A055-フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

もう一つの戊辰戦争・福島浜通りの戦い②=2人の英雄ともに死す

 2013年1月から高間省三の取材を行っている。4月にはいわき市久ノ浜を訪ねた。同町の木村家には、なんと鳥取藩の近藤類蔵の位牌があるという。それは驚きだった。
「広島・鳥取の双方の亡くなった砲隊長にスポットがあてられる」
 それは作品に厚みがつくはずだ、と私なりに興奮を覚えた。

 久ノ浜は3・11大津波と大火災で、甚大な被害を受けている。木村さんとお会いした。自宅の床下まで大津波がきている。大切な遺跡・近藤類蔵の位牌が奇跡的に残ったのだ。木村さんから、伊藤康晴さん(元鳥取市歴史資料館・学芸委員)を紹介してもらい、鳥取に取材に出むいたのだ。

 22朝6時半には鳥取駅についた。喫茶店で、日本PENの憲法96条改変反対の記者会見を会報記事としてすこし取りまとめた。(PENは作家の集まり。読む人のレベルは最高級だから、一字一句に神経は使う)。
 朝8時に歴史学の伊藤康晴さんにお会いした。夕方16時まで、8時間のロング取材にご協力してくれた。資料をも提供してもらい、石碑や戊辰戦争で死んだ兵士たちの墓に案内してもらった。

 近藤類蔵の石碑は鳥取砂丘が眼下に見える、鳥取護国神社に筆頭で祀られていた。高間省三は広島護国神社の筆頭で祀られている。
 そこにも2藩の重要人物だったという共通点があった。

「万延元年(1860)3月には、類蔵は勝海舟の門下に入っています」
 伊藤さんが教えてくれた。
「えっ、芸州で農兵隊の神機隊を作った、木原適処(きはら てきしょ)も、安政5年(1858)から4年間にわたって勝海舟の門下生になっています。接点がありますね」
  木原適処は、武具奉行だった高間多須市(省三の父親)と親しく、広島藩の武器の支援を受けて神機隊を創立したのだ。

 第二次長州征伐の直前、幕府の参謀として小笠原老中が最前線の広島までやってきた。広島城はかつて毛利家が築城している。元祖・毛利とは戦いたくない。「第一次長州征伐ですでに決着がついている、意味もない国内戦争だ。こんなことしたら、外国の植民地になる」という口実で、広島藩は不戦を表明した。(薩長同盟で、薩摩も不戦)。
 すると、小笠原老中が広島藩のふたりの有能な家老を蟄居させた。

 怒ったのが広島藩の優秀な知能だった。「学問所」の若者たち40数名が、血書を書いて、小笠原老中を殺す、と蜂起したのだ。

 広島・浅野藩主らが止めに入っている間に、小笠原老中は小倉に脱出している。「学問所」の助教だった高間省三も、血書に名を連ねている。もし老中を殺傷すれば処刑されてしまう。それでも命をかける熱血漢の省三が見えてくる。

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