マグロのかま = 石川 通敬
数年前までは日々ダイナミックに変化していた生活のパターンが、年のせいか、最近はいくつか決まったものを繰り返すようになってきた。
その一つが、藤沢のケースだ。まずゴルフをする。その帰路がルーティーン化しているのだ。藤沢市郊外のライフタウンにあるイオンで夕食の中華料理をテイクアウトし、季節の花を買った後、豆腐屋で生湯葉を買い、最後に魚屋によってから目黒の自宅に帰るというものだ。
その最後の魚屋で年に何回か嬉しいサプライズがある。
そのとき私は、
「今日は久しぶりにかまをもらったよ」と妻に電話する。
それは魚栄という店で、マグロのかまをサービスとしてもらった時だ。
かまは、塩焼きか鍋がおいしい。私はどちらも大好物なのだが、その日の気分と、季節により、どちらかに決める。
鍋の時は、ある雑誌で知った「池波正太郎に教わる小鍋立て」というレシピに従う。
だし汁の中に、マグロとネギ、カイワレ大根、茗荷を入れて食べるのだ。味は銀座の小料理屋に負けない。
こんな贅沢が許されるのも、半世紀以上もひいきにしてきたこの店との出会いがあってのことだ。それは藤沢市善行にある。
戦後日本経済が高度成長を始めたころ、初代の親父さんが、漁師をやめ江の島から新興住宅地の駅近くに魚屋を開店したのだ。
父が昭和30年代後半に東京から移り新居を立てたのがこの店の近くだった。その偶然が今でも続く計り知れない恩恵を、我が家の食卓にもたらしてきた。
店構えは、間口2間、奥行き1間ほど。戦前、戦後の江の島周辺の商店を彷彿とさせるレトロなものだ。その象徴は、魚が入れてある氷水のケースの上に一個ぶら下がっている裸電球である。
魚の処理が行われるのは、打ちっぱなしのコンクリむき出しの調理用水槽とその上に置かれた分厚いまな板だ。そこで頭を落とし、腹を処理、三枚におろす。
そのあと刺身の仕上げは、流しの横に作られた間口、奥行きがそれぞれ半間ほどのガラスで仕切られた作業場で行われる。
谷内六郎や原田泰治の絵の世界を彷彷彿とさせる風景だ。
私がこの店を素晴らしいと評価しているのは、そのレトロな風情故ではない。食料品店として、魚の品揃えが抜群に多く、その質が高級料理店に負けないからだ。常に旬の新鮮な魚が並べられている。
むろん高級スーパーやデパートが扱う日持ちの良い、大型の高価な魚もある。
それよりうれしいのは、相模灘を中心に、伊豆、千葉と近海の魚が、江の島市場から、季節の移り変わりとともに次々ともたらされる点だ。
しかもその味が最高のうえ、店舗・設備にお金をかけていないからだろう、値段が安く、うれしさが倍加される。
売りに出される魚の種類の多さに興味をそそられ、ある時一年かけて店に並んだ魚をノートに書き留めてみた。驚いたのはその数だ。100を超えていた。
私はこれに感動し、写真に撮ってアルバムを作り、魚栄歳時記を書いてみようとまで考えた。
この店が評価できる点は他にもまだある。現在二代目の当主が、うまいものを見つける優れた目を持っていることだ。
家業を引き継ぐ前、レストランで修行したと聞いており、私はその経験が、うまいものを見つける力を養ったに違いないと思っている。その上顧客との対話を参考に人気商品の品揃えを着実に増やしているのが立派だ。
この点については、私も大いに貢献していると自負している。一例をあげると、「こはだ」と「しんこ」のケースだ。処理に手間がかかるうえ、売れるかわからないと判断していたのだろう。売りに出されることはめったになかった。
そんな事情を知らず、ある時私は「しんこ」を大量に買占めた。それがきっかけとなり、同好の客もだんだん現れ、今では同店の主要品揃えの一角を占めるようになっているのだ。その他なまこ、赤貝とホタテの貝柱などもそうではないかと密かに喜んでいる。
普段から人気のある店だが、年末年始は超繁忙になる。顧客からの大量の正月用刺身盛り合わせや鯛の塩焼きの注文を受け、年末から正月まで三日三晩ろくに寝ることもなく働く。あるとき妻が
「また大変なお正月が来るわね」と聞いたことがある。
答えは、
「いやだね。来てほしくない」
というものだった。そんな中、
「石川さん、今日のかまは、年末の刺身用に仕入れた特別うまいマグロのかまだよ」とささやいてくれる。その時は、車に乗ると同時に、
「今日のかまは、正月用の特上もので、いつもより大きく立派だ」と勇んで家に電話する。
魚栄は、我が家の食生活の重要なパートナーとなっている。その彼が毎年シクラメンを年末にお歳暮としてくれる。
これが花もちがよく、毎年5月まで楽しめる。このお礼に我が家からは、チョコレートが趣味の彼に、妻が世界で注目されているマニアックなチョコレートを、バレンタイン・フェアーの中で探し出しプレゼントすることにしている。
大量消費時代の流れの片隅に残るこんなご縁が、今しばらく続くことが我が家の願いだ。
イラスト:Googleイラスト・フリーより