寄稿・みんなの作品

マグロのかま = 石川 通敬

 数年前までは日々ダイナミックに変化していた生活のパターンが、年のせいか、最近はいくつか決まったものを繰り返すようになってきた。


 その一つが、藤沢のケースだ。まずゴルフをする。その帰路がルーティーン化しているのだ。藤沢市郊外のライフタウンにあるイオンで夕食の中華料理をテイクアウトし、季節の花を買った後、豆腐屋で生湯葉を買い、最後に魚屋によってから目黒の自宅に帰るというものだ。
 その最後の魚屋で年に何回か嬉しいサプライズがある。


 そのとき私は、
「今日は久しぶりにかまをもらったよ」と妻に電話する。
 それは魚栄という店で、マグロのかまをサービスとしてもらった時だ。

 
 かまは、塩焼きか鍋がおいしい。私はどちらも大好物なのだが、その日の気分と、季節により、どちらかに決める。

 鍋の時は、ある雑誌で知った「池波正太郎に教わる小鍋立て」というレシピに従う。
 だし汁の中に、マグロとネギ、カイワレ大根、茗荷を入れて食べるのだ。味は銀座の小料理屋に負けない。  

 こんな贅沢が許されるのも、半世紀以上もひいきにしてきたこの店との出会いがあってのことだ。それは藤沢市善行にある。

 戦後日本経済が高度成長を始めたころ、初代の親父さんが、漁師をやめ江の島から新興住宅地の駅近くに魚屋を開店したのだ。

 父が昭和30年代後半に東京から移り新居を立てたのがこの店の近くだった。その偶然が今でも続く計り知れない恩恵を、我が家の食卓にもたらしてきた。

 店構えは、間口2間、奥行き1間ほど。戦前、戦後の江の島周辺の商店を彷彿とさせるレトロなものだ。その象徴は、魚が入れてある氷水のケースの上に一個ぶら下がっている裸電球である。
 魚の処理が行われるのは、打ちっぱなしのコンクリむき出しの調理用水槽とその上に置かれた分厚いまな板だ。そこで頭を落とし、腹を処理、三枚におろす。

 そのあと刺身の仕上げは、流しの横に作られた間口、奥行きがそれぞれ半間ほどのガラスで仕切られた作業場で行われる。
 谷内六郎や原田泰治の絵の世界を彷彷彿とさせる風景だ。


 私がこの店を素晴らしいと評価しているのは、そのレトロな風情故ではない。食料品店として、魚の品揃えが抜群に多く、その質が高級料理店に負けないからだ。常に旬の新鮮な魚が並べられている。

 むろん高級スーパーやデパートが扱う日持ちの良い、大型の高価な魚もある。
 それよりうれしいのは、相模灘を中心に、伊豆、千葉と近海の魚が、江の島市場から、季節の移り変わりとともに次々ともたらされる点だ。
 しかもその味が最高のうえ、店舗・設備にお金をかけていないからだろう、値段が安く、うれしさが倍加される。


 売りに出される魚の種類の多さに興味をそそられ、ある時一年かけて店に並んだ魚をノートに書き留めてみた。驚いたのはその数だ。100を超えていた。
 私はこれに感動し、写真に撮ってアルバムを作り、魚栄歳時記を書いてみようとまで考えた。

 この店が評価できる点は他にもまだある。現在二代目の当主が、うまいものを見つける優れた目を持っていることだ。
 家業を引き継ぐ前、レストランで修行したと聞いており、私はその経験が、うまいものを見つける力を養ったに違いないと思っている。その上顧客との対話を参考に人気商品の品揃えを着実に増やしているのが立派だ。

 この点については、私も大いに貢献していると自負している。一例をあげると、「こはだ」と「しんこ」のケースだ。処理に手間がかかるうえ、売れるかわからないと判断していたのだろう。売りに出されることはめったになかった。

