歌取りの見本市だ。しかしすべての芸術は模倣から始まるのだし、本歌取りという技法が進歩への橋渡しになるのなら、これほど優雅なテクニックはないだろう。

 ところで、キッチンでは我がまぐろの女房殿が料理している。お鍋はいつも個人的だ。他人が食う分しか作らない。オリジナルの鶴を折りたがる奴は現実逃避にすぎない。車の暴走が止められないのなら、初めからブレーキの壊れた車に乗らなければいい。

 あまりの暑さに考えがまとまらず、こんなシチュエーションばかりが頭に浮かぶ。風評被害には取扱説明書など付いていない。だから気を付けないといけないな。精神病院にでもぶちこまれかねないから。

 栄光ある高校二年生。孫の樹が、テストが終わって帰ってきた。暗い顔をしているので「まるでフィラメントの切れた電球みたいだな。どうしたと聞いたら「今はLEDだぜ。時代錯誤も著しい」だと笑われてしまった。

 テレビを見ていたらカメレオンが緑の木に擬態していた。「ハイブリッドカーより凄いな」と驚いたら、また樹が「パンツを頭からかぶるのはギタイとは言わない。ただのヘンタイなり」と呟いてから「ジイジはギタイできるだけの毛がないしな」。
 毎回言うようだが、私は断じてハゲてはいないし、バーコードでもないぞ。ここに遺言として残しておく。いや血判してもいい(苦渋の決断だが)。


 先日、詩人で銀座の文壇バーの経営者としても朝日新聞に載ったほど有名な山口真理子さんから、小説をいただいた。恩田陸の「蜜蜂と雷鳴」である。「望月さんはクラシックが好きだから」という理由らしいのだ。

 なるほど分厚い小説だったが五日程で読み終え、山口さんがオススメするだけあって久々に面白い小説だった。映画でもそうだが劇中に出てくるいい曲があると家に帰って聴きたくなる性質だから、読了後にやはり聴きたくなった。

 個人的好みで申し訳ないが、CDをかけたらわがマグロの女房どのが「あら、よく聞いた曲ね」という。オリビエ・メシアンの「忘れられた捧げもの」(セルジョ・ボド指揮のパリ管)だった。メシアンには亡くなった山根健一さんが昔フランスで会ってサインしてもらったといっていた。

 私はこのメシアンの「キリストの昇天」(ヴァルター・ストラム指揮のストララム管弦楽団)と、JSバッハの「ロ短調ミサ曲」(もちろん91年のカール・リヒターのミュンヘン・バッハ管弦楽団だ。それ以外の演奏は興味がない)、それにアントニオ・ウェーベルンの「パッサカリア」(ピエール・ブーレーズのロンドン交響楽団)を聴くと涙腺が緩むのだ。

 余談になるが「ロ短調ミサ曲」は、ソプラノ=アリア・シュターダー、アルト=ヘルタ・テッパー、テノール=エルンスト・ヘフリガー、バス=ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ、バス=キート・エンゲンと、知る人ぞ知るそうそうたるメンバー。その一人ヘフリガーさんに生前会う機会があってサインしてもらったことがある。

 記者時代に作曲家の團伊玖磨さん、指揮者の岩城宏之さん、小惑星探査で有名になったロケット博士の糸川英夫さんにインタビューしたことと供に今でも光栄だと思っている(思い出したので書いているだけ。決して自慢話ではありません)。

 えらく真面目になってしまった。反省。一度トイレへでも行って出直そう。

 とても匂いに敏感なマグロの女房殿は朝、私の部屋に来ると必ず毎日窓を全開にする。どうやら死臭がするらしい。「私、過敏なのよ」というから「活ける花でも買ってこようか」と言ったら、「カビン違いよ。疲れること言わないで」と怒って出ていってしまった。今夜のおかずはまた一品減らされるに違いない。

 前の号で「神西清全集」のことを書いたが、それで色々なことを思い出した。例えば二十代の頃、一風変わった作家を探して読むことに熱中したことがあった。へそ曲がりな性分なのだ。

「屋根裏出身者」が代表作の十和田操(1900~1978)全集、「精神病理学教室」が出世作の石上玄一郎(1910~2009)全集、詩人としても知られる永山一郎(1934~1964)全集。以上はいずれも冬樹社刊だ。そして「アンドロギュノスの裔(ちすじ)」が有名な渡辺温(1902~1964)全集(薔薇十字社刊)。

 その中でも永山一郎はわずか三十歳で事故死、渡辺温も編集者として谷崎潤一郎に原稿を依頼しにゆく途中で列車に撥ねられ二十八歳で他界したことは有名だ。他にも「命の初夜」の北条民雄や「第七官界彷徨」の尾崎翠などなど。こうした作家や詩人を読んで悦に入っていた若かりし頃を懐かしく思い出す。

 ここでまた場面転換させていただく。肩の力を抜いてお読み下され。間違っても魂を抜いてはなりませぬぞ。


    心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春の景色を
          (能因法師、後拾遺集巻一春上)


