フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

浪江町から南相馬市、そして相馬市・松川浦に入る

 5月31は、前日の雨と違って晴天だった。
 南相馬から、6号線を通り、双葉郡浪江町に入った。危険区域が同月28日に見直されており、一般人も入れるようになった。規制解除から、まだ3日後だから、作家としてはきっと最も早い立ち入りだろう。先の富岡、今回の浪江と言い、フクシマ第一原発から10キロ以内だ。地図上の直線では、ともに6-7キロである。
(もし私が広島出身でなければ、放射能に怖気づくか、線量計を持参しているだろうな)
 子どもの頃、残留放射能のある広島市内を歩いているのだから、いまさら関係ないや、という気持から、線量計など持参する気すらなかった。

 歴史小説を絡めた「望郷」感を書くうえで、どうしても浪江町の高瀬川まで入りたかったのだ。やっと来れたぞ、という感慨が強かった。

 戊辰戦争・浜通りの戦いでは、この高瀬川を挟んで、官軍と相馬・仙台藩とが最大の攻防戦を行っている。これを『浪江の戦い』という。
 ここで敗れた相馬藩が白旗を上げると同時に、官軍側に付いた。そして、いきなり仙台藩兵に襲いかかったのだ。仙台から見れば、裏切者である。

『浪江の戦い』では、私が小説で取り上げたい芸州(広島)藩・高間省三(20)が討ち死にした場所である。かれは芸州藩の頭脳明晰の超エリートだった。度胸も据わっている隊長だった。

「高間省三よ。原発で長く浪江に入れなかったけど、ここまで来たよ」
 私は高瀬川の側で、死に行く砲隊長と、愛する女性の心を連想していた。かれには広島に愛する、許嫁(いいなずけ)がいたのだ。彼女は省三の死を悼む和歌を遺している。いま私は4首ほど入手できている。(子孫が保管していた)。
 それら和歌から、ふたりの心情が痛いほど伝わってくる。それを小説のなかに折り込みたい、と考えている。
 
 高間省三は双葉町の寺に眠る。フクシマ第一原発に最も近く、いまなお厳しい道路規制で入れない。双葉町はむこう30年は住めないだろうとか、そんな短期じゃないとか。情報が錯そうしている。当座は無理だろう。
 国道をバリケードしている警備員らに、厚かましくも、双葉町に入れる方法を訊いてみた。原発関係者とコネクションを作り、一緒に来たらいいんじゃないの、とアドバイスを受けた。ならば、それらの手段も考えてみるかな、という気持ちで、こんかいは断念した。


 南相馬市博物館の水久保学芸員を訪ねた。戊辰戦争・浜通りの戦いの、相馬側から見た史実、資料の説明を受けた。
 水久保さんは『「奥州戦争日記 上」からみた戊辰戦争ーー東北からの視点ーー」の著作があり、それを頂戴したり、館内の関連展示をも見せてもらった。さらなる資料で、同市に在住の方で、『浜街道における芸州藩の動静』を書かれた方がいた。
 これには驚かされた。著者の生年月日をみると、高齢だから、この先の取材となると、不透明だ。


 官軍ルートとなった、相馬市、仙台方向へと北上した。東電・原町火力発電所を過ぎると、快晴だが、海を見ると、波浪が高く、テトラポットで波がはじけ飛んでいた。
 車から降りて海岸に沿った道を徒歩で行くと、白い観音像が見えてきた。3・11慰霊の碑もあった。それによると、3・11では、15メートルを超す大津波が、海岸から内陸に約2キロほど襲った。そして、甚大な被害を受けたと記載されている。
 海岸線の松林がズタズタに折れていた。陸前高田市のように、松が凶器になったのだろう、と推測できた。


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農夫が語る、田畑の荒廃、そして野生天国=南相馬

 飯館村で酪農家から取材した、翌5月31日から南相馬に入った。3・11大震災で多くの被害が出た南相馬市に、私ははじめて足を踏み入れた。
 まずむかった小高地区は平坦地である。大津波で甚大な被害を受けた。しかし、従前の南相馬をまったく知らないので、被害の大きさは理解できなかった。ただ、民家もなく海辺からの荒涼とした、雑草が茂る風景だった。
 乗用車が横転しているし、ガレキが未処理の場所もあった。

