A055-フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

もう一つの戊辰戦争・福島浜通りの戦い①=2人の英雄ともに死す

 6月21日~24日まで、鳥取、広島、京都を取材に出むいた。フクシマの戊辰戦争・浜通りの戦い(1868年)の取材と、フクシマ・原発で故郷に帰れない人て(現在)の望郷感の取材である。

 6月21日午後は日本ペンクラブ(浅田次郎会長)の会議室で、「憲法第96条改変に反対する」声明と、記者会見に出席した。私は広報・会報委員として会員向け(約1900人)記事と写真の双方の担当をうけもっていた。
 記者会見場で写真撮り、ICレコーダーで録音してから、私は旅先で記事を書くことに決めて、鳥取市へと向かった。

 都内のある出版社から『もう一つの戊辰戦争』、(仮題)「高間省三」を来春に出版してくれる、と内諾を得ている。20歳の戦死した若き砲隊長・高間省三が主人公である。

 高間省三は広島藩の秀才の誉れ高かった。藩が正式な出兵をしない(藩船だけの提供)となると、エリート中のエリートだった高間は、義に燃え、みずから農兵隊(神機隊)に飛び込んだ。砲隊長として戦場に向かった。すさまじい戦いだった。
「このあたりは長州藩のエリート高杉晋作(20代後半で死す)に似ているな」
 高杉は長州藩の方針に反発し、農兵・奇兵隊を立ち上げてから行動を共にしている。農兵の力をまとめた点では高間省三もよく似ている。
 
 歴史では、白虎隊の悲劇を生んだ「会津城の戦い」が戊辰戦争のすべてのように語られている。しかも、奥州列藩同盟の雄・仙台を落城さずして、戊辰戦争の終了はあり得なかった。官軍が相馬・仙台藩と戦った、もう一つの戊辰戦争が歴然と事実としてあった。

 私の役目と使命は歴史の再発見で、浜通りの戦いの掘り起こしでもある。

 いわき市・平潟に上陸した広島藩は鳥取藩は2藩で約700人で、浜通りに沿って北上した。平将門の子孫である相馬藩と、東北の雄・仙台藩へと攻め入ったのである。
 敵対する兵は約10倍で、なおかつ相馬・仙台には地理勘がある。双葉郡特有の断崖や河川を利用し、狙い撃ちだった。

 鳥取藩はまず広野の戦いで、砲隊長の近藤類蔵(こんどう るいぞう)が戦死してしまった。指揮者を失い、戦力が落ちた。

 広島藩はそれでも退かず、砲隊長・高間省三が先頭に立ち、最新の西洋銃と大砲で、多勢の敵陣に突撃を加えつづけたのだ。
 広島藩が広野の砲台を奪っても、反撃する相馬・仙台は真夜中までも、失った陣地を取り返しに襲いかかってくる。

 広島藩は3日3晩しだいに体力の消耗戦に追い込まれていく。犠牲者は次々に出でくる。あまりの死闘に、総大将の四条総督(公家)が、「神機隊よ、引き揚げよ」と命令を出す。

 それでも、高間省三は退かず、楢葉、富岡、双葉、浪江へと連日連夜の戦いへと進撃していくのだ。

『高間省三は、なぜそこまでして戦うのか。彼の背景に何があったのか。死も厭わない、燃える20歳の炎はどこからきているのか』
 ここらが書き切れば、歴史小説の魅力となるだろう。

 高間省三はやがて最大の戦地の一つとなった浪江の戦いで、真っ先に砲台を奪った。その瞬間に、顔面を銃弾で撃ち抜かれて死んだ。

 これまでの従軍記や記録のすべてに、高間省三の死の悲しみが書かれている。彼は双葉町の自性院に埋葬された。いまはフクシマ原発事故の影響下で、取材がしたくとも墓地まで入れない。
 

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