 これを西行が見事に、秋に仕立て直す。

    津の国の難波の春は夢なれやあしの枯葉に風わたるなり

 すると慈円が挨拶の歌に変えて見せた。


     見せばやな滋賀のからさき麓なるながらの山の春の景色を

 そして後鳥羽院はというと、こうだ。

    心あらむひとのためとや霞むらむ難波のみつの春の曙

 と歌ったが、一見何の細工もないただの盗作のようにさえ見える。だが第五句が終わってはじめて春という時間がぴたりと止まり、第三句の霞を眼前に導き出すのである。身の前にさっと広がる絶景が。ちなみに「みつ」は水のことだが皇居御用達の港「御津」を意味する。

 ここに新古今和歌集における本歌取りの技巧の神髄を見る思いがした。


    霞たち木のめはる雨ふる里の吉野の花もいまや咲くらむ
         (後鳥羽院、続後撰和歌集巻二春歌中)


 これは紀貫之の「霞たちこのめも春の雪降れば花なき里も花ぞ散りける」の本歌取りだ。後鳥羽院は紀貫之が好きだったらしく、たくさん本歌取りを試みている。
「オトーサン電話よ」
 突然地上からマグロの女房殿の声。たちまち現実に引き戻される。重い腰を上げながら、どうせならこんな電話であったらよかったのに、と思う。
「よければ今度の日曜日にドーヴィルまで送りましょうか」
「土曜の昼に電話を下さる?」
「電話番号は?」
「モンマルトル1540」
 フランス映画の名作「男と女」でジャン=ルイ・トランティニアンがアヌーク・エメを誘う場面だ。ご覧になった方は記憶にあるだろう。最近懐かしく思いながら見たが、一度でいいからオイラもこんな粋な会話をしてみたかったと思った。我がマグロの女房殿と、フランスの大女優を比べるのが、そもそもおこがましいのだが(女房殿、許してたもれ)。

 それにしても新古今の時代の優雅さは、便利さばかり追求した挙句原子炉を爆発させたり、地球の体温を上げて気候変動を起こさせるような、無粋な文明の発達とともにどこかに置き忘れてしまったようだ。
 その地球温暖化のせいか、ゴキブリにもGWがあるらしい。連休に入ったら子連れでゾロゾロ出て来やがった。観光地はもちろんキッチン。たちまち起こる娘と孫の断末魔の悲鳴。たまらん。地球最後の日は近いぞ。


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738


イラスト:Googleイラスト・フリーより

三十年ぶりの墓参り = 黒木 せいこ 

 私は今年、還暦を迎えた。

 学校の同級生たちは、卒業後、進学、就職や結婚のため、地元を離れた人が多い。これまで同窓会は、各地域で行われていた。皆が還暦を迎える今年は、熊本で高校の同級生が一同に集まり、盛大に開催することになり、半年も前から案内状が届いていた。

 卒業後、一度も会っていない人にも会えるかもしれない。私は懐かしくなり、出席することにした。
 同窓会の二か月ほど前のある日、高校卒業後もずっと親しくしていた同級生のオタカ(高本さん)から、
「今日はヒロミの誕生日じゃなかった? 生きていればヒロミも60歳になるんだね」
と、メールが来た。

 ヒロミは、26歳の若さで亡くなった。私とヒロミは、中学と高校が一緒で、とても仲良しだった。
 彼女は、テニス部で活躍する、とてもチャーミングな女の子だった。ショートカットで、日焼けした健康的な笑顔が魅力的で、男子生徒からも人気があった。

 そんなヒロミが、大学生になって突如として「膠原病」になって入院した。病気について詳しくは聞かなかったが、手術などはせず、投薬治療をしていた。

 入院生活は長期に及んだ。私は、大学卒業後も地元で就職していたので、何度もお見舞いに行った。病室では、ヒロミはいつも元気そうに話していたが、薬の副作用で顔がむくみ、体のあちこちに黒いあざができているのが、痛々しかった。

 それでも、私の結婚式には出席したいと、入院中にも関わらず、わざわざ宮崎県まで足を運んでくれた。参列した彼女の元気そうな顔を見て、体調はいいのだとばかり思っていた。


 それが、結婚式の二か月後、突然ヒロミが亡くなったと知らせが届いた。私は言葉を失った。元気そうに見えたのに、実は体調が悪かったのだろうか。
 結婚後、私は埼玉県に住んでおり、切迫流産で絶対安静の状態だったので、葬儀に出席することさえできなかった。
 私の結婚式に出て、無理したのがいけなかったのでは? そんな後悔で、胸がいっぱいになった。
 その後、私は無事に出産し、数年たって、友人たちと数人でヒロミのお墓参りに行って、その足でご自宅を訪ねた。
 ヒロミのお母さんが、
「娘は、結婚式に出られたことを、本当に喜んでいました」
 と、笑顔で話してくれた。

 仏壇に手を合わせると、そこには、微笑んでいるヒロミの写真があった。それは、私の結婚式に出席した時のものだった。
 私は、重い胸のつかえが少しおりたような気がした。