 
 農家の70歳前後の男性から話を聞くことができた。
「南相馬は大津波と原発事故が重なった。3・11震災直後、多くが郡山方面に逃げた。そのさき全国だよ。ほとんどの住民が未だにもどってきてない。だから、田畑は荒れ放題になってしまった」
 私の目で見ても、現実に雑草と、セイタカアワダチソウ(黄色い花)が伸び放題だった。

「従来は、年3回の雑草の刈り取りをしていた。それがやれなくなった。畑は放置しておくと、なぜか柳の木が生えてくるだよね。いまは消毒の空中散布ができないし、虫が繁殖した。すごいものだよ」
 秋口になると、これら虫が冬眠するために、住宅に入り込み、カーテンにびっしり着く。洗濯物にも着く。それには恐怖すら感じるという。

 立木は枯れてくる。放射能が低線量でも続くせいか、虫のせいか、それはわからないという。梅の実は皺だらけで落ちていく、と一例を示していた。

「野生動物は増えた。目に余るよ。タヌキ、イノシシ、ハクビシン、居るはずがないアライグマまでも増えた」
 イノシシは年に1、2回の出産で、2から3匹らしい。ところが、養豚場から逃げ出した豚(多産系で、一度に10匹以上も産む)と交尾したから、繁殖率が高い。だから、『イノブタ』がメチャメチャ増え、田畑を荒らしまわっていると嘆く。

「キツネがいれば、まだよかったのに」
 農夫がふいにそう言った。
「なぜですか」
「キツネはタヌキやイノシシの子どもを襲って食べるんだ。原発と関係ないが、キツネが疫病で減っているから、ここは野生天国になった」
「牛が牧場から逃げ出している、と聞きましたけれど?」
 南相馬に野生化した牛は来てないという。
「乳を搾る、綬乳牛は『スタンチョン』という首かせをはめられているから、原発事故の後、住民がいなくなったし、逃げられず、餓死して死んだ。ただ、放牧牛は逃げて、浪江の町中を歩いているらしいよ。水さえあれば、牛は野山で生きていける」
 楢葉町の住民が、取材のなかで、、動物愛護団体が柵を外したからだと怒っていた。この農夫も、食肉用の牛は牧草だけでも、十分に生きて行けたはずだという。牛にとっても、無人の街なかをノソノソ歩くメリットもないだろうな、と思えた。

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住民が生態系異変を語る。猛禽類が増えて飼い猫が獲られた=飯館村

 フクシマ第一原発事故で、双葉郡・飯館村は最も放射線量が高かったところである。全村民が避難し、いまは無人の村である。
 5月30日には、山間部の同村に入ってみた。沿道の民家はすべてカーテンを引く、人影は皆無だった。「無」の世界、「無音」の四方はどう形容したらいいのだろうか。
 拡がる田地は一面が緑の雑草だった。植物だけが呼吸している世界である。あちらこちら車で走り回ると、『飯館牛』の看板が折々に目立つ。村には1頭の牛も居ないのだから。空虚だった。

『村役場』まで行くと、住民課の方が一人だけ執務していた。業務の迷惑になるので、取材しなかった。

 役場の敷地の一角で、細々と除染作業する光景があった。大手ゼネコンの腕章をした責任者は、その実、飯館村の住人で、元役場関係者だった。飛び込み取材だったが、3.11以降の話を聞くことができた。

 3.11大震災で原発事故が発生した。水素爆発する直前から、危機情報を得た双葉町、浪江町、大熊町、南相馬市の住民が大挙して飯館村に逃げ込んできた。同村の小中学校、公共施設は避難民で溢れた。これらの人々にとって、飯館村は単なる避難の中継地点で、すぐさま郡山、福島、会津へと逃げて行った。

「第一原発からやや遠かった飯館村は逃げ遅れたのです。国からの避難命令が出てから、避難へと動きはじめた。しかし、遅かったことから、福島・郡山など中通りのどこをあたっても、もはやアパートなし、空き部屋なし、仮設住宅なしでした。7月まで、この飯館村にとどまることを余儀なくされたのです。つまり、セシウム放射線量が最も高い村に、住民が最も長く居続けたのです」

