A055-フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

えっ? 福島第一原発が写っていた=こんな近くまで入っていたんだ

 6月2日の夜に、福島・浪江町の郷土史家である末永福男さんから、「からだが幾分回復しましたから、高瀬川の古戦場に案内します。許可の都合上、日時を決めたいのですが」と電話が入ってきた。幕末歴史小説の協力者である。

 ことし4月上旬の撮影予定の前日になって、末永さんが体調不良から浪江に入れなかった。それには理由があった。

 さかのぼること2011年3月11日、末永さんは浪江町の奥まった山間の陶芸小屋にいて、第一原発事故から町民全避難を呼びかける有線放送が聞こえず、放射線量の最も高い数値が出たところ(山間は放射能が溜まりやすい)に4-5日も滞在していたのだ。

 自宅に帰るとだれもおらず、わずかな情報から、3月の雪深い二本松市内の体育館にたどり着いた。避難所で頭髪など四肢に放射能測定器をあてると、その針が振り切れたという。その後、夫婦して体調を崩されている、と昨年来の取材で知っていた。

「幕末歴史小説は4月が最終校了でしたから、独自に飯館村、南相馬を経由して、国道4号線の行けるところまで入ってきました。体調が悪い末永さんに、無理押しもできませんでしたから」
 それは古戦場を遠望するだけであった。謝意を表しながらも、単行本はもはや印刷所に入っていますと事情を説明した。

 秋口には末永さんを再訪する。放射能汚染と浪江町民のヒアリングに、ご協力をしてもらえませんか、と要望した。快諾してくれた。


 「海は憎まず」を世に出した後、私はフクシマに入った。「望郷」をテーマにして、戊辰戦争の戦死者と、帰郷できない原発難民を小説に書こう、と思い取材活動をはじめたのだ。
 出版社側と話した結果、「芸州藩からの幕末歴史小説」と「現代小説・フクシマ」(仮題)とは切り離すことになった。

 この段階で、私は現代小説のほうは9年かけて書こうと決めた。「誰がために鐘は鳴る」はスペイン内乱から9年後に出版された。「西部戦線異状なし」は第1次世界大戦から9年後だった。だから、私も「現代小説・フクシマ」は9年後までに出す。この間は腰を据えた取材活動に徹する……。

 歴史小説に没頭していたから、「穂高健一ワールド」(フクシマ取材ノート)にはなかなか手が回らなかった。しかし、取材だけはこまめにしており、ICレコーダーに数々収録している。

 実際に、広野町の総合病院とか、大熊町の体育館にいた茨城大の院生とか、京都市内に避難した牧場主の子息も訪ねるとか、ことし5月には富岡町の仮設住宅に再訪するとか、取材で諸々歩いている。

 歴史小説の執筆が外れたいま、福島原発(フクシマ取材ノート)に書き込みをしようと、フクシマ関連の写真を整理していた。そのなかのひとつ双葉町は、戊辰戦争で戦死した高間省三が眠る、第一原発がある町だ。
 昨年11月半ばには、町から特別許可をもらい、双葉町の自性院を訪ねた。車中から丘陵に送電線が群がっている光景を撮影した。記憶に残っていた写真を取りだし、(フクシマ取材ノート)に掲載した。改めて、じっくり見ると、3枚の写真が「第一原発の塔」をとらえていた。


 自性院から3キロだから、原発が写っていても不思議ではない距離だ。だが、「遠くに来たもんだ」という歌があったが、「ずいぶん近くまで行ったものだな」、私の取材はリアルだな、と思った。

 見分した取材となると、私は「穂高健一ワールド」に出し惜しみせずに書く。負(-)の取材の場合は、取材源の秘密として特定できないように伏せるけれど……。
 作家として人物に焦点をあてた取材だから、なか身が濃くなる。ジャーナリストのような5W1Hの聴き方とはちがう。心象を中心に深く入り込むから、取材時間が長くなる。
 
「こんなにも、HPに出して、もったいなく思いませんか」
 親切心で、そんな声掛けをしてくれる人が多い。
「可(い)いんですよ。私のHPを参考にして、作品に取り入れたり、映像にしたり、報道に使ったりしても。あるいはエッセイの書き方を勉強したり、知識を広げたりすれば」
 と応えている。

 文学仲間の著名作家も取り上げれば、巷の人でも頑張っているな、と思えば紹介してあげる。受講生の作品は上手下手とか関係なく、心から書いているな、と思えば掲載していく。みんなが見てくれる、そんなHPこそ理想だと思っているからだ。

 9年後の小説のためには(フクシマ取材ノート)で記録していく。同コーナーの日付けを見ると、1年ぶりの筆だった。メモや写真はしっかり取っているので、漸次、掲載していく。

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