 そんな事情を知らず、ある時私は「しんこ」を大量に買占めた。それがきっかけとなり、同好の客もだんだん現れ、今では同店の主要品揃えの一角を占めるようになっているのだ。その他なまこ、赤貝とホタテの貝柱などもそうではないかと密かに喜んでいる。

 普段から人気のある店だが、年末年始は超繁忙になる。顧客からの大量の正月用刺身盛り合わせや鯛の塩焼きの注文を受け、年末から正月まで三日三晩ろくに寝ることもなく働く。あるとき妻が
「また大変なお正月が来るわね」と聞いたことがある。
 答えは、
「いやだね。来てほしくない」
 というものだった。そんな中、
「石川さん、今日のかまは、年末の刺身用に仕入れた特別うまいマグロのかまだよ」とささやいてくれる。その時は、車に乗ると同時に、
「今日のかまは、正月用の特上もので、いつもより大きく立派だ」と勇んで家に電話する。

 魚栄は、我が家の食生活の重要なパートナーとなっている。その彼が毎年シクラメンを年末にお歳暮としてくれる。
 これが花もちがよく、毎年5月まで楽しめる。このお礼に我が家からは、チョコレートが趣味の彼に、妻が世界で注目されているマニアックなチョコレートを、バレンタイン・フェアーの中で探し出しプレゼントすることにしている。


 大量消費時代の流れの片隅に残るこんなご縁が、今しばらく続くことが我が家の願いだ。


        イラスト:Googleイラスト・フリーより

ハヤシライス  = 金田 絢子

 夫は食道癌で2月16日(平成30年)に亡くなった。夫が逝って二週間が経った。

 夫の遺影のうしろのシャッターをあけたら、ランドセル姿の、黄色い帽子の男の子が傘を右手に持って通りすぎた。「雨があがったんだわ」と何がなしうれしかった。小鳥の声もしている。

 夫は晴れ男で、調子がよくて怒りっぽい。友だちも沢山いておしゃべりで「わたしは愛妻家ですから」と照れずに言える男だった。

 亡くなる前日、悩めるガン患者のようでなく雄弁で、愛想がよく、笑みを浮べ私にもやさしかった。富山からやってきた次女をねぎらったりもした。

 2月10日に入院したのだが、それまで家にくらした。介護ベッドをリビングに置いた。二階の寝室に重い点滴の液の入ったバッグを持ってあがるのはひと苦労だった。それが、最後の入院の間際まで続けた。
「まだ俺は歩ける」
 それが生きる糧だったのだろう。

 のどから、一切の食を絶たれた夫を目の前にして、私は一人食卓に向う。一人ぼっちの食事に侘びしさが押しよせる。まるで味がしない。こんなはずじゃないのにと、思いつづけた。

 夫は私の料理を批評し、よくほめてくれた。
 なかでも夫が「おいしい、おいしい」と言って食べてくれたのは、ハヤシライスだった。
 料理の本を見たのか、新聞にのっていたのかすでにはっきりしないが、ラードで小麦粉にチョコレート色になるまで火を通す。ウスターソース、ワインをつかい、砂糖をひとつまみ入れる料理法は、じき覚えた。
 どうしても四、五人分出来てしまうので、残りを翌日、パスタにかけて食べた。

 朗らかで、からりとした性格の夫と、根にもつタイプの私とは、よくぶつかった。散々夫は腹をたててまくしたてるが、やりきれないといった顔で
「性格がちがうからなあ」
 としめくくる。

 夫はどこへも一人でいかれない私に心を配り、素直でない私をさとしてくれた。
 気を遣いながら君臨もした夫である。大きな支えを失い、とぼとぼと私は生きてゆくのだ

 夫のいない茶の間で、一人ぼっちの夕食をとる。一人分のお味噌汁をつくる。具はなすである。夫が好んだナスのおつゆだが、気がついたことがある。
 私の好みに合わない。おいしくない。明日はお豆腐とおあげを入れようと決める。

 夫と一緒に食べた日、私はなすのおみおつけをまずいとは思わなかった。ハヤシライスも夫がおいしいといってくれたから、私も自分の腕に満足したのかもしれない。ハヤシライスをつくらなくなって、何年になるだろう。