 いまでも放射線量は高いホットスポットである、とつけ加えた。

 国の方針の除染についても、語ってくれた。
「平坦地や住居周りを1度や、2度、除染しても、放射能の数値はすぐ元に戻ります。なぜか。セシウムは雪・雨で降下し、山林に積もっているからです。それらの放射能がすぐに平坦地に降りてきて、線量を元の値に戻してしまうのです。国は無駄なことしていますよね」
 除染作業の監督が、放射線量の電光掲示板を指して、具体的な数値で語ってくれたから、真実だろう。

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フクシマ原発『望郷』の取材で、広島へ=偽物「船中八策」との接点

「災害文学」の第2弾はフクシマ「望郷」(仮題)である。現代小説と歴史小説をオーバーラップさせるつもりだ。さらには広島原爆の大惨事にも多少リンクさせたいと考えている。
 こうした3つの重層だから、取材の範囲は広域になってくる。

 5月に入ると、第1週は福島・いわき市~富岡町に行った。第2週は郡山市内の仮設住宅を訪ねた。第3週15~16日の2日間は広島・宮島に出むいた。

 福島県・広野町には、芸州藩の兵士が眠る、修行院がある。岡田住職から、一つの記事がみせられた。中国新聞の『潮流』で論説委員の岩崎誠さんが書いた「福島で守られる墓」だった。
 その岩崎さんと連絡を取り、15日の夜、広島・太田川に近い「焼き鳥屋」(割り勘)で、私的な情報交換を行い、広島・幕末史の史観のすり合わせをするができた。

 私が小説『望郷』で、歴史上で取り上げるのは、広島藩の神機隊・砲隊長の高間省三である。かれは広島藩の超エリートで、20歳で浪江の戦で死す。150年間、双葉町・自性院に眠る。

 この寺はいま原発事故で現地に入るのは難しい。立ち入る機会が得られたら、岩崎さんと日程を調整し、(住民の一時帰宅に同行などに加わり)、出かけてみましょう、と意気投合した。

 ふたりの話は、幕末・芸州藩へとごく自然に流れた。

 東京新聞が2010年10月31日付で、私のインタビュー記事『船中八策は原本もなく存在に疑問』と2面にわたり大きく報じた。それから2年半経った今年の3月4日、朝日新聞が文化面で「船中八策は虚構か」と大きく取り扱った。

 司馬遼太郎は小説『竜馬が行く』のなかで、フィクション「船中八策」を使い、坂本龍馬を英雄視した。世間はいまや史実だと思い込んでいる。江戸時代、明治時代、大正半ばまで、「船中八策」は新聞にも、文献にも、一行も出てこないのだ。船中八策は後世の作り話しで、偽物である。

「新政府要綱八策」こそ本物で、まぎれもなく国立国会図書館と山口県・長府博物館にある。大政奉還の後、1967年11月3日に、長州、薩摩、土佐、広島藩の四藩の大物が御手洗港に寄り集まって決めたものだ。それは同港のお寺の出身者である、新谷道太郎著『新谷翁の話』から裏付けられる。
 同書は90歳という高齢の口述筆記で、この書物の信ぴょう性が問われている。しかし、高齢だから、全部でたらめとは思えない。

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「災害文学」で、フクシマの何を描くべきか。原発問題か、人間の群像か

 311に関心を持つ作家の多くは、『脱原発』『原発に反対』の視線で作品を作り、シンポジウムを開催する活動を展開している。
 私にとっては、東電問題は大き過ぎるし、文学の領域を超えた、手におえない素材だと考えている。他方で、ジャーナリストの原発記事を下地にした小説は邪道だと考えている。
『自分の足で取材する。庶民の目で描く。記事の引用はしない』
 これが私の作家魂、というか理念だ。

 だから、原発反対を叫ぶ作家との同化を嫌った私は、あえて難易度の高いフクシマを取材を外してきた。2011年の秋から、岩手県と宮城県に絞り込み、延べ13か月、17回にわたり被災地の取材を行った。大津波がもたらした人間の生き方、心の傷、差別、ねたみ、希望などを本音で語ってもらい、「海は憎まず」を刊行した。
 この間、私は福島に一度も足を運んでいない。

 後世にも読まれる『災害文学』の提唱者になりたい。となると、3・11のフクシマ原発事故は外せないだろう。東電問題は書きたくない。テーマ『望郷』ならば、庶民の目で描けるだろう、と考えた。

