フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

フクシマ望郷 「こんな家にはもう住めないな」 = 楢葉町

 私が会津盆地を訪ねた時は、道路わきにはまだ雪が残っていた。山おろしの風は冷たかった。盆地の四方を取り巻く連峰は、尾根筋や谷間にも白雪が残っているので、なおさら冷たく思えた。

 福島県・楢葉町(ならはまち)は町内の海岸に、福島第2原発があることで知られている。
 3・11の翌日、第一原発が水素爆発の恐れがあるぞ、と情報をいち早く得た。住民らは車に飛び乗り、目的地が定まらないまま、懸命に西の方角に逃げた。ひとまず、いわき市内の学校で避難所生活に入った。
 やがて会津盆地にある、ここ会津美里町へ集団で移転してきた。役場機能も移り、仮設住宅もできた。フクシマ原発事故で故郷・楢葉町を追われから、約2年の歳月が経っている。仮設住宅の談話室で、町の人たちから話を聞くことができた。

「浜通りには四季がありますが、会津には夏と冬しかない。2年間、ここで暮らしてみると、春と秋はすぐに通り過ぎてしまう」
 そう語ったのは仮設住宅の二代目・自治会長(45)だった。

「春は早いし、すぐに夏がきます。3・11の年、最初に一時帰宅した、あの夏の景色も忘れられません。ショックでした」
 第一陣は抽選で当たった人からだ。だれもが故郷のわが家が心配だ。抽選に外れた人は避難所の前でバスに向かって手を振ってくれるが、どこかうらやましげだった。

 照りつける真夏の太陽が浜通りの地面を焼きつけていた。車窓から見える地形はほとんど変わらない。災害の痕跡すら見つからなかった。突如として、山間の沼で、乳牛が落ちて浮かんで死んでいる光景があった。強烈だった。
 牧草で育った牛は、沼の淵の体験などなく、水を飲みに来ても踏みとどまれず、滑り落ちてしまったのだろう。
「動物愛護団体が牧場の柵を開いたから、牛が逃げ出してきたんだ。。都会者はなにするのだ。ちくしょう、家畜とペットとは別物だ。ありがたい、と思う人ばかりじゃないんだ」
 牧場主は腹立たしい表情で、吐き出した。
 春先から夏場にかけて、牧草は覆い茂る。食べるものにはこと欠かない。
「牧場の外で、ふらふらした方が、牛には危険なんだ。クソッ。原発関係の作業車が通ったら、牛は逃げ方を知らず、轢き殺されるだけだ」
 牧場主は怒り顔で、バスから降りて行った。

 冷房の効いた町営バスが、あちらこちらの民家の前で停車する。楢葉住民は次つぎと自宅前で降りていく。自治会長の彼もバスから降りた。放射能の防災服を着た、厚いマスク姿だから、すぐさま胸元から汗が流れでる。

 彼の自家は二階建てだった。
「ひどいな。この雑草は……」
 菜園の畑も、宅地も、背丈ほどの雑草が茂る。水が豊富な梅雨を越した今、除草作業がなければ、雑草は自由奔放に伸びている。茫然とされられた、予想外の光景だった。
 雑草は刈らないと庭先へ入れない。この場には鎌を持ってきていない。どこからか鎌を借りてきて草を刈るにも、放射能の人体の影響から、滞在時間は限られている。余裕はない。わが家の中を確かめずして、会津美里町の仮設住宅に戻れない。

 彼は両足で草を踏み倒し、両手で分けて、強引に進んだ。顔の周辺で蚊や虻が飛んでいる。久しぶりの人間の血を歓迎しているのだろう。
 玄関のガラス戸は大地震で割れたままだ。そこまで4~5mと迫っていく。突然、足がやわらかな弾力で埋まった。目視すると、牛の糞が盛り上がっていた。それもあちらこちらだ。不愉快な気持ちにさせられた。
 アクリル製の車のガレージには、3頭の牛が腰を下ろし、大きな目でこちらを見ている。
 牧場主の怒りが自分のものになった。
 