  イラスト:Googleイラスト・フリーより

ツィッターからの読者感想文、『芸州広島藩・神機隊物語』 =ひえだのあれい

 私には良い小説を読む時のルールがある。
 その小説の場面に入り込んで様々な人の立場でその状況を考える。
『芸州広島藩・神機隊物語』は合間を入れて様々な人物になって考えながら噛(かみ)み締めて読んだ。

 先の『広島藩の志士』を読んだときは、隊長の高間省三にスポットを当てていた為か、神機隊員達の状況が十分に掴めずにいたが、
『神機隊物語』を読んで、隊員達の官軍の中で置かれている立場や戦闘状況が壮絶過ぎて、これが本当にあったことだとは信じ難いほど過酷なものであった事に驚愕を覚えた。
 『神機隊物語』を読み終えると、戊辰戦争は神機隊の壮絶な戦いによって決したと断言していい、ということがよく解かった。また、必要に迫られてそうなったにしても、広島藩の思想や藩政は現代からみても最先端を行っていると思われる。
 そんな広島藩が明治新政府の中核を成していたならば、いろんな意味で世界をリードする国になっていただろう。それからすると、現代の広島はまだ本来の能力を出し切れていないのかな?

 神機隊が青葉城に入場したとき、まともに歩行できたのは数人だけだった。みんな怪我でボロボロの状態だったに違いない。自分たちを恐怖に陥れた神機隊の凱旋を見て、仙台の人たちはどう思ったのだろうか。
 戦争が終わってみれば、このボロボロの小集団(神機隊)に、数千もの仙台藩の軍勢が恐怖に慄いていた、という事実に対して信じがたかったに違いない。
 また、神機隊の壮絶な戦いでも広島自体が恨まれていないのは、極力民を犠牲にしない一貫した姿勢と対応、そして義の為に命を懸けていたことが、その心が、何となく福島の領民に伝わっていた、そう思いたい。
 福島といえば長州を恨んでいるとよく云われているが、長州は討幕と功名心ばかり目立って、義を尽くす姿勢がなかったから恨まれたのだろう。
 薩摩となれば、厳しい戦場から逃げるくらいだから、問題外だったと思われる。

 広島藩士の活躍が、歴史の表舞台から消し去られた。それには、活躍した神機隊が広島藩正規軍として認められなかったことが、大きく影響しているのではないかと思う。広島藩の正規軍(応変隊など)も戊辰戦争には参加している。職業軍人として徹底して訓練された精鋭部隊である神機隊とは比べものにはならない。活躍したとはみなされていない。そして戊辰戦争は薩長の手柄になってしまったのだ。
 更には薩長の周りを蹴落として我一番になろうとする思惑に対し、団結して、みんなで局面を乗り切ろうとする姿勢に手柄を独り占めしようとしない奥ゆかしさ。
 ここに広島が明治の中央政府から、外された大きな理由があるのだろう。

                     「了」

【関連情報】

 写真=穂高健一・相馬中村城 2014年6月14日
 
 相馬藩・中村城です。「神機隊物語・奇襲の駒ヶ嶺」(285ページ)で、~戦える隊員はわずか90人程度だった。~太陽が真上にさしかかるころ、神機隊は相馬中村城下に入った。
 

穂高健一先生著の紹介「神機隊物語」、「広島藩の志士」=青山貴文

 私のエッセイ教室の穂高健一先生が「神機隊物語」(4/4)、および「広島藩の志士」(3/12)と続けざまに出版ししています。
 2作とも、通説の幕末史を大きくくつがえしています。

 元下級藩士だった薩長閥の明治の政治家が、自分たちを大きくみせるために、幕末史編さんをねつ造した。焚書までした。

 現代の安倍政権の公文書偽造やねつ造は、明治半ばに行った『幕末史』ねつ造から始まっている。それが穂高氏が前々から強く訴えている点です。

 地元・広島では販売即ベストセラーになっています。

 広島はカーブのように熱く燃えるところですから、「徳川倒幕は広島藩の功績だった。それを抹殺したな、長州は」と、この本から、怒りが盛り上がり、幕末史が覆っていく可能性があります。
 