 戊辰戦争(1868年)の浜通りの戦で、鹿児島、山口、鳥取、そして広島など遠くからきた兵士が数多く死んた。(原発事故前に)浜通りに眠る官軍側兵士の墓は、330体確認されている。
 遠路やって来た兵士が、身内に看取られることもなく、帰郷を果たせず、死す。線香を立て、花を飾ってくれる人もいない。死んでもさぞ無念だろう。

 現代において原発避難者たちは、故郷に帰れない、故郷で生活できない、しかし、故郷は大切なもの。ふたつの望郷が浜通りにある。150年を超えた、人間の望郷感はきっとがっちするだろう。
 1月から、歴史と現代と両面から、私は取材活動をはじめた。すでに、5回足を運んでいる。まだまだ満足な取材に及ばない。


 これを知った知人が、「広島出身作家は、原爆をとうぜん解っている。フクシマを描けば、他県の作家とちがった、真似できない作品ができると思う」と期待された。
 その実、その違いがすんなり飲み込みできていなかった。

 2011年3月12日、第一原発の建屋が水素爆発で吹き飛んだ。瞬時に、放射能が広域に飛散した。
3-5キロの地点には住民がいた。避難所はパニックに陥った。
 2年経った今も、「将来お嫁にいけない」と中学女子が脅えている。
「原爆っ子のように、血を吐いて死ぬの?」と小学二年生が泣く。
 子ども心から残留放射能への恐怖が消えていない、とある母親の取材を通して知った。

「広島県出身の私は、娘さんや息子さんが言った、放射能は怖いと、泣き崩れた気持はよくわかるんです。僕たちは子どもの頃、原爆でなく、「ピカドン」と言っていました。大勢が血を吐いて死んでいた。それを見聞していました」
 小学生の教壇に立つ先生の顔には白いケロイドがあった。先生たちは、『平和教育』だといい、手づくりの紙芝居に、被災直後の女学生や子供を描いていた。それを生徒の私たちに見せる。手や指先がとろけて服はボロボロで、水がほしい、と歩き廻っている。放射能はとても怖いものだった。

「戦争をしたら、次はお前らも、こうなるんだぞ、頭に叩き込んで、後世に伝えるんだぞ」
 被爆教師の熱意は、本物だった。つねに、戦争のない社会、安全な社会を訴えていた。先生は実体験で強烈で真剣な表情だけに、子どもの私はまた戦争がきっと起きる、頭の上にピカドンが破裂する日が来ると、本気で考えていた。
「なにしろ朝鮮戦争が勃発していましたから。小、中学生時代からの核兵器と残留放射能の恐怖はいまでも、私の心に沁みついています。「それが作家になった今も、心の原体験の一つです。だから、原発っ子の気持ちも理解できるのです」

 原爆文学がある。広島出身の井伏鱒二に『黒い雨』がある。原爆投下のアメリカが悪いだの、戦争を仕掛けた日本が悪いだの、という問題には筆を運んでいない。「原爆が落ちた」その事実から、嫁にいけない娘をもった父親を描いている。

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僕も、髪の毛が抜けて、血を吐いて、死ぬの?=9歳児・富岡町

 富岡町の子を持つ母親と、茨城大・大学院生の男性が、フクシマ第一原発が爆発した瞬間と、その後について、体験をリアルに語ってくれた。5月8日、郡山市内のある会議室だった。
 
 院生は、第一原発がある双葉町の出身であった。
 3・11のかれは大熊町の体育館で、大学関連の行事を行っていた。第一原発から3キロ地点である。
 大地震・大津波が発生した直後から、同体育館が住民の避難場所になった。院生はそのまま避難者になった。翌12日は園児たちと仲良くなり、石油ストーブのそばで遊び相手になっていた。原発が爆発したぞ、という声が飛び込んできた。
「まさか、と思いました」
 石油ストーブの側にいた、30歳くらいの女性が、『死にたくない』と泣き崩れた。それを見た院生は、「大人が泣き崩れるのは、もう終わりなんだ。自分は死ぬんだな」
 と長崎・広島級の原爆を想像した。

 体育館の公衆電話の前で、みんなが泣いていた。その空気にのまれた院生は、
「これで人生が終わるんだな。死ぬんだな」
 と思った瞬間から、涙が止まらなくなった。
 かれは部活の先輩に、『今までありがとうございます』と本気で電話をかけた。そして、死ぬ覚悟を決めて、独り体育館の端に行って泣いていた。
 それから避難がはじまった。