 玄関戸の割れたガラスはいっそうのこと、全部壊してから、手を伸ばし、内側から鍵を開けようと思った。ところが玄関鍵はかかっていなかった。
 311の翌日9時から、全住民が避難を開始した。「西へ逃げて、西へ逃げて」と緊迫した、防災行政無線で、わが生命を考え、同時に老母を車に乗せた。持ち物などは後から取りに来ればよいと、国道を使って一目散にいわき市の方角に逃げた。
 彼はこの折、自宅に鍵をかける余裕などなかった自分を知った。

 原発事故から半年たった今、玄関の三和土から座敷まで、一面に真っ白い埃が溜まっていた。この塵と埃はどの程度の放射能の濃度なのだろうか。見えない毒。それに対する警戒心と不安はぬぐえなかった。恐れながらも、わが家の座敷だから、土足は嫌で、靴は脱いだ。

 和室の天井には汚い雨漏りの跡がある。8畳間の畳は湿ってふやけてカビが生える。キノコが生えている。家屋は住人がいて手入れして、維持できるものだ。半年の無人でも、ここまで廃墟になるものかと驚かされた。
 隣は洋間で、中学生の息子のベッドがある。なんと養豚場の大きな豚が横たわり、10匹ばかりの子を産んで、授乳させていた。豚はこちらの顔を見て警戒するだけで、逃げなかった。この怒りは誰に投げつけて良いのかわからなかった。

 縁側がある奥間に入ると、泥棒が入ったと、すぐさまわかった。座敷テーブルの上に、和タンスの引き出しが互い違いに、丁寧に積み重ねられていた。洋服ダンスの手提げ金庫も消えていた。お金はわずかで、実印や権利書が入っていた。
 被害額は少ないが、泥棒に入られたこと自体が悔しかった。警察に被害届を出しても、放射能汚染の町では捜査などしてくれないだろう。「次の間」と呼ぶ和室の引き戸は開けっ放しだ。泥棒も、豚も、ここから出入りしていたのだろう。
 2階の部屋を確認すると、大型テレビまでも消えていた。盗まれた電化製品はきっと海外で使われているだろう。誰が犯人かという思いを持った。

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封印されてきた、フクシマ原発被災地の広野町、楢葉町、富岡町を歩く

 東日本大震災が2013年3月11日に発生した。大地震と大津波の襲来で、沿岸部は壊滅的な被害を受けた。楢葉(ならは)町にはフクシマ第二原発がある。
翌12日の明け方だった。楢葉(ならは)町長が電話で、東電第二原子力発所の責任者に、
「大地震と、大津波で、ひどい状況だが、原発は大丈夫か」
 と問い合わせた。
「こちらの第二原発は大丈夫です。放射能漏れを起こしていません。ただ……」
「どうした?」
「第一原発が大津波の被害を受けて、冷却水の循環が止まっています。原子炉が爆発する危険性があります」
「そんな馬鹿な。原発は安全だとずっと言ってきたじゃないか、何十年も」
「ともかく住民を遠くに避難させてください」
 国からは避難命令など出ていない。

 町長はみずからの判断で全住民に避難命令にだすことに決めた。国や県の指示を差し置いた避難などはまず前例がなかった。他方で、この情報は双葉郡の他の町村にも伝えられた。

「逃げろ。住民を逃げさせろ」
 町役場の職員や消防団員が緊急事態に入り、先を争う怒号が飛んだ。
「どこに逃げさせるんだ。いわき市は避難住民を受け入れてくれるのか」
 そんな打診する余裕など微塵もない。
「今晩から寝るところがあるのか。明日からの食料や水はあるのか」
 今晩や明日を考える余裕などない。
「ともかく西に逃げろ。住民は即時に原発から30キロ以上は西の場所へ、逃げろ。第一原発が爆発したら、楢葉町も危険だ。原発の放射能をかぶってからだと遅いぞ。緊急だ」
「自家用車を持っている人は、ともかく西に逃げて」
 町の防災無線でも、住民に緊急避難を呼びかける。