 私(靑山)も、広島県出身です。

 くわしくは、『穂高健一ワールド』をご覧ください。

【関連情報】

『晴耕雨読』・青山貴文ブログ

 東京都立西高校、早稲田大学・理工学部卒、元日立製作所勤務、現在「元気に百歳クラブ」エッセイ教室で活動。趣味ハイキング、楽器演奏など。

さらば!  阿河 紀子

 2017年12月5日 我が家の飼い犬 秋田犬(あきたいぬ)の大和(やまと)が死んだ。
推定15歳 我が家の一員になってから 11年と11か月。老衰だった。

 穏やかな最期で、あっけないくらいの別れだった。死が、にわかに信じられず、私は何度も大和の体をゆすり「寝ているの? 死んじゃったの?」と確かめたほどだった。
 大和は、2005年、足立区を放浪しているところを、通報され捕獲された。本来なら、殺処分される犬だった。エサを食べているときに触っても、唸らないほど、おとなしい犬だった。愛護センターの職員が不憫に思い、譲渡対象の犬のリストに入れたと言う。

 (亡くなる1か月前 崩れる大和を支える飛鳥丸)

 だが、秋田犬(あきたいぬ)の牡で、しかも、成犬(せいけん)となれば、センターから
引き出そうという、ボランティア団体も簡単には、見つからない。
 やはり、殺処分するしかないのか。処分決定のギリギリになって、葛飾区に拠点をおく、ボランティア団体「CATNAP」(キャットナップ)の代表が手を上げた。ネットで里親募集をしていたその秋田犬に、私は、会いに行った。そして、その日のうちに、家に連れて帰ることになった。
「里親さん宅までお届け」がボランティア団体の規則だったので、我が家の車に代表と、大和を乗せ、自宅に向かった。途中、ホームセンターに立ち寄り、バリケン、いわゆる室内用の犬小屋を購入した。大型犬のバリケンは、2、3万円もした。

 店員が、大和の体格に、ピッタリのものと、余裕がある大きめのものを出してくれた。ピッタリの方のバリケンを指さし、「こっちでいいよね」と私が言ったとき、のっそりと大きい方のバリケンに入った大和は、突然そこで、「小」の方の用を足した。
 大きい方のバリケンを購入したのは、言うまでもない。数か月後には、大きい方のバリケンが大和の体格にピッタリになった。
 大和には先見の明があったと、後々まで話のタネになった。

 秋田犬の牡にしては穏やかな性格の大和だったが、まったく、「しつけ」がされていなかった。大きな体で、子犬のように甘噛みをする。本気噛みでは無いが、鋭い秋田犬の歯で、私の手も、腕も、足も、血だらけになった。
「止めて」と怒鳴れば、大喜びで走り回る。手を頭上に上げれば、飛び上がって、体当たりして、手を噛みに来る。まったく、手に負えない。
 この時、私は初めて「犬のしつけ」の重要性を認識した。かねてからの知り合いの「ドッグトレーナー」が開催している、しつけ教室に大和と一緒に通うことにした。大和は、賢かった。

 一度、言葉が通じ始めると、まるで、スポンジが水を吸うように、様々なコマンドを理解した。私の言葉が大和に通じている、それだけで、感激して身を震わせるほど、嬉しかった。

   (写真:オスワリが出来てほめられて嬉しそうな大和)

 大和の足の裏は、まるで子犬のように、柔らかくて、ぷにょぷにょしていた。堅い地面を歩くと、すぐに傷ついた。背中に手を当てるとあばら骨が触れるほど痩せていてた。
 体を支える筋肉が無く、背骨が曲がっていた。
 筋肉をつける為に、毎日歩かせた。