 富岡町の住民は、3・11大震災が発生すると、隣り合う川内村の体育館へと避難していた。
 30歳代後半の母親は、当時中学2年生、小学6年生女児、小学2年生の男児を連れていた。12日夕刻、母親は炊き出しに忙しかった。
「お母さん、ちょっと」
 中学生の息子が顔色を変えて、背中をたたいた。
「忙しんだけど、なあに?」
「原発が爆発して、煙を上げているよ。ここにいられないよ。もっと先へ逃げろ、と言われるよ」
「えっ、本当なの」
「建屋が吹き飛んだ。怖いから、逃げよう」
 長男は館内で大型TVを観ていたのだ。

 かつて東電の施設見学会に行くと、柏崎原発の外壁を切ったブロックが展示されていた。外壁は2メールある。『炉は大丈夫。絶対安心です』とか、『飛行機が落ちてきても、大丈夫です』とか、住民に説明していた。
 東電は絶対安心だと言っていた。それなのに頑丈な原発が吹っ飛ぶとは、ただ事ではない。

「お父さん(夫)に会えないけど、どうしよう」
 夫は仕事で、出かけていた。
「仕方ないよ。怖いから、逃げよう。道路が混み合わないうちに行こうよ」
 息子が執拗に言う。

                      

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子どもは楢葉に帰させない=科学者、医学者の誰のことばが正しい?

 楢葉仮設住宅の自治会長(45)は、楢葉に帰郷するたびに、昔の思い出がよみがえるという。幼いころ井出浜で泳ぎながら、水中で銛で魚を突いて獲っていた。ときには素手で、岩の下に隠れる魚を手づかみにする。ターザンごっこ。これがけっこう楽しかったと話す。

 7月1日のアユの解禁は楽しみだった。特に夏が好きで、夕立が降り、そのあとに海風が吹く。そして、花火が上がる。海辺の生活感が忘れられないと話す。目を閉じれば、8月の盆踊り大会の太鼓が耳にひびく……。

 いまの楢葉は変わり果てた、誰もいない町だ。国道の信号機のみが活動している。まさにゴースト・タウンだと語る。

 3・11大地震の前、中学校はちょうど新築ちゅうだった。そこに出向いてみると、建設中の基礎から壊れていた。こんなところまで、津波が来たのか、と驚いたという。

「実は3・11の前に、校舎が取り壊される前に、3月中に学校で同窓会をやろう、と決めたばかりだったんです。母校が取り壊されるって、悲しいな、と言っていた仲間たちも、(複数)消防団員で活動していて、大津波で亡くなりました」
 彼の瞼には、それら仲間の顔が浮かび、切ないと語る。

「楢葉の町はもうダメだ、と私自身をあきらめさせているんです」
「なぜですか?」
「故郷は好きです。望郷の念はあります。ただ、一時帰宅するたびに、家は荒れているし。先を考えるほどに、生活不安と、安全不安とが心の中で乱れます。住まいの近くに原発があるのが、どこか不安なんです。私はかつて原発の下請け会社の一員としてで、第一原発で2年間ほど働いていました。家族を養っていた。収入を得ていました」
 事故前は、すべての住民はインフラとか、町の施設とか、直接・間接的に東電の恩恵を受けてきました。原発事故が起きた。だから、手のひらを反して、東電を悪くいう気にはなれません。あれだけの大津波ですから、仕方ないかな、とも思っています。この考えは3割で、7割のひとは東電を悪く言っていますけど。

 生活不安について、彼に訊いてみた。
「楢葉に帰ったとしても、住居の周りに人がいない。放射線測定には過敏に反応し、住民は違う方向に行ってしまった。工業団地で、会社を興す人はいないと思う。そうなると、私には仕事がない」
「町の放射能除染が進んでいるようですが、その点はいかがですか?」
「除染は切りがないと思う。集めたものが町内の田んぼを仮置き場にして黒い袋が積み重ねられている。中間処理場すらない。最終処分場など、見えてこない。安全不安はどうしてもつきまといます」
 町全体として汚染度がかき集められ、数か所に積まれただけです。町の放射能の全体量が減少したわけではないし、と見ていた。

                 撮影:放射能除染・収納袋、楢葉町、2013年5月1日

「いまの段階では、子どもは楢葉に住まわせたくない。新築の中学校は、震災後は工事が中断していますが、仮に完成しても、子どもは戻したくない。グランドで部活させられないし」
 この会津美里町に集団移転してきてよかった。通学する小中学校では、地元の子どもと仲良くしてるし、順応できている。虐めなどもない、と話す。