 あれから三十年がたった。ヒロミが亡くなった6月になると、季節の変わり目のせいか、私は体調を崩すことがあった。そのたびにヒロミを思い出した。

 この間に、たまに帰省したおり、学友たちとの会話の中でも、ヒロミはよく登場した。
「あのころは、何でもないことでもよく笑ったね」
「ヒロミはなぜか、前川清が好きだったよね」
 笑い話として出て来ることが多かったが、そのたびに、若くして亡くなったヒロミのことを思うと、胸がチクリと痛んだ。
 だが、あれ以来、墓参りには行っていない。今回、同窓会で集まるのをきっかけに、皆で墓参に行こうと、オタカが提案した。私も、もちろん賛成した。


 同窓会の当日、少し早めに集まった5人で車に乗り、墓に向かった。ヒロミの実家は、熊本市の中心部から車で30分ほどの所にある。町の様子は以前とそれほど変わりなく、墓地の場所はすぐにわかった。
 だが、新しい墓がずいぶん増えて、ヒロミの墓がどこにあったか、誰も思い出せない。

 その地域には、同じ苗字の家が多く、全部で200ほどもある墓の7割くらいはヒロミと同じ『斉藤家の墓』である。

 墓石の横に書かれている墓標を、5人は手分けして一つひとつ見て回ったが、ヒロミの名前はどこにもない。
「真ん中あたりだったと思う」
「いや、一番左奥の列だったような気がする」
 皆の記憶も曖昧だ。私など、どこにあったか、まるで覚えていない。

 近くにあったヒロミの実家に行ってみたが、そこはすでに更地になっていた。もうご両親も亡くなったのだろうか。ご両親や、お兄さんの名前もわからない。

 わかりそうな同級生に携帯で連絡してみたが、誰もはっきりした場所は覚えていなかった。昨年の熊本地震で、墓石が倒れ、土台しかない墓がいくつかあった。その中の一つなのかもしれない。5人で知恵を絞ったが、ついにどれがヒロミの墓かわからなかった。

 気が付けば、探し始めてから2時間近くたっていた。肌に当たる風が急に冷たく感じられた。ここまで来て、結局墓前でヒロミにお参りもできずに帰るのかと思うと、情けなかった。
「何してるんだろうね、私たち。誰も覚えていないとはね」
「三十年もたったから、仕方ないよ」
「ヒロミもきっとお墓の下で笑ってるよ」
 私たちは、お互いに苦笑いした。
 

 持参した墓花は、個人の物ではない「南無阿弥陀仏」と書かれた大きな墓に供え、線香は、それぞれが勘で、ここぞと思う墓前に置くことにした。
 私は、ヒロミが好きだったスヌーピーのコップが置いてある墓に置くことにした。だが、
「それは違うわよ。苗字が『斉藤』じゃなくて『斎藤』でしょう」
 と一人の同級生に言われ、あわてて別の墓にした。
「ヒロミ、見つけられなくてごめんね」
 私は、心の中でつぶやいた。

 予定よりずいぶん長く墓にいて、同窓会の始まる時間が迫ってきたので、私たち5人は、やむなく墓地を後にした。 

 ヒロミ、私、もう少し生きてみるね、あなたの分も。

   文・写真=黒木 せいこ
          イラスト=Googleイラスト・フリーより

採掘されつづける武甲山(1304m)=武部実 

平成23年10月24日(月) 小雨のち曇り

参加メンバー:L関本誠一、佐治ひろみ、大久保多世子、武部実

コース:西武秩父駅 タクシー~一の鳥居~表参道~山頂(昼食)~長者屋敷の頭~橋立鍾乳洞~浦山口駅~お花畑駅~西武秩父駅          


 初めは22日(土)に計画したが、雨天のために延期となっていた。本日・24日(月)に西武秩父駅に9時に集合した。タクシーで、一ノ鳥居までは20分弱で、到着する。(2600円)。

 9:30に出発。小雨だったが、歩き始めて10分位で雨は止み、気温は高め、上着を脱いでTシャツ一枚の仲間もいた。

 杉木立の山道を一丁目(石柱に表示)から、歩きはじめて20分ほどで十丁目だった。「もう頂上?」違うんですね。
 この丁目は、約109mの距離をあらわしているものだった。頂上までは五十二丁、まだまだ先だ。

 十八丁目の不動の滝には、水飲み場があった。約半分の二十六丁目で軽く休憩をとる。すこし歩いたところで、海抜1000mの大杉に到着した。(10:50)。

 われわれ4人が手をつないで大杉の幹回りは丁度だから、優に6mはありそうだ。

 11:40、五十二丁目の御嶽神社に到着する。ここから少し登ったところが、展望台である。残念ながら、きょうは霧の中で、採掘現場や羊が丘、そして秩父の街並みはまったく見えない。

 武甲山1304mの標識の下には、三角点(?)があり、そこには1336-41+9と表示してある。たしかに計算すれば、1304mになるが、プラス・マイナス の意味は不明である。

 昼食を摂って出発の準備をしている時に、サイレンと発破の音がひびく。頂上は震度2位の揺れがきた。毎日、定時に発破するらしいのだ。

 12:40に出発した。一時間ほど下ると、渓流沿いの道になり、少しあるくと、林道にでる。この林道には落ち葉に混ざって、クルミの実がたくさん落ちていた。さらに、ねこじゃらしによく似たチカラシバが道の両側に群生している。この先を歩けば、橋立鍾乳洞はすぐそばだ。
 ここから20分で、浦山口駅に15:10に到着した。

