RCCラジオ・放送 神機隊と上野戦争 = 8月14日(土)
穂高健一の幕末・明治・大正の荒波から学べ!RCCラジオ 神機隊と上野戦争
神機隊は、広島藩庁に320人の脱藩届を出してまでも、自費で奥州戦争にむかった。京都に挙がり、朝廷か「奥州鎮撫使(ちんぶし)応援」の命を受けた。
そして、大阪の湊から奥州にむかう。蒸気船が舵のトラブルから、江戸湾の品川湊に一時寄港した。
かれらは上陸し、浅野家菩提寺の泉岳寺(忠臣蔵で有名)を宿所とした。ちなみに、赤穂浅野家は分家(5万石)で、本家は芸州広島藩浅野家(42万石)である。
4月21日に江戸城は無血開城されました。
かれらが江戸城の総督府に挨拶に行くと、長州藩の大村益次郎は上野戦争の参戦をもとめられた。主力でなくとも、上野山の北側の王子・飛鳥山に陣を張ってほしい、と依頼された。
「長州の大村ごときの頼みで、上野戦争に加担などする必要はない。われわれ神機隊は朝廷から、会津を恭順させよ、と特別命令を受けているのだ。会津に一番乗りするのだ」
五番小隊長の藤田太久蔵(たくぞう)が、帯刀姿で、東叡山とよばれる広大な上野の山に入った。偵察中に、道に迷った。
江戸城が無血開城、江戸は戦火もまぬがれていた。それなのに、新政府軍はなぜ上野戦争を仕掛けたのか。
RCCラジオの放送はここらの疑問にも触れています。
神機隊の秘められたエピソード① = 上野戦争に参戦か、拒絶か
幕末の芸州広島藩といえば、近年、神機隊が知れ渡ってきた。
第二次長州戦争(慶応2年・1866)において、広島藩は非戦をつらぬいたが、幕府軍と長州軍の双方の戦いで、広島藩領の大竹から廿日市の領民らが大惨事をこおむった。
「われら武士は、農民から生活の扶持をもらいながら、民を助けられなかった。民の生命と財産を守れる、精鋭の軍隊を作ろう。軍律は厳しく、秩序を保ち、訓練された部隊だ」
広島藩の学問所のOBたちと、草莽の志士たちが立ち上がり、精鋭部隊の神機隊を結成した。それは慶応3年の夏だった。
薩長芸軍事同盟が結ばれるなど、まさに幕府が瓦解していく動乱期であった。
戦争には後世に伝わるエピソードが残るものだ。
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慶応4年5月の上野戦争では、神機隊の五番小隊長の藤田太久蔵(たくぞう)が敵陣に迷い込んだ。藤田太久蔵小隊長は天性の機智で、巧妙に脱出している。
東叡山寛永寺の輪王寺宮(一説に東武天皇)が、戦火のなかから巧妙に消えた。総督府の大村益次郎から、神機隊には探索が命じられた。しかし、長々と雨が大量に降り続いており、道路は陥没し、輪王寺宮は捜しきれなかった。
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小田原戦争、箱根戦争、飯能戦争などが起きたのだ。
『林昌之助(下総・請西藩の藩主)が箱根に立て籠もり、小田原城を下し、甲府城を取り、奥州賊軍と相応して官軍に抗せんと謀る。神機隊は甲府に派兵せよ』
命じられた甲府における残党狩りに尽くしても、芸州広島藩の名誉回復の戦いなどあり得ない。神機隊のだれもが渋々だった。神機隊の主力部隊が甲府城へとむかった。(後でわかるが、敵兵は誰もいなかった)。
忍城 (埼玉県)
『藝州藩は50人の兵士を武州の忍城(おしじょう)に出張して、同藩を監督できる、「軍監」ひとりを推薦してほしい』と大総督府参謀から、依頼書きた。
忍藩はかつての譜代大名で、徳川幕府の名門だった。ペリー提督の黒船が来航したとき、江戸湾の房総の守りの要だった。
幕府が瓦解しても、藩士らには佐幕派が多く、忍藩はまだ新政府に恭順していない。それゆえに、今後において元幕府軍らと手をむすぶ可能性が高い。
「総督府から、忍藩に恭順を促す詔書をとどける」その役も兼ねていた。同藩を監督できる「軍監」として、小隊長の藤田次郎が選ばれて、忍藩にむかう。途中で、早馬がやってきた。
「もうしわけない。忍藩にとどける詔書のあて名が、川越藩主だった。間違っていた」
「バカバカしい」
神機隊の藤田小隊などは苛立っていた。
総督府から、忍藩が恭順したら、それら忍藩兵を引き連れて、飯能戦争の支援にむかってほしい、という。
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上野戦争の直前に、渋沢誠一郎(喜作、渋沢栄一の従兄弟)は、尾高新五郎(渋沢栄一の妻・千代の兄)らと上野を脱出し、新たに振武軍(しんぶぐん)を組織していた。