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原発被災地・広野町=兵士は150年前に死す、故郷に戻れず

 2011年3月11日に、東日本大震災が発生した。2年1か月が経った今、警戒解除になった広野町に入った。
 町なかを流れる浅見川の堤桜は、すでに満開を過ぎた2分咲きで、見ばえが悪かった。町のシンボルである東電火力発電所の高い煙突が聳えている。原発が停止した現在は、火力発電所はフル活動で、電力を供給している。しかし、フクシマ第一原発が事故を起こしたから、何かしら精彩を欠いて見えてしまう。

 国道4号線の「二ッ沼」は、小さな沼で、4月の冷たい風でさざ波が立っていた。畔には苔むす万葉の碑があり、流麗な和歌が彫られていた。もう一つは、戊辰戦争(1868年)・浜通りの激戦地となった「二ッ沼古戦場」の碑が建つ。史実を記す銘盤もなく、味気ないものだった。

 相馬藩・伊達藩の連合が、いわき平城陥落の後、官軍の侵攻に備えて、砲台や胸壁(きょうへき、散兵壕)を作ったところだ。そして、北上してきた官軍を迎え撃った。双方に多くの兵士が銃弾で倒れた。戊辰戦争「広田の戦い」ともいう。

 官軍の主力部隊は芸州(広島)、因州(鳥取)だった。遠くから来た兵士は、撃たれて死に逝く。頭部貫通を除けば、からだに銃弾に当たっても、まず即死はない。肉をえぐられた激痛に苦しむ。止血の効果もなく、化膿し、苦しんだ果てに逝く。
 血染めの兵士たちの、「望郷の念」は如何ほどだっただろう。
『今いちど故郷に帰りたい。死ぬ前に海や山や見たい、親にも、兄弟にも会いたい』
 そう思い焦がれる。故郷の念は強くても、故郷を見ずして死にいく。そして、亡骸も、遺骨も、永遠に故郷に戻れない。

 現代はフクシマ原発事故で、故郷に戻れない、「ゲンパツ流民」が数万人いる。そのひとたちの「望郷の念」と、約150年前に死した兵士との望郷感が、この浜通りで重なり合うのだ。それが私の小説取材のテーマにもなっている。

「広田の戦」が行われた、浅見川の河口には修行院がある。境内には芸州(広島)藩の4人と長州藩の2名が眠っている。境内の墓地の墓はほとんどが元通りに復元している。
 芸州藩の4つの墓もしっかり立っていた。大地震で、四角柱の角が随分と欠けている。一つは半割れの墓だ。そこには接着剤の跡があった。誰が修復してくれたのか。

寺の住職から3・11の一連の話を聞いた。大津波は広田町にも襲いかかった。修行院の境内も津波が来た。本堂はかろうじて耐えた。しかし、生活の場である庫裏は海に流されてしまったという。
 本堂のなかは津波の渦でかき回されている。一体どこから手を付けるのだ。岡田住職はただ茫然と見ていた。
 翌朝、岡田住職はいわき市内に出向き、長靴や下着などを買った。(まだ物が買える状態だった)。町に戻ってくると、防災行政無線が「フクシマ第一原発が爆発します。南へ、とにかく南に逃げて」と放送していた。消防団員が消防車で巡回し、避難を呼びかける。そのうち、双葉郡(大熊、富岡、楢葉など)の数万人の住民たちも逃げてくる。
 大動脈の国道4号線は先を争う車で埋まってしまった。
「南のどこまで行けばいいんだ」
「原発が爆発するんよ。行けるところまで逃げて」
 消防団員にすら、解らなかった。
 皆がいわき市方面に逃げた。そして、住職の妻は京都出身だから、実家に帰った。

 住職は同年3月30日に警察の立入禁止をかいくぐり、ひとり寺に帰ってきた。周りでは、警察官や自衛隊員が大勢で行方不明者をさがす光景があった。住職は黙々とひとり本堂の復興に取り掛かる。
その後も、本山からは放射能の不安があるので、人手の派遣はなかった。

