A055-フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

封印されてきた、フクシマ原発被災地の広野町、楢葉町、富岡町を歩く

 東日本大震災が2013年3月11日に発生した。大地震と大津波の襲来で、沿岸部は壊滅的な被害を受けた。楢葉(ならは)町にはフクシマ第二原発がある。
翌12日の明け方だった。楢葉(ならは)町長が電話で、東電第二原子力発所の責任者に、
「大地震と、大津波で、ひどい状況だが、原発は大丈夫か」
 と問い合わせた。
「こちらの第二原発は大丈夫です。放射能漏れを起こしていません。ただ……」
「どうした?」
「第一原発が大津波の被害を受けて、冷却水の循環が止まっています。原子炉が爆発する危険性があります」
「そんな馬鹿な。原発は安全だとずっと言ってきたじゃないか、何十年も」
「ともかく住民を遠くに避難させてください」
 国からは避難命令など出ていない。

 町長はみずからの判断で全住民に避難命令にだすことに決めた。国や県の指示を差し置いた避難などはまず前例がなかった。他方で、この情報は双葉郡の他の町村にも伝えられた。

「逃げろ。住民を逃げさせろ」
 町役場の職員や消防団員が緊急事態に入り、先を争う怒号が飛んだ。
「どこに逃げさせるんだ。いわき市は避難住民を受け入れてくれるのか」
 そんな打診する余裕など微塵もない。
「今晩から寝るところがあるのか。明日からの食料や水はあるのか」
 今晩や明日を考える余裕などない。
「ともかく西に逃げろ。住民は即時に原発から30キロ以上は西の場所へ、逃げろ。第一原発が爆発したら、楢葉町も危険だ。原発の放射能をかぶってからだと遅いぞ。緊急だ」
「自家用車を持っている人は、ともかく西に逃げて」
 町の防災無線でも、住民に緊急避難を呼びかける。

 楢葉町には大型バスが5台あった。スクールバスなどには、消防団員が車の通路に毛布を敷き、特老(特別老人ホーム)の老人を連れてきて横たえる。
「いわきは大丈夫か」
「ともかく逃げてくれ。この楢葉は危ない」
「原発が大爆発したら、東京も危ないわよ。わたしの実家の関西に行く」
「この大震災で、高速道路もだめだ」
 双葉郡の住民が一目散に逃げた。

 3・11から楢葉町、浪江町、大熊町、富岡町、飯館村、川内村、南相馬市(一部)は、放射能汚染で、町のすべてが2年間にわたり封鎖されてきた。

 この間には住民の「一時帰宅」が認められた。それも放射能対策の防災服に身を包み、時間限定で、我が家に帰るものだ。実印、重要書類、アルバムなど持ち出すていどであった。家屋の雨漏りとか、畳にキノコが生えていたりとか、それら建物の改修などはできなかった。

 2013年4月には警戒区域の見直しが行われた。楢葉町と富岡町の一部が昼間の出入りが自由になった。
 戊申戦争の浜通りを調べる私は4/16に、楢葉町の歴史研究家の宇佐美さんの案内で、、いわき市の久ノ浜、東電の火力発電所がある広野町、第二福島原発がある楢葉町、さらには第一フクシマ原発により近い富岡町へと入っていった。

 4号国道を進む。放射能の除染関係者の車や作業員たちを見かけるていどだった。広野町から、楢葉町に入った。津波の被害を受けた沿岸部は、あらかたガレキの処理が終わり、雑草が一面に茂っている。私は従前を知らないだけに、たんなる荒野かと思うほどだった。

 津波をかぶらなかった町なかは、整然とした町だった。大地震で損傷がある家、さほど傷んでいない家とばらつきがある。警察署、役場、道の駅など頑丈な建物は無傷で残っている。
 どの建物にも、誰一人住んでいない。路地に入っても、住民の姿は皆無だ。車も通行人もいない。放射能の史跡の「町並み保存」の情景のようだった。
 それは不気味な深閑とした、異次元の世界にも思えた。


 楢葉町には当然ながら、飲食店はない。あらかじめ昼食用にと、広野町のコンビニで弁当を購入してきていた。食べる場所を探したが、無人の家や敷地に入り込めない。そこで楢葉役場のロビーを借りることになった。
 建物のなかは閑散としていた。ただ、住民課の女性2人(交代制)だけが詰めていた。昼食の場所提供を申し出ると、どうぞ、どうぞ、と愛そうよく応じてくれた。

 東電の従業員の男性が、長テーブルに2種類の線量計を並べ、無料の貸し出しを行っていた。
「きょうはどのくらい借りに来ましたか」
 そう質問してみた。
「ゼロです」
「仕事とはいえ、相手がゼロだとつらいですね」
 そういうと、男性は苦笑していた。 

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