 楢葉町には大型バスが5台あった。スクールバスなどには、消防団員が車の通路に毛布を敷き、特老(特別老人ホーム)の老人を連れてきて横たえる。
「いわきは大丈夫か」
「ともかく逃げてくれ。この楢葉は危ない」
「原発が大爆発したら、東京も危ないわよ。わたしの実家の関西に行く」
「この大震災で、高速道路もだめだ」
 双葉郡の住民が一目散に逃げた。

 3・11から楢葉町、浪江町、大熊町、富岡町、飯館村、川内村、南相馬市(一部)は、放射能汚染で、町のすべてが2年間にわたり封鎖されてきた。

 この間には住民の「一時帰宅」が認められた。それも放射能対策の防災服に身を包み、時間限定で、我が家に帰るものだ。実印、重要書類、アルバムなど持ち出すていどであった。家屋の雨漏りとか、畳にキノコが生えていたりとか、それら建物の改修などはできなかった。

 2013年4月には警戒区域の見直しが行われた。楢葉町と富岡町の一部が昼間の出入りが自由になった。
 戊申戦争の浜通りを調べる私は4/16に、楢葉町の歴史研究家の宇佐美さんの案内で、、いわき市の久ノ浜、東電の火力発電所がある広野町、第二福島原発がある楢葉町、さらには第一フクシマ原発により近い富岡町へと入っていった。

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3・11岩手・宮城から福島「浜通り」へ

 広島県出身の作家がフクシマ・原発を書かないんですか。そう聞かれたことが何度かある。
 私には「フクシマ原発」は素材が大きすぎて、手におえない、と考えている。手元には作家が書いた「いまこそ私は原発に反対します」と、詩人が書いた「脱原発・自然エネルギー218人詩集」がある。多くの筆者の共著である。
 他人の作品を深読みする、精読すると、影響されるので、さらっと読んだだけで、本箱に並んでいる。多くの作家のように、フクシマ原発に飛びつかなかった。

 私は、東日本大震災の被災地だった岩手・宮城には一年半の取材を行ってきた、小説3・11「海は憎まず」を災害文学として、世に送り出すことができた。今後においても、「災害文学」を世に根づかせたいと考えてる。となると、被災地の福島県は外せない。

「原爆小説」は原爆投下後の庶民の姿を書いている。広島の上空で原爆をさく裂させたアメリカの責任とか、日本の戦争責任とか、そこに筆を運ぶと、文学としては大きすぎるし、庶民一人ひとりの姿を描ききれない。
「フクシマ原発」の東電責任問題は、昭和20年から30年から日本の軍国主義による戦争責任問題によく似ている、と思う。それ自体は文学としては大きすぎる。小説は論調ではなく、庶民をどう描くかだ。だから、私は避けてきた面がある。

 そうだ。「フクシマ原発」でなく、「福島・浜通り」の取材をしよう。そう考えた。
 それは戊辰戦争「浜通りの戦い」の兵士の望郷感と、原発事故で故郷・浜通りに帰れずにいる現代の庶民と重ね合わせるものだ。

 1月から、いわき市、浪江町(二本松に避難)、楢葉町(会津美里町)、双葉町(埼玉県・加須)と取材に入った。各教育委員会の歴史関係の方が中心だった。
 この間において、福島県浜通りの地形は知らないので、小説を書くには難があるな、壁が高いな、と考え続けてきた。どうしたら、現地を見ることができるのかな。

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破れた横断幕「がんばろう東北」=埼玉・加須市

 加須市の騎西(きさい)高校まで、遠かった。電車で向かうには交通の便が悪かった、というべきだろう。
 JR鴻巣駅からバスが1時間に1~2本だった。車の免許を持っていれば、住まいの葛飾から1時間ていどで到着できる距離だ。同駅前からバスに乗り込むまで、2時間半は要している。さらに、ここからバスは20ぐらい先のバス停・騎西1丁目へと向かう。
 車窓には、田園の風景が広がった。
 私は頭のなかで、一度にあれこれ考えるタイプだから、一つ物事に神経が集中しない。もし自ら車を運転していれば、遠い昔に交通事故死していただろう。あの世では、こうした福島・浜通りの取材活動も、小説の執筆もできない。