 「ご本尊が倒れなかった。これはありがたかった。津波でかき回された本堂ですが、畳を剥がしたり、仏具を一つずつ片づたり、使える物は泥をぬぐい、箱に納めていく。手を入れるほどに、妙に快感がわくんですよ。あれは不思議な心境でした」
 檀家で亡くなった人の葬儀は、いわき市の寺で、同年の夏に行われたという。

 境内の墓は6割がた倒れていた。新しい墓は強力ボンドが使用されているので、倒れなかった。それが4割だという。いわき市四倉の石材店が補修に入った。費用は個々人である。
「芸州藩や長州藩の墓の補修費は、だれが出されたのですか」
 そう訊いてみた。

「石材店の方が、『このままだと可哀そうだ。遠くから来て戦争で死んで、故郷に帰れず、亡くなった人だし』といい、直してくれました」
 兵士たちは、敵味方に分かれて戦ったのだが、厚いもてなしを受けている。

 芸州藩・神機隊の墓は明治元年7月26日だった。長州藩は慶応4年7月26日である。明治と慶応と、この表記の違いなんだろうか。ここにも小説的な興味を持った。

第一原発から7キロに入る、3・11被災日にタイムスリップ=冨岡駅周辺

 2013年4月16日、フクシマ第一原発の事故現場に近い、浜通りに入った。

 フクシマ第二原発がある楢葉町と冨岡町の一部は、昼間に限って入れる。事故を起こした第一原発がある、双葉町と大熊町はいまだ昼夜問わず立ち入り禁止である。

 案内してくれる歴史専門家と、楢葉町役場に立ち寄った。住民課の窓口に女性が2人がいた。他は無人。なぜ2人が交代で詰めているのか。放射能は気にならないのか。奇異な感じがした。

 町役場の機能は3・11の直後から、いわき市と会津美里町に移っている。ただ、同町には避難しなかった人が4人ほどいると聞く。その人たちのために、住民課を開けているのだろうか。


 JR富岡駅は、3・11の大津波の直撃を受けた。

 駅員も住民も、町民はみんな避難したまま、富岡町には帰ってこれなかった。

 津波で破壊された状況が、そのまま残されていた。


 大津波で、電車の架線を支えるコンクリート・ポールが折れていた。

 柱は円形だから、水の抵抗は少ないと思う。それでも高さ5mほどのところで折れている。

 大津波のすごさが如実に伝わる。



 線路のなかには乗用車が入り込んでいる。

 2年1か月間、放置されたままなのだ。

 放置というよりも、人間の手が入れられなかったのだ。

 富岡駅は「スーパーひたち」特急が停車する。こうした駅すらも無人だから、どこかローカル線の旅に来たのような錯覚に陥る。


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フクシマ望郷 「こんな家にはもう住めないな」 = 楢葉町

 私が会津盆地を訪ねた時は、道路わきにはまだ雪が残っていた。山おろしの風は冷たかった。盆地の四方を取り巻く連峰は、尾根筋や谷間にも白雪が残っているので、なおさら冷たく思えた。

 福島県・楢葉町(ならはまち)は町内の海岸に、福島第2原発があることで知られている。
 3・11の翌日、第一原発が水素爆発の恐れがあるぞ、と情報をいち早く得た。住民らは車に飛び乗り、目的地が定まらないまま、懸命に西の方角に逃げた。ひとまず、いわき市内の学校で避難所生活に入った。
 やがて会津盆地にある、ここ会津美里町へ集団で移転してきた。役場機能も移り、仮設住宅もできた。フクシマ原発事故で故郷・楢葉町を追われから、約2年の歳月が経っている。仮設住宅の談話室で、町の人たちから話を聞くことができた。

「浜通りには四季がありますが、会津には夏と冬しかない。2年間、ここで暮らしてみると、春と秋はすぐに通り過ぎてしまう」
 そう語ったのは仮設住宅の二代目・自治会長(45)だった。

「春は早いし、すぐに夏がきます。3・11の年、最初に一時帰宅した、あの夏の景色も忘れられません。ショックでした」
 第一陣は抽選で当たった人からだ。だれもが故郷のわが家が心配だ。抽選に外れた人は避難所の前でバスに向かって手を振ってくれるが、どこかうらやましげだった。