敗北した彰義隊の残党を吸収し、振武軍の総勢は約1500人になっていた。慶応4年5月18日に、飯能村(埼玉県)の能仁寺に移り、そこを本陣としていた。
神機隊の小隊長・藤田次郎が忍藩を引きつれて5月23日の夕方に飯能に着けば、昼前に新政府と振武軍の戦争の決着がついていた。
「ここでも、出遅れたか」
神機隊は自費で出兵しながらも、広島藩の強さなど、関東でなにも見せられていない。神機隊の主力部隊はすでに甲府にむかっている。後から追うにしても、小隊長・藤田次郎たちはこの日、越生村(埼玉県・越生町)法恩寺(ほうおんじ)を陣にした。
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振武軍の落ち武者は、いくつかの集団に分かれて逃走している。神機隊は越生の宿泊地の周辺や、黒山三滝あたりの探索をしてほしい、と依頼がきた。
「また、落ち武者狩りか。武勇には関係ない」
藤田たちは不満に満ちていた。
江戸城・総督府の大村益次郎が、広島藩が先に会津に入られると困るので、無駄な役目を与えているのではないか、と疑いはじめた。
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現在、埼玉県の郷土史家において、『飯能戦争といえば、渋沢平九郎』といわれるほど、研究がすすんでいる。
渋沢栄一が、パリ万博へ出席する慶喜の弟・清水昭武の随員としてフランスへ渡航することになった。当時の幕府の規則で、妻の弟・平九郎を渋沢家の見立養子にしていた。
帰国した栄一は、養子の渋沢平九郎が、飯能戦争で死んだとわかった。悲しみ、徹底して調べさせた。それらも起因しているのだろう、現代でも渋沢平九郎の研究者が多い。
剣の達人だった平九郎の死は悲劇として演劇、歌舞伎にもなっている。
取材してみると、広島側の資料と、埼玉側の資料は微妙に違っている。
【埼玉側の資料】
渋沢一族が幹部の振武軍(しんぶぐん)は、飯能戦争で半日で新政府軍に破れた。副将の22歳の渋沢平九郎は仲間とはぐれてしまった。
秩父山地の顔振峠(かあぶりとうげ)にきた。茶屋の老婆から熊谷へ抜ける道をおそわった。
「そんな武士の格好だと危ないだ。大勢の官軍が越生村にいるだぞ」
老婆の話をききいれて、九郎は大刀を茶屋に預けたうえで、変装してから越生への道を下っていく。黒山村(三滝で有名)で、新政府軍(神機隊)の斥候3人に遭遇したのだ。
平九郎は神官だとごまかしたが、神機隊の斥候に見破られた。剣の達人の平九郎は、神機隊の2人を斬る。しかし、銃弾を一発を受けてしまった。
3人の官軍は援軍を呼びに立ち去った。この間に、平九郎が石の上で自刀する。
*
慶応4(1868)年戊辰5月23日、武蔵国比企郡安戸村に、宮崎通泰という医者がいた。より信ぴょう性の高い証言をしている。
官軍(広島藩・神機隊)の要請に応じて、入間郡黒山村に出向いた。そこで、軍士3人の創傷を治療した。
「なぜ、こんな大怪我をしたのか」と宮崎が医師として状況を訊いた。
『澁澤平九郎昌忠戦闘之図』
医師の宮崎が、この絵の下に解説文を添え書きしている。
『かれら3人は官軍・神機隊の斥候で、黒山村(黒山3滝の近く)で、徳川の脱走兵士の一人が変装し、下山している男と出会った。
糾問(きゅうもん)すると、飯能から脱走してきた兵士だとわかった。平九郎は佩(おぶ)るところの(携帯する)刀を抜いた。甲の一人を斬り、振り返って乙の一人を傷つける。
(絵はこの瞬間である)。
また、転じて丙の一人を討った。甲は斃(たお)れた。(死んではいない)。乙と丙は逃げ走り去った。脱走の士は路傍の盤石にうずくまる、屠腹(とふく)(切腹)して死んでいた。
その武勇は歎賞すべしといふ。すなわち、その時の状況を図に表し、また、平九郎の懐中にあった、歌および八時を写し、帰り道で、男衾(おふすま)郡畠山の丸橋一之君に逢う。君之を乞いて、家に蔵し、人に示し、これを話して歎賞す』
十数年が経ったあと、榛沢(はんざわ)郡の斉藤喜平にもおしえると、その脱走兵士は地元の尾高平九郎とわかった。
平九郎は渋沢栄一翁の養子だった。徳川幕府に仕えて、一年にして、戊辰の変に遭遇している。彰義隊に入り、閏四月二十八日に紙障に歌を書いていた。
惜しまるる時ちりてこそ世の中の人も人なれ花も花なれ
いたずらに身はくださじなたらちねの国のために生にしものを
夏日夕陽 渓に臨んで氷を得たり
自刃した平九郎の首が、法恩寺門前の立木に晒(さら)された。