 自宅から4キロほどのところにある、運動公園で、毎日のように、ロングリードを付けて走らせた。大和は、まるで、空を飛ぶように、走った。その姿に、私は、胸を打たれた。

(空飛ぶ秋田犬 大和)

 他人からは、「秋田犬の里親になってえらい」などと感心されたが、そうではない。私たち家族は、大和から、毎日まいにち、たくさんのプレゼントをもらった。
「えっ、そんなことが、そんなに嬉しいの?」
 大げさに言えば、おどろきと感動の連続だ。輝くいのちの力強さを実感できた。

 夫の転勤に伴い、大和を連れて、千葉から奈良に引っ越しをした。一番苦労したのは、大和と室内で一緒に住む「家」を見つけることだった。
 やっと見つけた賃貸住宅は、広いだけが取り柄の恐ろしく古い、壊れる寸前の家だった。
だが、この「広さ」がとんでもない事態を生み出した。大和が家の中で走り回れるほどだった。うかつにも、私は、もう1頭秋田犬が飼えるような気がしてしまった。

 秋田犬の仔犬、それも、1度も会わずに写真だけで、無謀にも引き取ってしまった。
           
 それが「飛鳥丸(あすかまる)」だ。生後半年の仔犬だが、なんと体重が4キロしかなかった。通常 生後半年の秋田犬は、体重20キロにもなると言う。
 飛鳥丸は、熊本から飛行機に乗ってやってきた。ガリガリで、極度の栄養失調で、足が曲がっていた。保護した人の話では、歩けなくなるかもしれないと言う。

(里親募集時の写真 左が飛鳥丸)


  その上、あとで分かったことだが、心臓に穴が開いていた。無事に奈良まで来られたことが、「奇跡」とも言える。

 大和との相性など、何も考えず、私は、引き取ってしまった。
「やっぱり要りません」
 と熊本に返すわけにもいかない。そんな考えなしの飼い主を困らせることなく、大和は飛鳥丸を受けいれた。
 むしろ、飛鳥丸が、飼い主の私たちより、大和を信頼し、心を開いてくれた。大和は、全くケチの付けようがないくらい、「良き先輩犬」だった。

「威張ることなく、相手を労わり、受け入れ、悪いことは悪いと、教える」
 真のリーダーとは、こういうものかと私は、感心させられた。

 大和と飛鳥丸は、プロレスが大好きで、よく、取っ組み合い、転げまわって遊んだ。そんな様子を、ブログにアップすると、驚きのコメントがたくさん寄せられた。

(プロレスに興じる2頭)

 大和が老いて、足がおぼつかなくなり、だんだん歩行が困難になってきた。ある時、飛鳥丸が、大和をプロレスに誘った。体当たりをすると、大和が倒れた。その姿を、飛鳥丸はじっと見つめていた。

 昨年の11月 山中湖に大和たちを連れて、旅行に行った。宿のドッグランは、2頭のお気に入りだった。
 以前来た時は、2頭で、飽きもせずに、もつれるように走り回ったものだ。
 しかし、もう、大和は走れない。それでも、飛鳥丸が大和をプロレスに誘う。楽しかったのを覚えていたのだろう。鼻で小突いたり、足を軽く噛んだり、周りを走り回ったりするが、大和は動けない。すると、飛鳥丸は大和の隣で、同じように伏せて、時を過ごした。

(大和に寄り添う飛鳥丸)

 私が遊びに誘っても飛鳥丸は動かない。私に、大和の変わりは出来ない。
 大和は、やがて家の中でも自力で移動できず、何をするのにも、介助が必要になった。
共通言語を持たない我々人間家族は、大和が何を求めているのか、忖度する毎日だ。
「歩きたいのと違う?」
「水が飲みたいのよ」
「おしめが汚れたみたい」
 私たちは、自分の考えたことが、大和の求めていることと一致した時には、ちょっと自慢げに、「ほら!やっぱりそうだったでしょう」と言いあった。