 電車の不便さを感じる私は、自分にそう言い聞かせながら、最寄のバス停に降りた。そこからも廃校になった騎西高校まで、徒歩で1キロ先にある。

 3・11大震災から2年経った。福島県・双葉町の町役場や住人が、騎西高校で避難生活をしている。東日本大震災で、住民がいまなお避難所生活をするのは、ここだけだとも聞いている。(他は仮設住宅に移っている)

 同教育委員会の吉野学芸員から、電話で、バス停からの道順を聞いていた。山で鍛えた脚だから、徒歩は苦痛ではない。3月26日ともなると、民家の庭先の桜は満開だ。それを横目で見ながら、同校に向かった。
 高校の広い敷地を取り囲むフェンスには、破れた横断幕『がんばろう東北』が掲げられていた。それが目に飛び込んできた。
「日本人はとくに熱しやすく、冷めやすいし……。ボランティアは風化しやすいからな」
 私は立ち止まり、そんな想いで凝視した。東北へボランティアに行ったと語る人は多い。一過性の同情だけの行動なのに、いまなお自慢げに語る。あるいは、3・11は飽きたよ、と話す顔などが重なり合った。

 フクシマ・東電原発事故はどのように収束するのか。まだ確固たる見通しはない。住民の不安、望郷の気持は推し量ることができない。
 一時帰宅がくりかえされた後、どういう展開になるのか。破れた横断幕を見る、住民の心境はどんなものなのか。

 災害文学の小説3・11『海は憎まず』の第2弾は、福島・浜通りを舞台にした、テーマ『望郷』である。歴史小説と現代小説をオーバーラップさせるものだ。ジャンルが違うだけに、小説の技法としては高度だけど、チャレンジする。

 戊辰戦争で芸州(広島)藩が猛烈に浜通りから仙台に向かう。相馬藩・伊達仙台藩を落とすために突っ込んでいった。他藩は王政復古の義理で戦うし、不利となれば、すぐに逃げる。
 芸州藩だけは多くの戦死者を出しても、やみくもに戦っている。なぜなのか。それでいて幕末史から消えていく。
 歴史小説はある程度、事実で近いところで書く必要がある。広島市は原爆投下で歴史的資料も殆んどない。フクシマ原発で、浜通りは立ち入りが出来ず、現地調査はできない。双方にはとてつもない高い壁がある。取材の難易度が高いだけに、やりがいを感じている。

 いまは福島側の歴史家から、芸州藩の戦いの詳細とか、兵士の望郷の念とか、言い伝えとか、資料とか、こうした小説の素材を求めているさなかである。1月からはいわき市、浪江町(二本松)、楢葉町(会津美里町)へと出向き、そして双葉町(加須市)へと足を運んできた。

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えっ、浜通りで戊辰戦争の戦いがあったのですか(下)=楢葉町

 芸州藩・神機隊の砲隊長・高間省三は20歳だった。「浜通りの戦い」の、高瀬川の攻防で、正面から自ら斬り込んで、顔面に銃弾を受けて戦死した。
 芸州藩は、有能なエリートだった、かれの非業の死に対して悲しんだ。

 この人物を特に描きたい、と私は考えた。

 浅野家・広島藩主父子は、高間省三の死に対し、父親に個人感状を授与し、50石の加増をおこなった。戊辰戦争の従軍藩士の生死を問わず、最高の行賞である。
 そればかりではない。広島護国神社は明治元年の創建で、高間省三たち戦没者を祀ったのが始まりである。現在は正月三が日の初もうでは60万人を超える、中国地方最大で、宮島・厳島神社よりも多い。満20歳にして逝った高間省三が同社で最高の英霊になっている。第2次大戦の広島陸軍・呉海軍の将官クラスの戦死者よりも高いのだ。