宮崎医師の証言とは別に、越生の旧家からも、さらし首の図が見つかっている。それによると、梟首(きょうしゅ)は越生の法恩寺でなく、徳田屋の脇の立木らしい。
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現代の感覚でみると、「さらし首」は残忍な行為である。平九郎のさらし首にたいする批判の文献は、埼玉県において実に多い。
「恥ずるべき、断じて許せない行為だ」
切腹した副将の屍骸の首を刎(は)ねるとは、言語道断だというものだ。
「名も知らない死を晒すとは、武士道に反する」
晒し首に対する怒りだ。
明治時代に入っても、大久保利通は江藤文平(法務卿・法務大臣)を梟首させている。
第二次世界大戦でも、日本軍は武勲として、敵の大将クラスの首を日本刀で刎(は)ね、公衆の面前に曝(さら)し、敵への警告代わりにしている。
戦争は残忍だし、人間を狂気にする。地元贔屓(ひいき)なのか、ややヒステリックな批判ともいえる。
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渋沢平九郎の亡骸(胴体)は、黒山村の全昌寺(ぜんしょうじ)、頭部は寺僧が法恩寺の林に埋められていた。『脱走(だっそう)のお勇士(ゆうし)さま』として、村人たちが寄り合い涙をながしたという。
渋沢栄一が、平九郎の遺骨を東京・谷中墓地に移し、上野寛永寺で法要をおこなっている。
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芸州広島から自ら意思でやってきた神機隊は、上野戦争を含めて関東の戦いで、さしたる成果もなく、自費の軍費をひたすらムダに浪費しただけである。
上野戦争では輪王寺宮を捜しだせず、忍藩に行っているうちに飯能戦争は終わっていた。甲府に出むけば、敵はひとりもいない。
神機隊の小隊長・藤田次郎の約50人が、陣をはった越生村から斥候たちが、山奥に残党刈りに出ていくと、渋沢平九郎と遭遇する。平九郎は剣の達人だった。隊員が三人が小刀で傷つき、陣から応援部隊が駆けつければ、平九郎はすでに自刃で死んでいた。
神機隊としては、好き好んで殺したわけではない。
渋沢平九郎の「さらし首」の汚名が現代まで、埼玉人たちに怒りで語り継がれているのだ。まさに貧乏くじだろう。
【広島側の資料】
日清戦争の前夜ともいうべきか。明治26年になり、渋沢栄一は大本営があった広島にやってきた。宿泊所したのが、元神機隊員の長沼主悦助が経営する旅館だった。
渋沢栄一(男爵)は、妻の弟で、養子の平九郎と広島藩の軍隊との遭遇から、事実解明をもとめた。それは「回天軍第一起神機隊」の精鋭部隊だとわかった。
広島藩の浅野藩主から任命された正規の藩兵ではなかった。神機隊は義勇同志の結束で、戊辰戦争の参加した稀有の存在だった。
渋沢翁は実質的に総隊長といえる川合三十郎と面談した。
「平九郎の死はどんな状態でしたか」
川合三十郎はこのとき浅野家史「芸藩志」(げいはんし)300人が編纂する責任者だった。
「私・川合三十郎は、神機隊の主力を率いて、飯能戦争には立ち寄らず、甲府城に出むいていました。くわしい事情は、忍城から分遣隊長となった藤田次郎が知っております」
渋沢栄一が藤田次郎と面談した。
「当日の夕方、神機隊の小目付だった長沼主悦助(神官出身)たち6人を斥候に出ました。(埼玉側の資料は3人)。黒山村で貧しい身なりに変装した士(平九郎)と遭遇しました。生け捕るつもりだった。いきなり相手から斬りつけられた。壮烈な勇士だ、と長沼から聞きおよんでいます。この旅館の主は長沼で、最初にでた斥候のひとりで事情をよく知っていますよ」
「それは奇遇です」
この長沼は旅館業、海運業、鉄道事業、電気工事業など各種事業の経営にあたり、広島財界の重鎮だった。
元サッカー選手・日本代表選手、元日本代表監督の長沼健が孫にあたる。
「男は遭遇した際、武士ではござらぬ、神主です、と偽ったのです」
当時の長沼は神官であり、いくつかの尋問で、奴は嘘をついたと見破ったのだ。
見抜かれたと判ったのか、突如として小刀で襲いかかってきた。腕が立つ相手で、神機隊の斥候6人ちゅう3人が傷ついた。長沼もその一人だった。神機隊の無傷の者が銃を放ちながら、皆して負傷者を抱きかかえ、越生の陣までもどってきた。
長沼たち斥候の報告で、藤田次郎も含めた神機隊の大勢が黒山村に駆けつけた。
渓流の脇にある盤石の上で、平九郎はすでに切腹していた。