 誰が、決めたわけでもないが、家族3人力を合わせて、交代で大和の介助、介護をした。
皆、寝不足にもなった。私は、腰痛に悩まされた。
 20キロに減ってしまっても、大和の体を抱き上げるのは、たいそう力が要った。だが、大和の満足げで、穏やかな顔を見るだけで、私たちには、充分だった。
 大変なこともあったが、「辛い」と感じたことは無かった。家族が、力を合わせ、大和と向き合い、互いに思いやることが出来た。

 大和には 骨髄異常に由来する、持病があったが、2017年の夏から、検査や服薬することを止めた。根本的な治療にはならない、延命のためだけの医療行為は止めた。
 強制給餌をしないことも決めた。大和にとって、くるしい事や嫌がることは止めた。
いつでも、見送る覚悟は、出来た。
 最後の日の夕飯も、少ない量だが、がっつくように完食した。
 その4時間後、あっけなく逝ってしまった。
 大和との時間は、十分に満喫できた。
 すべての時間を抱きしめながらも、振り返ることなく、 
「さらば!」

(家族そろっての散歩)

紙幣の原料ミツマタ由来のミツバ岳 = 武部実

平成29年3月29日(水) 

参加メンバー:L武部実、栃金正一、佐治ひろみ、中野清子の計4人

コース : 新松田駅 ~ バスで ~ 浅瀬入口 ~ 滝壺橋 ~ ミツバ岳 ~ 権現山(1019m) ~ 二本杉峠 ~ 細川橋 ~ バスで ~ 谷峨駅 ~ 松田駅

 8:25発のバスに乗車し、約50分で浅瀬入口に到着。トンネルを抜けて歩くこと約30分、滝壺橋に着く。ここが登山口だ。

 10:00に出発。杉林を登り始めて40分、樹種が原生林へ変る。このあたりからミツマタがちらほらと見え始めてくる。
 登りなので見上げると花は黄色一色だ。
 しかし登り過ぎて見下ろすと、真っ白な花になるのが面白い。

 歩くこと1時間強で、山頂直下のミツマタの大群生が現れてくる。ミツマタ林の中をくぐり、甘いかぐわしい匂いにうっとりしながら歩くと、標高834mの山頂に着く(11:00)。
 天気が良ければ、ミツマタと富士山の2ショットが撮れるはずだった。だが、残念ながら富士山は雲の中。それでも平日なのに登山者はミツマタを求めて、ツアー客等も含めて4~50人の大賑わいだ。
 丹沢で、人気の山だということがよくわかる。


 ところで、ミツバ岳という山名だが、正しくは大出山(おおだやま)だ。紙幣の原料として植えられたミツマタが、その後は使われないまま成長して、ミツマタ畑(ばたけ)がミツバ岳に変化し、一般化されたということらしい。

 昼食を摂って、11:35権現山に向けて出発。登山道は2~30人の行列で、抜いたり追い抜かれたりの有様である。
 ミツバ岳では残雪少々だったが、途中からは10㎝位の積雪で滑らないように慎重に登る。権現山とは180mの標高差なのに随分と違うものだ。(12:30着)


 12:40に、権現山を出発する。急な下りなので、全員アイゼン装着することにする。私も今年初めてのアイゼンだ。
 こちらのコースは、トレースはついていたが、降りる登山者は少なく我々のパーティー以外は数人だけ。ミツバ岳往復のパーティーが多いようだった。
 30分ほど降ると、ようやく雪がなくなり、アイゼンをはずす。

 二本杉峠からは、普通の整備された登山道を降って、14:30に予定通り細川橋に到着した。
 ここで、地元の人がミツマタの皮を剥いで、和紙の原料作りをしているところを見学することができた。
 ミツマタの皮を綺麗にして、苛性ソーダを入れた鍋で煮込むと、和紙を漉く原料になるということだ。山北町ではミツマタで町おこしをする一環として、和紙漉きをしているとのこと。