 予定より早く着いたので、15:23発の電車に乗ることができた。

 お花畑駅から西武秩父駅まで歩き、時刻表を見たら、ちょうど普通列車15:37発の飯能行きの電車があった。それに間に合い、飯能から急行電車に乗り換え池袋駅には17:30頃に到着する。
 池袋では軽く反省会を行い帰途につく。

 今回は3年ぶりだったが、あらためて感じたのは、奥多摩の山々とちがって急登がなく、歩きやすく、変化に富んだ山った。
 石灰の採掘によって何年後かには、山が無くなるか、あるいはもっと無残な姿にされるおそれがあるので、皆さんも今のうちに登ってみてはいかがですか。

           ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№147から転載

モンブラン初登頂者の謎=上村信太郎

 スポーツ登山の発祥は、スイスの科学者オーラス・ベネディクト・ド・ソシュールのモンブラン(標高4807m)登山とされる。

 それ以前は「高山の山頂に立つという目的」での登山行為ではなかった。また高山の氷河の上でビバークすると生きて帰れないという迷信もはびこっていた。

 ジュネーブ生まれのソシュールは、幼年時代から博物学に興味を持ち山々を歩き回るのが好きだった。
 20歳のときに植物採集を目的に初めてシャモニーを訪れ、ブレヴァンの展望台からシャモニーの谷越しにモンブランを眺めた。
 このとき、当時は登頂不可能とされていたアルプスの最高峰モンブランに登ろうと固く決心して名案を思い付く。モンブランに登頂できるルートを発見した者には、だれでも多額の報奨金を支払うと発表した。時に1760年7月24日であった。

 それ以後、ソシュール自身も含めた多くの真剣な試登が繰り返されたがいずれも失敗。ようやく初登頂されたのは27年後であった。
 1786年8月7日、シャモニーの医師ミシェル・ガブリエル・パカールと、24歳の水晶採りジャック・バルマの二人がボソン氷河からモンブラン登頂目指して出発。彼らはル・モンという村で落ち合い、その日は氷河の手前でビバーク。
 翌朝4時半に出発し、午後6時32分にモンブランの絶頂に立った。パカールは山頂で高度や気温を観測。19時前に下降を開始。真夜中に出発地点まで下降してビバーク。二人は2400m以上の標高差を一日でピストンしたことになる。
 翌朝、雪目になり両手が凍傷になったパカールはバルマに導かれて下山し、帰宅したバルマは重病だった乳幼児の娘が入山中に亡くなったことを知った。


 下山後、バルマはソシュールを訪ねて報奨金を受け取った。
 その翌年8月、ソシュールは一人の召使とバルマの他に、食料や科学実験用器具などを担ぐ18人のガイドとポーターを引き連れてモンブランに挑み、ソシュール夫人が麓から望遠鏡で見守るなか登頂に成功。
 このソシュールらによる一連の登山行為が「スポーツ登山」を誕生させ、やがて明治期にイギリス人宣教師ウォルター・ウェストンによって日本にも紹介され、やがて今日の「百名山ブーム」に至ったとされている。

 モンブラン登頂から1ヶ月後、町ではある噂が広がった。「パカールは途中で疲労して落伍した。バルマが一人で登頂した」というもの。この噂は結果的にバルマを英雄に仕立ててしまった。
 1841年、79歳になったバルマは、文豪アレキサンドル・デュマの取材を受けて「パカールは途中で何度ももう歩けないと言ったが無理やり引上げた」などと答えた。
 だがその後、ドイツの科学者ゲルスドルフがたまたまシャモニー滞在中にモンブラン初登頂の様子を望遠鏡で目撃したときの日記とスケッチが発見され、それによれば「彼らはしばしば先頭を代えて進み、6時32分に絶頂に登った」と記されていて、デュマの記述と正反対の内容であった。

 そして、初登頂からじつに143年後になって、パカール本人が書き遺した手記が発見され真相が判明して『アルパイン・ジャーナル』に掲載された。それには、「荷物を分担しょうとバルマの他に案内人を連れていこうとしたが、報奨金を独占したいバルマが断った。私たちはほとんど同時に山頂に着いた。」と記されていた。

 今、シャモニーの町の中心地に二つの銅像が建つ。ソシュールと一緒に並び立ってモンブランの方向を指さしているバルマの像と、もう一つはパカール一人が座っている像でパカールが名誉を回復してから新しく建てられたものだ。
 それにしてもバルマはなぜパートナーを生涯中傷し続け、パカールもどうして自らの山行記を最後まで発表しなかったのであろうか…。永遠の謎である。

           ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№216から転載

  
 
  


 

シモバシラ観察会=市田淳子

日 時 : 2016年12月29日(木)高尾山口駅9:00集合

メンバー:L栃金・市田 上村、武部、岩淵、中野、開田

コース:稲荷山コース~高尾山頂 11:15~シモバシラ観察 11:30~一丁平 12:15<昼食>~城山 13:10~西尾根コース~相模湖駅着15:15


 シモバシラ観察会を計画したものの、気温が高すぎてシモバシラが期待できないかもしれないという不安があり、稲荷山コースを歩きながら、もう一つの観察会を行うことにした。