「その屠腹(とふく)の状態は、落ち着いてあわてず、天晴な技でした」
藤田次郎は渋沢栄一にそう述べている。
この藤田は東京上等裁判所の検事、立憲改進党の結成、衆議院議員二回、山陽鉄道の社長を歴任している。
切腹に使った小刀は、藤田次郎から実質的な総督ともいえる河合三十郎の手にわたった。
「小刀の装飾はみるからに実用的でした。替目釘(かえめくぎ)を使った名刀でした。この武士は尋常でなく位の高い人だろう、と推察しました。
譲り受けた私・川合三十郎が、愛蔵の品として、幾く星霜(せいそう)、つねに磨き、座右においておりました」
河合はその小刀を渋沢栄一に返還した。
「切腹の刀が遠く広島にわたり、川合どのの手で、ていねいに保管されておりました。平九郎はあの世でも、冥利だと喜んでいることでしょう」
渋沢栄一翁(男爵)は、当世、稀(まれ)にみる士だと川合を褒め称えている。
*
私が出版した「広島藩の志士」(二十歳の炎・改題)は、第二次長州戦争前から戊辰戦争までで、明治時代は組み込んでいない。渋沢平九郎の小刀が広島にあるまで、筆を運んでいない。
NHK大河ドラマ「青天を衝け」で、渋沢平九郎が自刃するシーンがある。渋沢平九郎の小刀の行方まで追っていない。
広島藩からどのように返還されたのか。渋沢平九郎ファンにとっては、まさに謎に満ちているようだ。その実態は殆ど知られていなかった。私が取材で得たものを歴史的な事実として、ここに公開した。
【つづく】
写真は一部ネットを利用させていただきました。
「広島藩・神機隊」 歴史は後からつくられる、真実は後から消される=上野戦争
2011年3月11日の東日本大震災で、三陸海岸が大津波の惨事に遭った。取材で福島県いわき市、広野町などに出向いた。東電原発被害があった一帯に、広島藩の墓を見つけた。
「なんで、明治元年(慶応4年)広島藩の墓があるのだろう」
その疑問から出版まで、約3か年を要している。
当時は、広島に足を運んでも、「原爆で史料がありません」というオウム返し。ただ、雪降る福島や会津に出向けた。郷土史家たちから、広島藩が西軍としてきたという多少の資料があった。広島地区をかなり歩いて、広島藩・神機隊という名前が浮上してきた。
広島の藩兵でなく、若者たちが立ち上げた独自色の強い軍隊だった。やがて、神機隊の研究者だった武田正視(呉市)から『浅野家・芸藩志』の存在をおしえられた。
同家史は、明治後半に完成したけれど、薩長閥の政治家により、自分たちに不都合だと言い、封印されていた。やがて昭和52年、東京の出版社が「芸藩志」全26巻という膨大な量を発行していた。わずか300部の発行だった。
東京から全国に散っており、広島ではほとんど見かけなかった。運良く、東京中央図書館に全巻が置かれていた。その芸藩志を読み込んでみると、幕末の広島藩が克明に浮かび上がる貴重な資料となった。
神機隊の320人が奥州戦争に自費で出兵していく。そこを作品化したのが「二十歳の炎」(改題・広島藩の志士)だった。
同書のなかで、大きな疑問の一つが慶応4年5月15日の上野戦争だった。神機隊の約280人が上野戦争に参戦しているのに、あらゆる幕末関係の歴史書、歴史小説において広島藩がまったく登場しないのだ。なぜか。不可解だった。
「大村益次郎が立てた戦略図面にも、広島藩の存在がない。なぜだ?」
芸藩志のなかでは、上野戦争で、飛鳥山(東京都・北区)に陣を張っているし、彰義隊の逃亡兵を幾人かつかまえている。軍隊として成果がゼロでもない。
その不可解さが解明ができないまま「二十歳の炎」を芸藩志に近いところで、書きあげた。
神機隊は、広島藩に320人の脱藩届を出してまでも、自費で奥州戦争にむかった。それも勇気がいることだ。神機隊は大坂の広島藩の藩邸で、浅野家世子・長勲の労で、京都に挙がり、朝廷か「奥州鎮撫使(ちんぶし)応援」の命を受けた。そして、大阪の湊から奥州にむかう。機帆船が舵のトラブルから、江戸湾の品川湊に一時寄港する。
隊員らは上陸し、浅野家の菩提寺の泉岳寺(忠臣蔵で有名)を宿所としていた。
江戸城の開城で、徳川幕府から新政府軍に渡っていた。神機隊の代表が江戸城に挨拶に行くと、大村益次郎から、上野戦争の参戦を要請されたのだ。
長州藩の大村益次郎は、新政府に出向する徴士(ちょうし)で、上野戦争の戦略・戦術のプランナーだった。上野山の北側に位置する王子方面に陣を張ってほしい、と依頼された。
かれらは泉岳寺に,その話を持ちかえった。神機隊は総督をおかず合議制だった。