「芸州藩はなぜ相馬藩・仙台藩の連合部隊とし烈に戦ったのか」。私には、その理由つかめてきた。鳥羽伏見の戦いにあった。
 小説化するにはもっと多くの資料がほしい。
 広島在住の戊辰戦争・研究者である尾川健さんとは面識があるので、4月14日に会い、さらなる情報収集を行う。

 楢葉町教育委員会で、学芸員の宇佐美さんからは3月18日に、フクシマ・浜通りの諸々の資料の説明を受けた。さらに双葉町、南相馬市の研究者たちを紹介してもらった。後日、アポを取り、訪問する予定だ。

「現在の望郷感も取材したいので、どなたかご紹介していただけますか」
 と宇佐美さんに申し出た。
 翌19日は仮設住宅にすむ楢葉町の住人、会津美里町のボランティア・センター、楢葉町社会福祉協議会の人たちから、大震災発生時から現況まで2年間に渡る、さまざまな話を聞く機会が得られた。

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えっ、浜通りで戊辰戦争の戦いがあったのですか(上)=楢葉町

 会津盆地の雪がとけた。
 3月18、19日の両日には福島県・会津美里町に足を運んだ。町の一角には、建設会社の元オフィスを借り上げた、楢葉町の仮庁舎がある。同町は、3・11東日本大震災後のフクシマ原発事故から、行政や住民がこぞって避難を余儀なくされている。


 同教育委員会の歴史専門の宇佐美学芸員を訪ねた。

 芸州(広島)藩は戊辰戦争(1868年)で、仙台藩・相馬藩を相手にした、し烈な戦闘を行った。この『浜通りの戦い』で、多くの犠牲者を出した。戦場は平野、楢葉町、双葉町、浪江町、そして相馬(駒ヶ嶺)という浜通りである。まさにフクシマ第一原子力発電所の被災地である。

 当初、2月に訪問予定だった。仮庁舎の会津美里町の積雪量は半端でないらしく、3月に延期してもらった。この間に、宇佐美さんは一時帰宅を利用し、「フクシマ原発」で役所機能をなくした、無人の楢葉町役場から、芸州(広島)藩・神機隊(しんきたい)の関連資料を運びだし、用意してくれていた。
 双葉郡の大熊町、広野など各町史や資料などから、「浜通り」戦いの諸々を説明してくれた。ありがたかった。

 私は、小説3・11「海は憎まず」の執筆が終わった年末から、『災害文学』の先駆になるためには、フクシマを書くべきではないか、と考えはじめていた。ただ、ジャーナリストの「フクシマ原発」報道から、小説を描くことは本意でないし、そんな手法で書きたくなかった。どこまでも、自らの取材で書く。それが小説家としての信念だった。
 数多くの作家がフクシマ原発に絡んで筆をとっているし、その人たちに任せておけばよい、とも考えてきた。

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人間って、本当に核をコントロールできるの。広島を歩き考える

3・11の小説を脱稿し、著者校正も終わった。あとは出版日を待つだけだ。2月末に広島へ行った。そして、原爆ドームに足を運んだ。ここは過去から何度きたことだろう。
若者たちが、原爆ドームの側で仲よくしている。
「平和って、好いな」
これこそが、真の平和だろう。未来や将来を感じさせてくれる。



「原爆ドームや宮島」が世界遺産になったことから、広島市内には外国人が多くなった。肌の色から欧米人、ことばに耳を傾けていると、アジア諸国、と世界中から広島に来ている。