 登山の愉しみは、その山の自然を知ること。高尾山は599mという低い山なのに、なぜ登山客を魅了するのか。一言で言ったら、日本で一番小さな国定公園なのに、生物多様性が考えられないほど豊かだということだ。

 高尾山はケーブルのラインの辺りで西の植物と東の植物が出会う。

 さらに沢があることで渓谷林、針葉樹林がある。植物種が豊かということは、昆虫、鳥類等も豊かになる。
 歩き出す前に、稲荷山コースに多い樹種の葉を見てもらい、それぞれの特徴を思うまま述べてもらった。1種類だけは覚えて帰ろう!という同定の目標を持って歩くことにした。

 同じカシでも葉っぱの形、鋸歯(ギザギザ)の様子が違う「シラカシ」「アラカシ」。ドングリを実らせる落葉樹の「コナラ」。鋸歯に特徴があり、薄くて壊れやすい「イヌシデ」この4種は、都内の公園や雑木林にもたくさん生えている。
 そしてもう1種は「イヌブナ」鋸歯の伸び方が超特徴的! 稲荷山コースを歩くと、南側の斜面に照葉樹であるシラカシやアラカシが目立つ。

 その中にコナラ、イヌシデが混じる。そして、なかなか現れなかったイヌブナはかなり上の方に登ると出会うことができた。植物はちゃんと自分の棲む場所を心得ている、というより適した場所で長い時間をかけて進化してきたのだ。
 こんな目を持って高尾山を歩くのもたまには良いものだ。



 さて、肝心のシモバシラ、貧弱ではあるが、何とか私たちの期待に応えてくれた。暖かい日が続いたが、この日の朝は冷え込んだため凍ったのだ。

 枯れた植物の茎から形成される氷の芸術。これを見ずに春を迎えることはできない。自然は人間と比べることができないほどの才能溢れる芸術家だ。

 しかし、この芸術家も温暖化には勝てない。10年ほど前は、「誰がトイレットペーパーをこんなに落としたんだろう?」と思うほど「氷の花」だらけだったのに。そうは言っても、今冬もシモバシラを見ることができた。来冬も変わらず見られますように。

 高尾山頂では顔を見せなかった富士山も一丁平辺りから綺麗に見えてきた。
 ポカポカ陽気の中、ほぼ予定通り相模湖駅に到着。楽しい一年の締めくくりの山行だった。(森林インストラクター)

        ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№209から転載

ストレスは必要なり  青山貴文

 新橋のエッセイ教室に通って、10年近くになる。

 毎月1回、エッセイ教室の穂高健一先生と十数人の生徒仲間とお会いし、事前に配布されたお互いの作品について批評しあう。
 当初、教室で褒められることは少なく、どうしようもない作品が多かった。それでも、10年近くやっていると、それなりの評価を頂くようになってきた。それらすべてを、必要に応じて修正し、選ぶことなく無作為に毎月1回、私のブログに載せている。

 上手く書けるときも、下手なときもある。ただ、書いているときは最良の作品を書こうと懸命に苦心している。
 エッセイ教室の仲間内では、書くネタが無くなったと思い込んだり、あるいは新たな習い事に注力する人など、この教室をやめていく人もいる。

 私も、そろそろやめるかなと思い詰めたりしていると、
「エッセイは書くネタがなくなってから、本当に味のある、読者に感動を与えられる作品が書けます」
 と、先生は私の心を見透かすようにおっしゃる。そのノウハウを求めて通っているが、未だにどのように書けばよいのかよく解らない。

 その一方で、以前と同じことを教室で聞いたにも関わらず、「あそうか、そこが問題であったか」とか、「こんな光った表現になるのか」とか、一瞬ひらめくことがある。自分の作文力が、先生の言うことを理解できる段階になり、閃いたのかもしれない。そして、自分のノウハウの一つに加わってくる。

『継続は力なり』とはよく言ったものだ。自分の力が、ほんの僅かに上向いてきたり、あるときは下向いたり蛇行しながらもほんの僅かに上昇してゆくのだと思う。
 よって、先生の助言を聞き漏らせないよう、エッセイ教室は休むことなく、毎回出席を心がけている。

 エッセイの投稿納期が近づいてくると、推敲中のエッセイ数編の中から、
(今月は、これにするか)
 と、選べばよいのだから、余り心労にはならない。心労は、健康に良くないというから、作文力の乏しい私には適切なやりかただ。

 ところが、手持ちの推敲中のエッセイが少なくなると、しだいに不安となり、大きな精神的な苦痛が生じてくる。何とか拙作でも良いから数編を書き上げ、推敲するエッセイ群の仲間にしている。
 それらを、数日、時間をかけて推敲する内に、思わぬ優れものに化ける時がある。だから、推敲は面白くてやめられない。