「バカバカしい。長州の奴らの頼みごとなど聞けるか。鳥羽伏見の戦いあと、広島藩の名誉を失墜させた。......、広島藩は幕府にも色目を使うコウモリだ。風見鶏だ。日和見だと京都で罵詈雑言のうわさを流した。それが長州の品川弥二郎たちだ」
その噂への怒りから、広島藩・神機隊は自分たちの強さをみせてやろうじゃないか、そして名誉回復のためにも、と自費出兵してきたのだ。
「よりによって長州の大村ごときの頼みで、上野戦争に加担などする必要はない。われわれ神機隊は朝廷から、会津を恭順させよ、と特別命令を受けているのだ。会津に一番乗りするのだ」
「そうだ。その通り」
「江戸で寄り道などできるか。それに、奥州に行くまえに、神機隊の戦力を消費してしまうのは考えものだ」
「そもそも、江戸城は約1か月前に無血開城しているのだ。なにも2か月後(閏月が入る)に、上野の彰義隊を壊滅させる必要があるのか。大村は腹の底で、なにを考えておる。慶喜公の一橋家の家臣が彰義隊を立ち上げたというではないか。大村がいうように、彰義隊はほんとうに賊徒なのか。どうも解せない」
「結論をだすまえに、いちど彰義隊を偵察してみよう。拙者が行ってみよう」
五番小隊長の藤田太久蔵(たくぞう)が、帯刀姿で、東叡山とよばれる広大な上野の山に入った。偵察中に、道に迷った。
かれは大勢に取り囲まれた。
「早まるな。拙者は広島藩の浅野家家中のものだ。隊長に取次ぎをしてもらいたい。長州戦争のとき、幕府軍が広島に参集した。海田市で陣を張っていた時の隊長が、もしやこちらにいないかと思って、訪ねてきたのだ」
藤田は有名な奇才だった。彰義隊の小隊長のまえに案内してもらった。
広島県海田町の皆さん 越後高田藩が長州戦争で陣営をおいていた
「貴藩(広島藩)の海田市で、我が隊は八か月間にわたり、お世話になった。長州との戦闘がはじまると、弊藩は犠牲者も多く出した。貴藩には寺院を斡旋してもらい、死者をていねいに葬ってもらった。あらためて、お礼をいう」
「第二次長州討伐は、わが広島藩は戦争回避だった」
「よく存じております」
意気投合した。ふたりの話題が慶応三年の大政奉還、同年12月9日の小御所会議へとすすんだ。
京都御所・小御所会議
「われら彰義隊は、幕府側からみれば、薩摩藩の大久保、西郷の罠(わな)だとおもっておる。慶喜公を参列せず、王政復古派は幼帝(のちの明治天皇)を担ぎ上げる。新しい王政復古の政権が誕生すると、こんどは徳川家に辞官納地せよ、という。でたらめだ」
「わが広島藩浅野家の浅野長勲公、執政(家老職)の辻将曹が、その小御所会議に参列した。しかし、その後は、大久保、西郷の動きが怪しい、これは私的な動きだ、島津幕府を狙っておると、辻将曹や長勲公が薩摩藩と距離をおきはじめた」
それは鳥羽伏見の戦いが起こるまえだった。
大久保利通と西郷隆盛は、公家の岩倉具視としめし合わせて、徳川家に約800万石の領地を朝廷に返上させる。それをもって新政府の費用をまかなう、と強引に押してきたのだ。かといって、大久保は島津久光に77万石を朝廷に返上してほしい、と口が裂けても言えない。
「慶喜公は大久保・西郷の悪質な陰謀だと見抜いたのでござる。小御所会議のあと、辞官納地の要求だ。徳川家だけが、王政復古政権に領地を返上するのはおかしい。なぜ、徳川家だけに犠牲を強いるのは不公平だ、という慶喜公が怒るのはわかる。ここから旧幕府側のわれらは、慶喜公の怒りをくみ取り、薩摩がほんとうにを許せなくなった。打倒薩摩藩となった」
彰義隊の小隊長の説明にたいして、藤田太久蔵(たくぞう)は理解をしめした。
彰義隊の小隊長は、さらにこういった。
「大政奉還のあと江戸や関東周辺で、薩摩藩の狼藉、放火がはじまった。江戸警備の庄内藩の屯所に銃弾が撃ち込まれた。(現代でいえば、テロリストが警視庁に銃弾を撃ち込んだのと同じ。)。幕府側は堪忍袋の緒が切れた。薩摩藩をつぶせ、もはや『討薩』が合言葉になった」
勘定奉行の小栗上野介らが、薩摩藩の江戸藩邸を焼き討ちした。海軍をつかって逃げる薩摩藩士を追う。このとき旧幕府と会津藩は、朝廷に「薩摩藩を討つ」という許可をもらうための「討薩の表」を持って京都にむかった。
そして、華城(大坂城)の慶喜の許に立ち寄った。
華城(大坂城)/秀吉が築城する 写真=ネットより
二条城から、慶喜が華城(大坂城)に移っていた。討薩軍らの幹部は、面会した慶喜公から、朝廷から薩摩征討の許可が得られるまで、戦争をしてはならぬ。討薩の許可が出ても、『京都で、銃を放つな。朝廷に銃をむけた『禁門の変』の二の舞いにもなりかねない。一つ間違えると、朝敵になってしまう』と指図した。
