A055-フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

えっ、浜通りで戊辰戦争の戦いがあったのですか(下)=楢葉町

 芸州藩・神機隊の砲隊長・高間省三は20歳だった。「浜通りの戦い」の、高瀬川の攻防で、正面から自ら斬り込んで、顔面に銃弾を受けて戦死した。
 芸州藩は、有能なエリートだった、かれの非業の死に対して悲しんだ。

 この人物を特に描きたい、と私は考えた。

 浅野家・広島藩主父子は、高間省三の死に対し、父親に個人感状を授与し、50石の加増をおこなった。戊辰戦争の従軍藩士の生死を問わず、最高の行賞である。
 そればかりではない。広島護国神社は明治元年の創建で、高間省三たち戦没者を祀ったのが始まりである。現在は正月三が日の初もうでは60万人を超える、中国地方最大で、宮島・厳島神社よりも多い。満20歳にして逝った高間省三が同社で最高の英霊になっている。第2次大戦の広島陸軍・呉海軍の将官クラスの戦死者よりも高いのだ。

「芸州藩はなぜ相馬藩・仙台藩の連合部隊とし烈に戦ったのか」。私には、その理由つかめてきた。鳥羽伏見の戦いにあった。
 小説化するにはもっと多くの資料がほしい。
 広島在住の戊辰戦争・研究者である尾川健さんとは面識があるので、4月14日に会い、さらなる情報収集を行う。

 楢葉町教育委員会で、学芸員の宇佐美さんからは3月18日に、フクシマ・浜通りの諸々の資料の説明を受けた。さらに双葉町、南相馬市の研究者たちを紹介してもらった。後日、アポを取り、訪問する予定だ。

「現在の望郷感も取材したいので、どなたかご紹介していただけますか」
 と宇佐美さんに申し出た。
 翌19日は仮設住宅にすむ楢葉町の住人、会津美里町のボランティア・センター、楢葉町社会福祉協議会の人たちから、大震災発生時から現況まで2年間に渡る、さまざまな話を聞く機会が得られた。

 他方で、戊辰戦争「浜通りの戦い」を知っていますか、と訊いてみた。ほとんどが「えっ、浜通りで戊辰戦争の戦いがあったのですか」という答えだった。これにはびっくりした。

 2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で盛り上がる会津だ。その会津盆地の真ん中で、福島県人がおなじ戊辰戦争の「浜通り」の戦いをまったく知らないのだ。訊けば、会津落城(開城)と白虎隊、白河・二本松の戦いなどはだれもが知っている。

「会津陥落ばかりが(一部は観光目的で)強調されているけど、東北の雄である伊達・仙台藩を陥落させずして、官軍の平定はあり得なかったんですよ」
「言われてみると、そうですね」
「これは私見ですが」
 と前置きした。

 会津藩は火縄銃と鎧兜(個々人)で戦う。上下の封建思想が強くて、二百数十年来の家老職が采配を振るう。だから、農兵すら使わず、刀と槍で戦おうとした。
 官軍がわの多くの藩は、有能な人材が身分を越えて登用されているし、ライフルと軍隊組織で戦う。

 会津藩戦法の弱点は、すでに鳥羽伏見の戦いで結果が出ていた。会津兵は数こそ多かったが、西洋式軍隊を前にして、蹴散らされていた。そのうえ、藩主の松平容保は兵士を見捨てて、こそこそ大阪から逃げ帰っている。
 こんな弱腰で卑怯なトップ(養子できた藩主)では「士は己を知るもの為に死す」と、藩は玉砕で一本にはまとまらない。官軍の勝算は戦う前からわかっていたのだ。

 官軍は会津盆地の峠の一か所を破り、城下に入った。会津藩はろう城しても、兵糧攻めすれば、玉砕の戦意もないし、ギブアップするだろう、と見込み、「ここに及んで敵兵は殺さない」と大砲すら1日1回で、天守閣に向けてしか撃たなかったのだ。
 
 しかし、仙台藩は近代兵器を購入し、西洋式の訓練をする部隊を持っていた。「相馬・仙台藩の連合は大砲やライフルを持って官軍と浜通りで戦ったのですよ」

 官軍は先立つこと、品川から船できて平潟に上陸し、岩城平城(いわき市)を落とした。そして白河・二本松から会津へ、浜通りから仙台へと、兵力を二分していた。

 そのために、浜通りの戦いの主力となった芸州藩は、官軍の兵力不足から、厳しい戦いを強いられたのだ。砲隊長の高間省三すら戦死した。なおも、し烈な戦が続いた。やがて、官軍の援軍が増えてきて相馬藩を落とし、仙台藩を撃ち破ったのだ。

「浜通りの戦いなんて、聞かされたこともなかった」
 60歳代の男性から30歳代の女性まで、年齢を問わず、だれもがそう答えた。
「まぎれもない歴史的な事実です」
 忘れ去られた歴史を掘り起こすことは、小説家の妙である。執筆への気持ちが一段と高まった。


「穂高健一ワールド」の3・11(小説)取材ノートで、「浜通り」の現地取材を随時紹介し、内容を厚くしていきたい。

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