 油絵で、絵の具を混ぜ、塗り加えている内に、思わぬ傑作ができてくるのに似ている。どうも、私のエッセイは、偶然性が大きく影響しているようだ。
 一方、緊張感が無いと、人間いい加減になり、怠惰になるともいわれている。すなわち、少しの刺激は必要であると感じる。


 NHKの早朝4時過ぎのラジオに、「明日への言葉」という番組がある。一分野で事をなしとげた90歳前後の多くの方が、大切なことは「挑戦」だと語る。挑戦は、多大な苦痛を伴う。この苦痛が大切らしい。
 先日、この番組に出演され、多くの患者の心の病を治されてきた高橋幸枝医師が、
「私の今日あるは、挑戦であった。100歳になったので、ほんのチョット無理をすることにする」
 と、仰っておられた。
 百歳になったので、無理をせず、ゆっくりしようと言わず、少し無理をしようと言っておられた。人間、何歳になっても、少々のストレスは必要ということらしい。

 さすれば、私はまだまだ挑戦しなければならない。あと、20年は、生ある限り、挑戦しよう。ただ、この挑戦は、事を成し遂げた方の生き方だ。私のように中途半端な者は、もう少し楽しい方法を考えることも大切であろうと、逃げの手も考えている。ここに、事を成し遂げられなかった凡人のしたたかさがある。

 エッセイ教室は、毎回新しい短文を提出しなければならない。よって、都度、適度な刺激を与えてくれる。いいものを趣味にしたものだ。
 趣味の一つになったエッセイを書けなくなったら、自分の成長代もなくなった時と、あきらめようと考えている。

 若い頃、嫌っていた作文に、こうまでのめり込んだのは、なぜだろう。
多分、私のブログを多くの読者が待ってくれているからであろう。その読者の中には、適切な批評をくれる方もいる。
 自分でも上手く書けたエッセイだと思う時は、それなりの意見をくれる。不毛・不作のときは、やんわりとその改善点を突いてくれる。中には、核心を突いて、厳しく批評してくれる方もいる。どちらの批評もうれしいものだ。
 読者のために、いや自分のためにも、適量のストレスを頂きながら引き続いてエッセイを書くことにしよう。            

八ッ場ダム建設予定地一望の高ヂョッキ山行  栃金正一

1.期日 : 2010年4月25日(日) 天気:晴れ

2.参加メンバ : L 上村信太郎 武部実 栃金正一

3.コース : 須賀尾峠~高ヂョッキ・丸岩、八ッ場ダム広報センター

 朝の6:30に、三鷹から車にて出発する。
9:20に、須賀尾峠に到着した。道路脇には石仏があり、その脇の樹木に高ヂョッキの登山口のプレートが小さく付いていた。
「高ヂョッキ」とは「高い突起」と言う意味らしい。
 登山道にはまだ芽吹いていない雑木 林の中に細々と続いている。

  天気は快晴で、少し冷んやりとした空気が心地良い。雑木林のなかを15分位歩くと、傾斜が急になり、痩(や)せ尾根を登っていく感じになる。
 途中、平坦なところで、小休止とする。

 ここで下山してきた2人とすれ違い、見送る。道は岩を含み、さらに急になり、力を振り絞って、一気に登りきると、急に目の前が開けた。10:30、山頂に到着した。

 1,209mからの展望は良く、雪をかぶった浅間山、草津・日光白根、男体山、赤城山、榛名山などが一望出来る。そのうえ、眼下には、八ッ場ダム建設予定地の、長野原の集落が広がっている。


 展望を満喫したあと、昼食をとり、11:30に山頂を出発する。下山する途中、丸岩方面へ続くと思われる道に入るが、不明確のため、須賀尾峠まで戻ってくる。

 丸岩の登山道は、高ヂョッキの麓を回り込むようについており、30分位で、山頂に着く。展望は木々に囲まれていて、あまり良くないけれど、葉のついていない木々の間からは先ほど登った高ヂョッキが天を突くように尖って見える。

 丸岩を後にした私たちは、車で八ッ場ダムの工事地域に向かう。途中、道路からは大きく堂々とした風貌で立っている丸岩と、 その隣に尖った高ヂョッキを見ることが出来た。

 14:30、八ッ場ダムの広報センターに到着する。観光客がバスなどで、大勢して見学に来ている。
 ここからよくテレビに出ている建設中の橋を見ることが出来る。現在、橋は全部つながっている。ダムは出来るかどうかわからないが、高ヂョッキから見た河原畑地区の美しい自然や集落がダムの下に沈むのは、すこし寂しい気がした。

 15:30に出発する。帰りは高速道路がすこし混雑していたが、18:30には三鷹に到着した。高ヂョッキ、丸岩とも無名な山だが、ニュースになっている八ッ場ダム予定地の風景を脳裡に焼き付けることができた。


            ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№128から転載

前日光牧場と横根山   佐治ひろみ

日程 : 2012年5月30日(水) 曇り、晴れ

参加者 : L後藤美代子、佐治ひろみ、本多やよい、脇野瑞枝

コース : 前日光牧場駐車場~横根山~五段の滝~井戸湿原~ぞうの鼻展望台~駐車場


 7:00、都内・目黒駅ロータリーに集合した。後藤さんの車で、前日光県立自然公園へと向かう。

 ここは鹿沼と足尾の中間より、やや足尾寄りにある。牧場と湿原と、今の時期はたくさんのつつじが楽しめるようだ。

 車の中のおしゃべりを楽しみながらも、3時間。前日光牧場に到着する。今日の天気は、曇り時々晴れの予報である。
 日に焼けなくていいが、遠くの展望はどうだろう?
 駐車場にわれらの車を置き、ハイランドロッヂで、トイレや準備を済ませてから10:30にスタートする。
 標高1300メートルの高原は、清々しく、木々や牧草の緑が実にきれいだ。牧場のなかの道を横根山に向かう。
 牧場といっても、牛はいない。後藤さんが前回に来た時もいなかったようだから、夏の間だけ、下の農家から牛を預かるのだろう。

 色とりどりのつつじの花がお出迎えしてくれる。ミツバツツジの濃いピンク、淡いピンクや白のヤシオツツジ、赤い山ツツジ、オレンジのレンゲツツジ、足元には数々のスミレ、まさに高原の春の景色だ。
 急坂も無く、だらだら登ると、横根山の山頂(1372)。展望は無いけれど、回りじゅうツツジ。そこから今度は、井戸湿原へと下る。
 この道も、両側にピンク、ピンク、白と咲く。…地元のおじさんや中学生たちも、大勢来ていた。

 湿原に下り切ると、五段の滝を見てから、一周することに決めた。

 木道を歩いて行くと、森の中にせせらぎが聞こえてくる。大きな滝ではないが、数えると、五段になっている。
 写真を撮り、周回コースに戻ってくる。ちょうど、広々とした草原が見渡せる中間地点で、昼食を摂った。


 12:30、午後の部のスタートである。
 湿原の残りを半分を歩き、それからは林の中を登ること30分。ゾウの鼻という展望台に着いた。晴れていれば、関東平野、富士山、男体山、赤城山などが見えるはずだった。だが、今日は残念ながらどの山も見えない。

 すこし休憩の後、気持ちの良い道を、私たちはハイランドロッヂに向けて戻って行く。ズミだろうか? 白い花があちこちに咲いている。

 13:30、駐車場に到着した。本日のハイキングは無事に終わりました。お陰様で、1年分の美しいツツジの花を堪能するすることができました。

 運転の後藤さん、お疲れ様です。ステキな所を教えてくれてありがとう。

  ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№156から転載

黒部・下ノ廊下=武部実

 2010年9月30日(木)~10月2日(土)

 参加者 L栃金正一、武部実以上2名

【コース】

 2日目 ロッジくろよん(5時40分出発)⇒下ノ廊下⇒阿曽原温泉小屋(15時40分着)

 3日目 阿曽原温泉小屋(5時00分出発)⇒水平歩道⇒欅平(11時30分着)

【一日目】

 新宿駅7:30発特急「あずさ3号」で信濃大町駅11:01に着いた。
 扇沢までは、バス。そこからトロリーバスに乗り換えて、黒四ダムには13:45に到着した。ダム周辺を少し観光してみたが、雨が本降りになり、明日の天候回復を祈るばかりだった。
 ロッジくろよんには14:40に入る。

【二日目】全員が4:30に起床する。。窓から空を見上げると、これぞ満点の星空だった。ホッとしたのが、正直な気持ち。
 前日にロッジに頼んでいた弁当を食べてから、5:40にロッジを出発する。黒四ダムには6時過ぎについた。丁度、ダムの観光放水が始まるところで、運良く見学することが出来た。

 旧日電歩道の標識にしたがいながら、下って黒部川を渡り、1時間ほどで、内蔵助出合に着く。
 ここらあたりから、岩壁側にワイヤーが付いている。右側は断崖絶壁の幅70~80㎝の歩道が続くこととなる。
 黒部川を見ると、いまだ溶けずに残っている雪がいくつもの自然のスノーブリッジを作っていた。(写真参照)

 歩道はいまだ二ヶ所で、作業員が道の補修工事を実施していた。実際の道は危険な個所もなく、峡谷の絶景を堪能しながら、所どころで、写真を撮ったりして、ゆっくりペースで歩を進めていく。

 歩き始めてから7時間弱で、いくつかの峡谷を通りすぎた。最高の見所十字峡を吊り橋の上から眺め、さらに一時間で半月峡を過ぎた辺り、前方には黒四発電所2棟が姿を現す。

 黒四ダムから、ここ迄水を通して発電しているのだ。さらに一時間弱 歩くと、仙人谷ダムになる。
 登山道はそのダムを渡り、管理棟のドアノブを開けてから宿舎内を通る、不思議な登山道である。
 途中、有名な「高熱隧道」を横切るのだが、2~3m入っただけでも、サウナ状態になる。たしか、岩盤温度が最高で160度になったという。
 戦前に、この作業させられた人たちの苦労がしのばれる。

 宿舎を出てから、すぐにこの道で唯一の急登になる。歩き初めてから9時間後の急な登りは実にきつい。20分くらいで、また平坦な道に戻り、小屋の手前で、今度は急な下り道である。ようやく徒歩10時間で、15時40分に阿曽原温泉小屋に到着する。