鳥羽伏見街道で、薩摩側からふいに攻撃が仕掛けられた。双方で戦闘になった。加担したのが長州、鳥取、土佐、岡山、徳島藩である。
広島藩の執政(家老)辻将曹は、『これは会津と薩摩の遺恨だ、私闘だ』と言い、広島藩兵に銃を撃たせなかった。前線部隊から辻将曹のもとに、戦わせてほしいと、なんども要望があがってきていたけれど。
「ならぬ。勝てばよいが、もし劣勢になれば、戦闘の舞台が京都に移ってくる。そうなれば、禁門の変の二の舞いになる。朝敵・長州の二の舞いになる」
それは広島藩、浅野家を守るためでもあった。
京の都の市街戦を回避する点では、辻将曹と徳川慶喜公と考えがよく似ていた。
この間に、元幕府海軍が兵庫沖で、薩摩海軍を砲撃し、制海権を奪った。旧幕府軍は大阪の薩摩屋敷を攻撃した。そして、慶喜らは蒸気船で江戸に帰っていった。その際、新政府軍には大阪城を無傷で引き渡すな、と指図していた。
そして、3日間の間に、幕府は金銀や重要書類を榎本武揚海軍で運び出していた。尾張・越前の立ち合いで長州(徳山・岩国)への引き渡式は見せかけであり、当日、智将の旗本(大目付)の妻木頼矩(よりのり)が火薬庫を大爆発させたのだ。
大久保・西郷らは土壇場で、薩摩屋敷の江戸屋敷からはじまって大坂屋敷も焼かれるし、蓄財をあてにした華城(大坂城)も全焼し、一泡食わせられてしまったのだ。
慶喜、板倉勝静(かつきよ)、松平容保(かたもり)、松平定敬(さだあき)らは品川にたどり着いたが、王政復古政権から、いずれも朝敵になった。そして、歴史が動き、東征軍が江戸にむかった。そして、江戸城の無血開城となった。
「われら彰義隊は慶喜公を守り、と同時に江戸の治安を守る治安部隊です。賊徒など、言いがかりだ。腹立たしい。憎きは薩摩です」
「わかりました」
「広島藩が敵とは思っておりません。神機隊の皆さんに、そうお伝えください」
彰義隊の小隊長が東叡山の出口まで、見送ってくれた。
五番小隊長の藤田太久蔵が、泉岳寺に帰ってきた。
「神機隊が大村の要請で、参戦せず、江戸を素通りして奥州の会津に行ったとなれば、広島藩はまた逃げたともいわれるだろう。陣地は上野山の裏手の王子(東京都北区)だ。逃亡兵をつかまえる役だ。神機隊は飛鳥山に陣を張っていよう」
神機隊は意見を統一し、上野山の戦いに参列した。
彰義隊は1日で壊滅した。
翌日には、総督府から神機隊に、輪王寺宮さまが家来を随行させて尾久村に落ちている。探し出して、江戸城にお供せよ、として命じられた」
神機隊は豪雨のなかで、農家や林間を探す。しかし、輪王寺宮は見当たらなかった。輪王寺宮の所在もわからなかった。その実、奥州まで落ち延びていたのだ。
芸藩志は次の舞台の飯能戦争にむかう。
歴史は後からつくられる。この上野戦争を検証する切り口は幾つかある。
① 薩摩藩の大久保が岩倉具視と西郷隆盛に謀って、徳川家のみに800万石の領地を返上させるという陰謀がなければ、歴史はどうなったか。
② 大政奉還のあと、薩摩藩は江戸騒擾というテロ活動を2か月もつづけた。江戸市民は恐怖のどん底に落ち込んだ。当時も現代も、無抵抗な市民の命と財産を奪うことは、道徳・倫理の面で許されない。
③ 慶喜は大正時代まで長生きしたが、「長州藩は許せても、薩摩は許せない」と複数の側近に伝えている。
歴史を見てきた慶喜は、幕末・薩摩の偽がね造り、密貿易、江戸騒擾、辞官納地という陰謀から、おそらく日本流でいえば、ふたりは良い死に方しない、と思っただろう。
西郷は西南戦争で鹿児島・城山で自刃し、その首が政府軍の山形有朋のまえに運ばれた。令和の今も、賊軍として靖国神社に祀られていない。大久保利通はその翌年、東京・紀尾井坂付近で暗殺されている。
④ 明治からの歴史家は、鳥羽伏見は薩摩側の勝利とするが、果たして、そうだろうか。高輪薩摩屋敷、鳥羽伏見の陸上戦、兵庫沖の薩摩軍艦の沈没、大阪薩摩屋敷、この10日間は旧幕府軍よりも、戦死者の数が多いはずだと類推できる。
天下を取った為政者たち、不都合な数字はごまかすか、伏せるが常だ。とくに品川沖、兵庫沖の薩摩海軍の犠牲者数の史料はあるはずだが、今日(こんにち)も学者は出してこない。戦死者の逆転が、不都合なのだろう。
③ 上野寛永寺の彰義隊は、渋沢誠一郎ら一橋家臣が徳川慶喜を守るために立ち上げたものだ。誠一郎は大河ドラマでも、渋沢栄一と行動を共にし、平岡円四郎に拾われて一ツ橋家の家臣になった人物だ。慶喜に忠誠を尽くす。