 体験したい方は山北町に申し込めばできるらしいので、どなたかやってみてはいかがでしょうか。


     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№213から転載

花咲く芸術的な火打山は、霧のなか = 市田淳子 

期日:2017年7月8日~9日 晴れ

参加メンバー:L武部実、岩淵美枝子、大久保多世子、開田守、市田淳子

コース:上越妙高 → 池の平いもり池 → 笹ヶ峰 → 黒沢池ヒュッテ(泊)→高谷池 → 火打山
→ 高谷池 → 笹ヶ峰 → 妙高高原駅

 梅雨末期の蒸し暑い東京を抜け出して、涼しい山に、と思ったのは大間違いで、登っても登っても蒸し暑く、久々の高い山にはちょっと閉口した。
 バスの運転手さんが、冬の深い雪の話をしてくれて、笹ヶ峰までは登山ではなく観光に来た気分だった。
 登山口から入ると、行けども行けども木の階段が続いた。
 階段の脇に咲く可愛い花や、見た目は爽やかな(しかし、実際は蒸し暑い)ブナ林を眺めながら歩き、途中で昼食にした。キンラン、ササバギンラン、タニウツギ、ギンリョウソウが生えた、いわゆる低山の趣だ。

 しかし、十二曲がりを過ぎて標高1800mほどになると、残雪が現れた。アイゼンをつけるほどではないが、歩きにくい。しかも、ブヨのような小さな虫が顔の周りを飛び回っている。

 この頃になると、深山の植物から高山植物に変わる。サンカヨウ、キヌガサソウ、ハクサンチドリ、ミネザクラなど、蒸し暑いながらも、花に出会う度、一休みして、黒沢池ヒュッテに近づいたのは、17時を少し過ぎていた。
 広い雪渓から靄が立っていた。
 最後にハクサンコザクラが出迎えてくれて、ヒュッテに到着。まもなく夕食となった。ヒュッテの従業員はユニークだ。
 カナダ人、ネパール人に日本人の大学生。夕食のメニューはネパールカレーだった。消灯は20時。ユニークなドーム型の山小屋で、階段を登ってドームの頂上で就寝。夜中にトイレには絶対に行きたくない構造だ。


 次の日の朝食は5時ということで、席に着くと、メニューは厚めのクレープだった。
「クレープは無限に焼けるよ。」
 と言う。
 小麦粉大好きな私にとっては最高の朝食! 朝食を済ませ、出発の準備ができたのは、6時少し前。すぐに出発することにした。

 高谷池ヒュッテを通り、天狗の庭に出ると、ミズバショウ、イワイチョウが咲いていた。ハクサンコザクラの群落は見事だったし、火打山と雪のコントラストが天狗の庭の池塘に映って、芸術的だった。
 いよいよ、火打山に登る。雪が多く残っているにもかかわらず、蒸し暑いのはなぜ?と思いながら、登った。
 アルプスほど高い山ではないのに、私にとっては結構、大変だった。しかし、ところどころで見せてくれる花たちが、私にとっては最大の救い。これがなかったら、登れないだろう。

 私が火打山の山頂(2462m)に着いた時、360度霧で何も見えなかった。

 少し前は日本海まで見えたという。残念ではあるけれど、山はこんなものだ。人が自然をコントロールするとはできない。むしろ、しない方が自然なこと。もし、パノラマを見たければ、もう一度来ればいいのだ。
 こうして、来た道をひたすら歩いて戻った。登山口にはライチョウ調査のアンケートが待っていた。実は知り合いだということに驚いた。友達の輪が嬉しい。


   ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№215から転載

抱擁の標本/望月苑巳

 さくらのはなびらにじゃれつく猫
 猫の暗闇にぼく
 ぼくの骨格に似た無邪鬼がいる
 とうの昔に夜店で失ったものがそこにある
 柔らかな毛並みを抱くと
 温かいいのちがはらりと
 夢の外へ逃げてゆく
 昨日買った手帳に
 その夢を貼りつける
 抱擁を貼りつける
 喜びの源はぼくの内側にあったと
 その時、気づく
 いのちの回数券が減ってゆくように
 はらり
 はらり
 さくらは散る時、宙で背を向けるだけなのに
 テロメアは
 背を向けないまま
 弟の命日にじゃれついたのか
 これみよがしに
 黙々と目を伏せている散華
 一枚落ちるたびに生を願い
 死を思う
  一枚裏返るたびに
 一歳、歳をとり
 一歳若返る気がする
 その弥生は
 人を狂わせるだけに存在するようだ
 夢の外の闇だまりにはまりこんで
 またさくらと、ダンスに興じている 猫が
 腕の中でチコンと標本になっているので
 ぼくはつるりと泣きだしてしまう


  *テロメア=命の回数券とよばれる。染色体の先端にあり、細胞分裂を繰り返すたびにこの部分は短くなって、死んでゆく。


        イラスト:Googleイラスト・フリーより

【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

【孔雀船より】 剛太郎 ラップミュージック・フリースタイル

お袋なんてくそくらえ
俺がどう生きようと俺の自由 
俺の人生
明日は明日の風が吹く
明日は明日の陽が昇る
あっちにぺこぺここっちでへいへい
仕事仕事とで骨身すり減らし
気がつきゃ爺(じじい)なんてまっぴらごめん 


剛太郎は今日ものりのりで歌っている 
ご近所迷惑犬の遠吠えもなんのその
憲兵に連れて行かれるわけでもなく
刑務所に閉じこめられるわけでもなく

世間なんてなんぼのものじゃ
俺に金をくれるじゃなし
食い物くれるじゃなし
朝から晩まで汗水たらし冷や汗かいて
ホームレスって生き方もあるんだぜ
野垂れ死なんてのもなかなかイカシテルじゃねえか 


剛太郎は夜中から明け方まで
息もたえだえ
青息吐息でギブソンのギター・レスポールをかきならし
思想犯としてマークもされず
天井から逆さ吊りにもされず


しょせん人は孤独なんだよ
旅先だろうと戦場だろうと
死ぬ時ゃ一人ぼっちさ誰だって
生きるか死ぬかなんて
時の運天のさだめ
人生はきまぐれ出たとこ勝負 


剛太郎は溺れかかっているのだろうか
すきっ腹のはずはないし 
首も吹っ飛ばされていないのに
あんなに叫びがなりたて 
あんなに手脚をふりまわし


ごぎぶり一匹も殺せぬいくじなし
蜘蛛の子さえ逃がしてやる浪漫派
得体のしれぬ何かにがんじがらめにされると
怯えているのだろうか

                 
           イラスト:Googleイラスト・フリーより


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

【寄稿・孔雀船】 月が欠ける前にペンギンが囁くこと  望月苑巳

 あなたはペンギンの抱擁を見たことがありますか。
 
   ある日母が解体した
   時間は罠であり
   謎の病だと知って
   月が欠ける前に
   ぼくは骨を食べことにした
   焼きあがったばかりの
   母の骨を食べる
   感謝しながらうっとりと
   カリカリ、シャリシャリと
   時々泣きながら気晴らしに遠吠えもしてみる
   すると妻が走ってきてやめろという。

 僕は見たのです。
「ダンスの時間」という映画の中で、たがいに体を預けあってうっとりと目を閉じ、無我の境地に達しているその生物を。ぴったりとくっついたそのからだの隙間には、どんなえらい神様も入り込む余地などありませんでした。
 完全無垢な天地創造の原理もそこには意味がないというように、未来永劫書き変えられない過去がありました。そのとき、こちらの気配に気づいたのか、半開きになったペンギンの目が、「人間にだってできるんだよ」と笑っているようでした。

   妻は骨をひったくると
   ぼくの首を絞める
   ぼくは母の骨の心臓を吐き出してうっとり
   食べながらうっとり
   吐きながらうっとり
   どちらが本当の気持ちなのだろう
   欠けはじめた満月が鎌になり
   ぼくの首を斬り落とそうとしている。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

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