A055-フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

人間って、本当に核をコントロールできるの。広島を歩き考える

3・11の小説を脱稿し、著者校正も終わった。あとは出版日を待つだけだ。2月末に広島へ行った。そして、原爆ドームに足を運んだ。ここは過去から何度きたことだろう。
若者たちが、原爆ドームの側で仲よくしている。
「平和って、好いな」
これこそが、真の平和だろう。未来や将来を感じさせてくれる。



「原爆ドームや宮島」が世界遺産になったことから、広島市内には外国人が多くなった。肌の色から欧米人、ことばに耳を傾けていると、アジア諸国、と世界中から広島に来ている。

外国人が広島を訪ね、原爆の悲惨さを知り、それを母国に持ち帰っていく。これ自体が核戦争の抑止力になると思うと、うれしくなる。

広島駅前から市電が出ている。全国でも、最も市電が発達している都市だろう。

行き先の一つに「宇品港」がある。第二次世界大戦で、宇品港からの「出征」の見送りが毎日あった。親族の見送りに思いを馳せる人は、もはや85歳以上の人たちだ。

日本は明治時代の日清戦争から中国大陸へ侵略してきた。それら出征兵士たちが日本から軍用船に乗る港が、広島湾の宇品港だった。

1945年には、広島に原爆が投下された。そして、戦争が終結した。
広島がなぜ投下の候補地になったのだろうか。諸説あるが、海軍の巨大な軍港だった呉でなく、陸軍師団があった広島となったのは、兵士を送り出す宇品港があったことも大きな要因だろう、と私は推測している。

原爆ドームの側には太田川が流れている。静かな流れだ。

この両岸には原爆投下後にバラックが建ち並び、家々を失った被災者たちが住んでいた。白血病で苦しみ、明日の命も覚束ない日々を過ごす。

髪の毛が抜けて、血を吐いて、確実に死ぬ。それを予知している人々だ。

幼い私の目には、気色が悪くて、怖い場所だった。それが広島風景の原体験の一つとして心に焼き付いている。



広島で修学旅行の生徒たちを見ると、妙にほっとする。

中高校の教師たちは、原爆・核兵器の怖さをしっかり教育のなかに折り込んでくれているのだな、と感謝の気持ちにもなる。

思想は若いうちに固まる。学校教育の場で、考え方や信念が生まれる度合いが強い。それだけに、全世界のハイスクールの生徒には、いちどは広島に来てもらいたいと思う。
とくに核保有国や核実験を行う国の若者には広島に来てもらいたい。


私には、広島=千羽鶴という意識がある。幼い被爆者少女が明日は血を吐いて死ぬ身でありながら、紙で鶴を折り続けて、それが千羽になると、命が助かると信じていた。尽きて、死す。

私の小学生時代には、「平和教育」という科目があった。教師から、そんな悲哀の話を聞かさせていた。

先生たちのほとんどが広島高等師範(現・広島大学)の卒業生だった。なかには肌に白いケロイドが浮かぶ教師もいた。むろん、もうこの世に命はないと思うけれど。

サイクリングスタイルで、広島平和公園に立ち寄る。そんな気楽な立ち寄り方でいいと思う。

いまの日本は、またしてもフクシマ原発の大惨事という核被害をこうむった。放射線物質がどこまで地域的に、歳月的に、人体に影響するのか。学者や関係者たちの意見はバラバラだ。

その実、誰もが放射能の数値を弄ぶだけで、結果はほとんどわかっていない。いまが人体実験のさなかだから。

 広島公園の資料館(写真・前方の建物)には、被災直後の広島の写真、変形した物資、記録が数多くのある。ほとんどの来館者は、気味が悪い、もう観たくないという。
それだからこそ、ここから学び取っているものは多いのだ。

この資料館の展示品から、フクシマ東電の事故を考え、核の怖さとし再認識することも必要だろう、と考える。


なぜならば、事故を起こしたフクシマ原発は、私たちが足を運んで、破壊された施設を直視できないからだ。

災害報道から、読者として頭のなかでフクシマ原発を考えるよりも、広島に来て資料館を見てから、フクシマ問題をとらえたほうが良い。
「人間は核をほんとうにコントロールできるのか」と真に考えたほうが良い。

倫理を失った狂気の政治家が出たら、核兵器はきっと殺戮の巨大な凶器になる。人間が作ったものには、ゼロという数値はない。核戦争は起こり得るのではないか。

人間は万能ではない。知的な技術者にもミスがある。原発事故がふたたび起きるのではないか。

「広島・原爆」を風化させない。後世に、この事実を伝えたいと、原爆遺産を残してくれた、被災者たちに感謝したい。

「悲惨な現実を想い起すから、ドームなど取り壊せ」という声も大きかったはず。一方で、惨事を伝えないと、人間はふたたび過ちをくり返す、と言い、原爆ドームを遺した。それが核戦争の抑止力となり、1945年以降には核戦争は起きていない。


私は、3・11大津波の群像を小説で書き残すため、そして「災害文学」を立ち上げるためにも、一年余り、毎月、現地に入って取材活動をしてきた。

取材中で、最も嫌な言葉に、「被災者の心情を思って」という考え方の発言だ。それが水戸黄門の印籠になっている。なんでも、被災者の心情だ。故意に、悪用している面もあった。

大津波で象徴的になった破壊された建物、ビルの上に乗った船舶などが、次々に取り壊されていく。どんどん消えていく。「目で見て、大津波の教訓を得る」。これは最も重要なことなのに、そんな議論よりも、「被災者の心情を思って」と取り壊される。その実、復興予算(取り壊し土建費)欲しさだ。


津波の被災希望を象徴するものは、どこに行っても、ほとんど無くなっている。

それに並行して住人は「海辺に住む怖さ」をしだいに忘れかけている。大津波の被害規模など、どこ吹く風で、ホテルや商店が海岸に建ち並びはじめている。

3・11被災地にも、広島・原爆ドーム遺産の思想が欲しかったな、と思う。当時の広島は同市議会の決議で決まった。

3・11被災地の市町村の各議会には、「被災者にはいま心情的に厳しくても、目で見る大津波の教訓を遺すべきだ」とつよく推し進める人材がいなかったのか。そんな思想の持ち主をなぜ輩出できなかったのか。逃げ口上だろう、象徴にもならない微細な建物ばかり遺している。残念だ。


誰もが祈る、慰霊碑の石碑をじっと読む。
『安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから』と刻まれている。

被爆者の広島人が、「過ちは 繰返しませぬから」としたところに、深い意味がある。

当時のアメリカは、「原爆で早く戦争を終結し、平和を取り戻すために使った」と主張した。大勢を一度に殺戮した。

日本のフクシマ原発は「平和利用で、安全でクリーンなエネルギーです」と主張した。大勢を一度に放射能で住めない故郷にした。

「過ちは 繰返しませぬから」。この視点から、もう一度核を考えようよ。


広島城址には、被爆した老木がある。当時は若木だったのだろう。生命の逞しさと考えるべきか、痛々しさとして考えるべきか。


原爆で広島城は焼失した。復元し、ライトアップしても、どこか居心地が悪そうな天守閣である。


「人間って、ほんとうに核をコントロールできるの」。広島に来て、もういちど核を考えようよ。

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