彰義隊の特徴のひとつは、慶喜と同様に、幼帝を担いで勝手な振る舞いをした薩摩の大久保一翁・西郷が天皇家を利用した私欲とみなし、「薩賊」の討滅を記した血誓書を作成していることだった。
彰義隊はほんとに賊徒だったのか。これらは大河ドラマの「青天を衝け」で、どう描くのだろうか。興味深い。
④ 上野戦争で、彰義隊は賊徒として壊滅された。その実、新政府軍は東武天皇(元号・延壽えんじゅ)に擁された輪王寺宮をつぶしたかったのだ。
私は近著「紅紫の館」(こうしのやかた)で、上野戦争の本来の目的が掘り起しができた。江戸城が無血開城したにもかかわらず、2か月後に、あえて東京・上野で大規模な戦争を仕掛けたのだ。幼帝(のちの明治天皇)を擁した大久保、西郷、岩倉たちの腹の底が鮮明にみえてきた。
薩長閥の明治御用学者らは、南北朝時代と同様に、京都に幼帝(のちの明治天皇)、東に東武天皇(輪王寺宮)とという国家分断があったと認めたくなかった。
南北朝時代の正当性はあいまいにし、慶応四年の延壽という元号、東武天皇の存在は歴史から抹殺して今日に至っている。
分断の国家が歴史的事実ならば、公表しても、国民はすなおに受け入れるとおもうけれど。
藝州広島藩の神機隊は、なぜ自費で戊辰戦争に参戦したのか、RCCラジオ7月9日放送
RCCラジオ(中国放送)で、毎月第2土曜日の9時05分から『歴史スペシャル』で、穂高健一の「幕末・明治・大正の荒波から学べ」が放送されています。
(2021年)7月9日は、『藝州広島藩の神機隊は、なぜ自費で戊辰戦争に参戦したのか』というタイトルです。
幕末の歴史で、広島藩がどう関わったのか。薩長という言葉はよく聞くが、広島について語られることは少ない。なぜか。たしかに広島藩は42万石の大藩であり、「日本外史」の頼山陽を生みだすほど皇国思想の要の藩でありながらも、「天下の駄藩」と蔑まれるほど、政治に関わっていません。
ペリー提督の来航、水戸藩からの尊皇攘夷、長州の過激攘夷論、桜田門外の変、薩摩による公武合体論、文久の改革、と幕府の根幹が一気に崩れますが、広島藩は我関せずです。
その理由のひとつとして、浅野家は徳川御三家に近い血筋が多々入っている。かたや、豊臣政権時代には、浅野長政が五奉行の筆頭(内閣総理大臣)という、複雑な立ち位置にあったからです。
そんな広島が急激に動いたが「禁門の変」で、長州藩の毛利家が朝敵になり、孝明天皇の征討の勅命が幕府に出たときからです。
長州戦争を前にして、幕府と長州を仲介する役がいない。まわりの諸藩は逃げ回っていた。ならば、徳川系にも、豊臣系にも、顔がきく広島藩が双方の仲介役を買って出たのです。
ここから、広島藩が強烈に幕末歴史に登場してきます。
【今回の放送内容のあらすじ】
総督の尾張慶勝(元尾張藩主)と参謀・西郷隆盛(薩摩藩)らが、孝明天皇から幕府に朝敵の長州を討て、という大命題に添わず、毛利敬親・親子の処分を行わず引き揚げた。
「芋の悪だくみに、慶勝は乗せられた」と一橋慶喜の怒りを買った。そこで、14代家茂将軍を江戸城から大坂城へと出陣し、諸藩にふたたび出陣を要請した。
越後高田藩の出兵風景。明治最後の絵師:揚州周延(橋本直義)の作
35藩のいずこも、「わずか四か月のあと、また長州出兵か」とウンザリ。戦意もなく、死にたくないし、武器砲弾も自前だし、それも消費したくない。厭戦気分だった。
ちなみに、越後高田藩は、幕府の第二次長州征伐の出兵要請で、4500人の藩兵は慶応元(1865)年5月に大阪に向けて出発した。幕府の方針が細部で煮詰まらず、半年は大坂で無為に過ごす。やがて、大坂から広島藩領の海田に12月に到着した。ここからも明日の戦いはやるのか、やらないのかと、長期に7カ月も滞陣する。厭戦ムードは高まるばかり。
かれら国元、あるいは江戸藩邸を出てから延べ13カ。妻子や家族を想う望郷の念の書簡が多く残されています。
「なんで第一次で決着できなかったのだ』と不満が募る。第二次長州征討の戦いに勝ったところで、幕府から報奨金が貰えるわけではない。兵士にかかる衣食住と宿賃は、幕府の補填がなく、すべて藩の負担になる。
*
広島藩は「この2回目の征討には大義がない」と猛反対だった。
慶応2(1866)年6月には5月、広島藩学問所(現・修道高校)のOB・若者たち55人が、前線基地の広島にきていた老中・小笠原にたいして暗殺予告まで行う。騒然となった。広島藩は藩主・長訓、世子・長勲の仲介で、広島藩出兵拒否で解決を図った。