 ちょうど入浴時間が男性だから、宿泊手続きをする前に、すぐ入ってほしいとのこと。小屋から歩いて7~8分の所にある野天風呂にでむく。
 旅の疲れに、温泉は最高でした。


【三日目】

 朝5時過ぎに、同小屋を出発する。まだ、暗くヘッドランプをつけた行動である。夜が明けるころには、水平歩道になる。
 こちらの道も下ノ廊下と同じく、岩壁側にワイヤーが張ってあるので、安心だ。折尾の滝に7:50に着いた。ここから一時間弱で、ななめ前方には欅平が望めるようになる。
 そして、このルート一番の絶景ポイントの大太鼓につく。
 絶壁下には、黒部川が前面には数百mはあろうか、という迫力ある赤い岩壁が聳(そび)えていて、迫力満点の絶景である。
 15分で志合谷に、沢の下をくりぬいた登山道唯一の150mあまりのトンネルである。ヘッドランプをつけても、まだ暗く、下は水浸しで濡れるし、頭は天井にぶつけるで、怖くて恐る恐るゆっくりと歩いていく。

 10:40に欅平に到着。トロッコ列車~宇奈月駅~魚津駅~湯沢駅~新幹線と乗りついて帰途につく。

 下ノ廊下は、開通期間が年間のうちで、9月から10月末までの約2ヶ月間に限られている。利用人数は2千人弱ということらしい。
 わずかな登山者しか、せっかくの絶景を見ることができないのは、本当にもったいない話だ。
 皆さんも、来年あたりに挑戦してみてはいかがでしょうか。


     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№134から転載

入笠山(1955m)=武部実

入笠山 標高1955m
               
平成23年 1月26日(水)曇り

参加メンバー:L 飯田慎之輔、武部実、佐治ひろみ、石村宏昭、大久保多世子

コース:京王八王子駅 8:10 ~ 富士見パノラマスキー場駐車場9:45 ~ ゴンドラ山頂駅10:45 ~ 入笠山山頂11:50 ~ 大阿原湿原13:30 ~ 14:50ゴンドラ山頂駅 ~ 駐車場16:10 ~京王八王子 駅17:45
 
 京王八王子駅に8時に集合し、飯田さんの 車に5人乗って出発する。平日とあってか渋滞もな く、順調に富士見パノラマスキー場駐車場に 9:45に到着できた。

 ここでオーバズボンをはいたり、スパッツを取り付けたりと、雪山への備えをすます。飯田さんは、スキーを担いで滑って下山するからゴンドラの片道券の購入である。他の4人は往復券(1600円)を購入した。

 ゴンドラは10数分で、 標高1050mの麓から1780mの山頂駅まで、 一気に運んでくれる。山頂駅からは、正面ゲレ ンデのかなたに、八ヶ岳連峰が雄大な姿を見せ てくれたが、頂上付近はあいにく雲に隠れて、残念ながら見ることは出来なかった。

 10:45に、アイゼンを装着して出発する。スキー客以外で、山登りするのは我々のパーティのみ。足跡のないパウダースノーの新雪を踏みしめて、歩き始める。
 歩いて20分ほどですると、石村さんのアイゼンの調子悪いと言い、カンジキに履き替える(用意周到です)。カンジキはこの後も、新雪のところで威力をおおいに発揮したのである。道路から30分ぐらい登ると、頂上に11:50に到着した。

 山頂には我々の他には2人のみ。本来ならば、八ヶ岳連峰から富士山、南アルプスから中央、北アルプスまで一望のはずが、残念ながら雲がかかって望むことは出来なかった。

 ただ、眼下には諏訪湖が半分望めるだけであった。風がでて、小雪もちらほら舞って寒く、記念写真を撮って下山を始める。

  下山コースは登りと反対側で、急な雪道は滑り台と同じ要領で、快調に滑って行く。降りて道路に出たところが「首切り登山口」(名前がよくない!)。むかし高遠藩の武士がここを通ったさい清水で、水を飲んでいたときに追いはぎに遭い、斬られたところから首切り清水という名がついたという。

 ここから道路を20分ほど歩いて、大阿原湿原に到着する。ここで昼食だが、小雪まじりの風も吹いてきて、手もかじかむほどの寒さだった。
 しかし、飯田さんがおでんを作ってくれたおかげで、お腹も温まり、ほっと一息つけた。本当においしかった。

 昼食後は、膝までもぐりながら、雪の湿原内を散歩する。ちょっとした冬山気分で、ラッセルする大変さんを実感したりして楽しかった。

 13:50に湿原を出発する。帰りは道路を歩いて戻るコース。ここで威力を発揮したのが、カンジキの石村さん。ヘアピンカーブはショートカットで、新雪のなかを突き抜けていくのである。
 14:50に山頂駅に到着した。飯田さんはスキーで、3Kmのコースを滑走し、4人はゴンドラで下山。レストランでお茶をし、16:10に出発する。帰りも順調で、八王子に17:45着した。
 4人だけは軽く反省会をして帰途につく。飯田さんご苦労様でした。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№139から転載