A030-登山家

富山藩士の富士登山 = 上村信太郎

 江戸時代中期の享和3年(1803)、加賀・大聖寺藩主の命により、富士参詣をした家来である笠間亨が記した日記が残されている。『享和三年癸亥日録』という題名で一般には「笠間日記」の名で知られており、そのなかに富士登山の記録が含まれている。


  大聖寺藩は、現在の石川県加賀市にあった藩で、加賀百万石、前田利家の四男で加賀金沢藩主の利常が隠居に際して三男利治に分封。加賀藩の支藩(7万石)となったという経緯がある。また、大聖寺という地名は『日本百名山』の著者深田久弥の出身地でもある。

 笠間亨は明和5年(1768)に儒学者那古屋一学の次男として生まれ、16歳のときに笠間平馬の養子になる。元服後は小姓、近習、表御用人等を歴任した。享和元年から江戸詰。この間に富士代参を果たす。

 では、徳川家斉将軍(第11代)の頃の富士登山がどんなだったのか「笠間日記」を見てみよう。6月10日に藩主から富士山御代参を命じられる。同行者は藩士の大野文八。出発前に武州小仏の関所を通る通行手形を用意している。
 江戸出発は6月16日(旧暦)。内藤新宿、八王子を経て三日後、吉田村に着いて田辺次郎右衛門の宿に泊る。この人物は富士講の元祖食行身禄入定のときに最後まで付き添った御師田辺十郎右衛門の子孫という。


 20日、登山準備(300文で案内人を一人雇い、予備のワラジ・食料の餅など用意)をして出発。浅間神社裏口まで田辺次郎右衛門が見送る。中の茶屋を過ぎ、馬返しで馬を乗捨てる。道中、いくつも堂がありそこを通るようになっている。これは「銭ヲ貪ルタメナリ」と感想を記している。二合目で金剛杖を買う。夕立あり蓑を着用。五合目の茶屋で休む。右方に小御岳石尊大権現の鳥居がある。七合目に身禄の堂があった。

 八合目の石室に泊る。室は4軒、「八合目迄吉田領也、是ヨリ上ハ須走領也」と記す。
御師に借りた綿入れなど4枚着るがまだ寒い。宿賃3人分、飯、汁、粥、布団などで2朱。


 21日、晴天。朝はくもり、後から陽も射す。絶頂へは薬師ケ岳(久須志岳)に出る。一行は、富士浅間宮の御内陣であるお鉢を巡る。途中で火口の中を覗き、幸運にもブロッケン現象を目撃している。また、山頂からは西方に、吉原の裾野、久能山、三保ノ松原が鮮明に見え、八ケ岳、箱根、江戸ノ海(東京湾)、相州大山、安房、江ノ島もよく見えた。

 金明水を経て吉田口の下山口に戻り、はいたワラジの上から吉田から持参した大ワラジを着けて須走りコースを走り下りる。須走りでは「桔梗屋」に泊まる。そして前夜から「山気ニ酔イタリトミエテ、食事成リカヌル。」とあるから、どうやら軽い高山病に罹ってしまったようだ。

 御殿場からは乙女峠を越え、東海道に出て、江戸に戻ったのは28日。翌日、藩主に登山報告をしている。


 なお、亨は同年4月にも江ノ島・鎌倉を藩主の代理で参詣している。『大聖寺藩士由緒帳』によれば、亨は富士代参から5年後に江戸で病死している。享年41歳だった。


                      文・上村信太郎


『関連情報』

 上村信太郎 : 日本山岳会、日本ペンクラブの会員

  ハイキング・サークル「すにいかあ倶楽部」会報№174から転載

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