外国人が広島を訪ね、原爆の悲惨さを知り、それを母国に持ち帰っていく。これ自体が核戦争の抑止力になると思うと、うれしくなる。

広島駅前から市電が出ている。全国でも、最も市電が発達している都市だろう。

行き先の一つに「宇品港」がある。第二次世界大戦で、宇品港からの「出征」の見送りが毎日あった。親族の見送りに思いを馳せる人は、もはや85歳以上の人たちだ。

日本は明治時代の日清戦争から中国大陸へ侵略してきた。それら出征兵士たちが日本から軍用船に乗る港が、広島湾の宇品港だった。

1945年には、広島に原爆が投下された。そして、戦争が終結した。
広島がなぜ投下の候補地になったのだろうか。諸説あるが、海軍の巨大な軍港だった呉でなく、陸軍師団があった広島となったのは、兵士を送り出す宇品港があったことも大きな要因だろう、と私は推測している。

原爆ドームの側には太田川が流れている。静かな流れだ。

この両岸には原爆投下後にバラックが建ち並び、家々を失った被災者たちが住んでいた。白血病で苦しみ、明日の命も覚束ない日々を過ごす。

髪の毛が抜けて、血を吐いて、確実に死ぬ。それを予知している人々だ。

幼い私の目には、気色が悪くて、怖い場所だった。それが広島風景の原体験の一つとして心に焼き付いている。



広島で修学旅行の生徒たちを見ると、妙にほっとする。

中高校の教師たちは、原爆・核兵器の怖さをしっかり教育のなかに折り込んでくれているのだな、と感謝の気持ちにもなる。

思想は若いうちに固まる。学校教育の場で、考え方や信念が生まれる度合いが強い。それだけに、全世界のハイスクールの生徒には、いちどは広島に来てもらいたいと思う。
とくに核保有国や核実験を行う国の若者には広島に来てもらいたい。

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戊辰戦争の「浜通りの戦い」を歩く②=いわき市末次

 戊辰戦争の芸州(広島)藩が、福島県の浜通りのどこに陣を構えたのか。どんな戦いをしたのか。約150年経った今となると、生存者はいない。確たる目撃者はゼロだが、曾祖父母あたりからの伝承は、口承は残っているはずだ。
 
 学者と作家は史観が違ってくる。

 歴史学者は書簡や手紙など「紙に書かれた物」を史料だ、事実だ、とする傾向が強い。口承、伝承などは不確実なものとして認めたがらない。つまり、史料がないと事実の確定に及ばず、文献として出版しない。

 作家は、「人間なんて、自分に不都合なことは手紙に書かない。日記すら飾って、自分の都合よく書くもの」という人間心理の認識がある。フィクション小説などの書き手などは、それがよく解っているし、文字に書かれたものを金科玉条、鵜(う)呑みなどしない。
 伝承とか、言い伝えとか、わずかな手がかりから推察し、事実に迫っていく。そして、作品化する。

 作家は推量からでも描ける、わずかな手掛かりを求めて取材していく。あとは想像力で補う。歴史学者は想像では書かない。この点が大きく違う。

 いわき市小名浜で、101歳の高齢の老人が、戊辰戦争のことは祖父から聞いて知っている、という情報を得た。すぐさま連絡を取った。「99歳まで、爺ちゃんは畑仕事もしていたし、耳も、口も達者だったんですがね。フクシマ原発で、住まいを追われて、小名浜に避難してきて、家のなかに閉じこもった状態になったんです。途端に、寝たきりで、一気にボケがきてしまいました」と家人から聞かされた。

 その縁戚にあたる77歳の男性が、いわき市末次に健在だった。代々、庄屋で屋号は『仲(なか)』だった。そこを訪ねた。
「わが家には入母屋(いりもや)風の客殿があったのです。茅葺で、柱は朱塗りで豪華な建物でした。むかしは小名浜の代官が村に巡視にきたときの寝泊まり所で、家人も一般人も泊れない、格式ある、頑丈な造りのりっぱな客殿があったのです。私の代まで、その建物が残っていました。いまは取り壊しましたけれど」 
 その写真を入手できた。