 照りつける真夏の太陽が浜通りの地面を焼きつけていた。車窓から見える地形はほとんど変わらない。災害の痕跡すら見つからなかった。突如として、山間の沼で、乳牛が落ちて浮かんで死んでいる光景があった。強烈だった。
 牧草で育った牛は、沼の淵の体験などなく、水を飲みに来ても踏みとどまれず、滑り落ちてしまったのだろう。
「動物愛護団体が牧場の柵を開いたから、牛が逃げ出してきたんだ。。都会者はなにするのだ。ちくしょう、家畜とペットとは別物だ。ありがたい、と思う人ばかりじゃないんだ」
 牧場主は腹立たしい表情で、吐き出した。
 春先から夏場にかけて、牧草は覆い茂る。食べるものにはこと欠かない。
「牧場の外で、ふらふらした方が、牛には危険なんだ。クソッ。原発関係の作業車が通ったら、牛は逃げ方を知らず、轢き殺されるだけだ」
 牧場主は怒り顔で、バスから降りて行った。

 冷房の効いた町営バスが、あちらこちらの民家の前で停車する。楢葉住民は次つぎと自宅前で降りていく。自治会長の彼もバスから降りた。放射能の防災服を着た、厚いマスク姿だから、すぐさま胸元から汗が流れでる。

 彼の自家は二階建てだった。
「ひどいな。この雑草は……」
 菜園の畑も、宅地も、背丈ほどの雑草が茂る。水が豊富な梅雨を越した今、除草作業がなければ、雑草は自由奔放に伸びている。茫然とされられた、予想外の光景だった。
 雑草は刈らないと庭先へ入れない。この場には鎌を持ってきていない。どこからか鎌を借りてきて草を刈るにも、放射能の人体の影響から、滞在時間は限られている。余裕はない。わが家の中を確かめずして、会津美里町の仮設住宅に戻れない。

 彼は両足で草を踏み倒し、両手で分けて、強引に進んだ。顔の周辺で蚊や虻が飛んでいる。久しぶりの人間の血を歓迎しているのだろう。
 玄関のガラス戸は大地震で割れたままだ。そこまで4~5mと迫っていく。突然、足がやわらかな弾力で埋まった。目視すると、牛の糞が盛り上がっていた。それもあちらこちらだ。不愉快な気持ちにさせられた。
 アクリル製の車のガレージには、3頭の牛が腰を下ろし、大きな目でこちらを見ている。
 牧場主の怒りが自分のものになった。
 
 玄関戸の割れたガラスはいっそうのこと、全部壊してから、手を伸ばし、内側から鍵を開けようと思った。ところが玄関鍵はかかっていなかった。
 311の翌日9時から、全住民が避難を開始した。「西へ逃げて、西へ逃げて」と緊迫した、防災行政無線で、わが生命を考え、同時に老母を車に乗せた。持ち物などは後から取りに来ればよいと、国道を使って一目散にいわき市の方角に逃げた。
 彼はこの折、自宅に鍵をかける余裕などなかった自分を知った。

 原発事故から半年たった今、玄関の三和土から座敷まで、一面に真っ白い埃が溜まっていた。この塵と埃はどの程度の放射能の濃度なのだろうか。見えない毒。それに対する警戒心と不安はぬぐえなかった。恐れながらも、わが家の座敷だから、土足は嫌で、靴は脱いだ。

 和室の天井には汚い雨漏りの跡がある。8畳間の畳は湿ってふやけてカビが生える。キノコが生えている。家屋は住人がいて手入れして、維持できるものだ。半年の無人でも、ここまで廃墟になるものかと驚かされた。
 隣は洋間で、中学生の息子のベッドがある。なんと養豚場の大きな豚が横たわり、10匹ばかりの子を産んで、授乳させていた。豚はこちらの顔を見て警戒するだけで、逃げなかった。この怒りは誰に投げつけて良いのかわからなかった。

 縁側がある奥間に入ると、泥棒が入ったと、すぐさまわかった。座敷テーブルの上に、和タンスの引き出しが互い違いに、丁寧に積み重ねられていた。洋服ダンスの手提げ金庫も消えていた。お金はわずかで、実印や権利書が入っていた。
 被害額は少ないが、泥棒に入られたこと自体が悔しかった。警察に被害届を出しても、放射能汚染の町では捜査などしてくれないだろう。「次の間」と呼ぶ和室の引き戸は開けっ放しだ。泥棒も、豚も、ここから出入りしていたのだろう。
 2階の部屋を確認すると、大型テレビまでも消えていた。盗まれた電化製品はきっと海外で使われているだろう。誰が犯人かという思いを持った。

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