 私の持参した芸州藩の『神機隊』の陣立ての絵図が、ちょうど末次だった。神機隊の幹部が泊ったのが、この『仲』の客殿だと推量できた。

 77歳の主から、可能な限り当時の情報を引きだしたい、と取材に踏み込んだ。

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小説取材ノート(39)いわき市=警察犬の捜索

 東日本大震災が発生した2011年3月11日から約1年10か月が経った。各被災地ではなおも行方不明者が大勢いる。捜索活動は、メディアで取り上げられる機会など殆どないけれど、地道に展開されているようだ。

 1月14日、福島・いわき市の新舞子で、警察犬のシェパードを使った捜索を行う男性(46)に出会った。『茨城県警察嘱託警察犬』のIDカードをつけている。民間人だが、警察の依頼を受けた活動である。
 遺体捜索の警察犬による捜索活動は、彼を含めて茨城県で4人だけだと教えてくれた。3.11大震災の発生後から、岩手県・宮古、宮城県・南三陸町など東日本沿岸部に入り活動してきたと話す。

こんかいは福島県警から茨城県警に要請があり、彼はいわき市の沿岸部で遺体捜索活動を行っている。場所を問えば、大津波が襲来した全域だという。

 いわき市内の登間、久ノ浜、薄磯の3か所は、大津波による全滅の集落である。被災地を訪ねると、すでに家屋の解体、ガレキの撤去は完了し、建物の土台しか残っていない。と同時に、雑草が深く茂っている。人の姿はないが、交通止めはない。

「歳月が立てば、遺体は白骨化してくると思うけど、シェパードは臭気を嗅ぐことができるの」
 私は『茨城県警察嘱託警察犬』の彼に質問をむけた。
「骨になっても、多少なりとも肉片があるから、警察犬の臭気は可能です」
 遺族は遺体を待ち望んでいるし、一人でも多く探して、安眠させてあげたい。最近では、テトラポットから遺体が見つかったという。

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小説取材ノート(37)「浜通り」=戊辰戦争とフクシマ原発

 3・11の小説取材で、三陸沿岸地方の取材を開始したのが、2011年の11月からで、最初の訪問先は宮城県・閖上だった。その後は大船渡、陸前高田、気仙沼、気仙沼大島、南三陸町、女川などの被災地を回り取材した。
数多くの被災者や関係者から、長編小説が十二分に書けるだけの取材協力が得られた。まる1年が経った今、350枚(400字詰め)の作品を書き上げた。

 3・11の小説取材はこれで終わりでない。これまでの取材先を長くフォローし、被災後の推移を追う。それは当然だが、釜石から宮古とか、東松島など訪ねたことがない、そうした先にも出向いてみたい、と考えていた。

                               上空写真提供:在日米軍


 一方で、私は幕末芸州(広島)藩の取材を4、5年間にわたり続けてきている。その都度、浅野家(藩主)の関連資料は「原爆でなくなった」という壁に突き当たっている。それでも、あきらめず、折々に広島を訪ねている。
 幕長戦争(長州征伐)、大政奉還・鳥羽伏見の戦いまで。その先の戊辰戦争の資料は入手できているが、「蚊帳の外」に置いていた。
 奥州列藩の最強だった伊達・仙台藩を打ち破り、降伏させた芸州藩は後世の歴史家や歴史小説家は取り上げない。会津陥落の陰で、芸州藩は評価されていない。私の関心もそのていどだった。広島を歩けば、戊辰戦争と芸州藩の関連資料はごく自然に集まるし、私なりに豊富に持っているが、書棚に眠っていた。

 一昨年、幕末史の講演依頼から、会津城の陥落(開城)関係で現地取材した。それでも、私自身は他の戦いに関心が及んでいなかった。

 2013年度の取材計画を考えるうちに、
「まてよ。戊辰戦争で、芸州の神機隊(長州の奇兵隊に類似した戦闘部隊)が、瀬戸内から軍艦で来て、いわき平に上陸し、浜通り(福島県)を北上し、相馬藩、仙台藩とし烈な戦いをおこなった。東電福島第一原発あたりではないだろうか?」

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