翌6月には、第二次長州戦争が勃発した。6月は長州軍は岩国から大竹・大野に入り、旧式武装の彦根藩、高田藩を打ち負かし、広島城下に近い廿日市、五日市に勢いよく進軍した。
それを見た幕府は真剣になり、フランス式最新部隊の紀州藩を芸州口の最前線に投入してきた。紀州藩は互角以上に戦うし、沖合の幕府軍艦から連続して艦砲射撃で長州兵を打ち負かす。長州藩は岩国に近くまで逃げ帰った。
芸州広島藩が乗りだし、安芸領(広島領)で戦争するな、領民が迷惑だと言い、長州軍と幕府軍の間に割り込んだ。戦争以前の状態にもどさせた。
芸州口の戦いは、後世で言われるほど、長州の勝利ではなかったのだ。
1か月後の7月、大坂城で、14代家茂将軍が20歳の若さで死去したのである。
「将軍が死去して、本州の外れの一藩と関わっている暇はない。勝海舟、休戦してこい」
一橋慶喜の命令で、海軍奉行の勝海舟が単独で広島城下にやってきた。広島藩の執政・辻将曹が勝と面談したうえで、宮島(広島県)で、双方の休戦協定が結ばれた。
長州は、馬関海峡をはさむ小倉藩との戦いでも、九州男児の死に物狂いのゲリラ戦だの、小倉城を自焼するだの、決して楽な戦場ではなかった。沖に幕府海軍の軍艦が終結している。まだ、火を噴いていない。
長州側も、徹底抗戦し、大坂、京都、江戸に攻め入る力などない。辻将曹の和解に快く乗ってきた。9月初旬に、幕府と薩摩との和平協定が結ばれた。しかし、長州の朝敵と、毛利家処分問題が解決したわけではない。たんなる戦争の現状維持の停止だった。
この慶応2年12月には、ペリー来航以来、朝廷政治を取り戻そうとする孝明天皇が死去した。政治が混沌としてきた。ただ、長州の朝敵が外れたわけではない。
その後においても、幕閣(江戸城組)は、未解決の毛利処分を言いだす。芸州広島藩などいくつかの諸藩に、萩城の毛利敬親・定広の親子を捕縛し、江戸に連れて来い。処分は江戸で命じるからという。
「そんなことはできるはずがない」
どの藩も拒否すると、幕閣はならば、第三次長州征討を言い出す。
「ここで3度目の長州征討をやれば、疲弊した民は塗炭の苦しみに陥る。西洋諸国は、内戦を口実に内政干渉し、植民地になる恐れがある。こんな幕府は政権を朝廷にもどさせよう」
広島藩主の浅野長訓、世子の長勲はそう決断した。慶応三(1867)年正月、広島藩の執政・石井修理が老中筆頭・板倉勝静(かつきよ)に「大政奉還の建白書」を提出した。これは一般にいわれている後藤象二郎の「大政奉還の建白書」よりも、10カ月も早いものだった。
しかし、幕府は拒否でもなく、無視だった。
写真=ネットより
この慶応3年5月に、幕府と雄藩の有力大名との「四侯会議」が京都で開かれた。「長州藩処分問題」と「兵庫港の開港問題」が主要課題だった。
島津久光(薩摩藩)が音頭を取り、松平春嶽(前越藩)、山内容堂(土佐藩)、伊達宗城(宇和島藩)らによる幕府の諮問会議の形態だった。ただ、薩摩のイニシアチブを嫌う德川慶喜が、この「四侯会議」を分裂・解体させたのだ。
*
「四侯会議」の分解をみた広島藩は、幕府に期待するものがないとして、「大政奉還」を藩論とした。執政の辻将曹など、多くの有能な広島藩士が、大藩に「大政奉還」に働きかけた。薩摩、土佐。さらに岡山藩、鳥取藩、徳島藩などである。
御手洗港(広島県・大崎下島 写真)で、薩芸交易が盛んにおこなわれている。かたや、宮島(広島県)で芸長交易がある。これは薩摩、長州、広島は深い三角貿易の経済圏であった。
この3藩がやがて結びついて、薩長芸軍事同盟ができる。
まず、広島藩の辻将曹の働きかけ、薩摩の島津久光が「大政奉還」に乗ってきた。薩摩家老の小松帯刀も賛成した。小松が札度同盟土佐藩にも持ち込む。後藤象二郎は山内容堂から、建白書の提出は良いが、武力圧力に反対された。
広島藩は、この「四侯会議」の空中分解を機に動き出す。まず、薩摩藩の島津久光、
「土佐がダメならば、朝敵の長州を誘い込もう」
小松帯刀の奇策に対して、長州は待ちに待っていたと乗ってきた。
ここに薩長芸軍事同盟が結ばれた。
ただ、後藤象二郎が抜け駆けで徳川慶喜将軍に、大政奉還建白書を出した。慶喜が公議政体論者でもあったことから、これにのって政権を朝廷に返還した。朝廷も受理した。
大政奉還のあと、藝州広島藩は藩論が割れた。鳥羽伏見の戦いが勃発したが……。広島藩は非戦を唱えた。広島藩は伏見街道に、軍隊を出しながらも、辻将曹は一発も撃たせなかった。「これは薩摩と、会津の遺恨に過ぎない戦いだ」
その認識が、広島藩の幕末の存在を消してしまったといえる。
広島は日和見主義、臆病風が吹いた、と侮られた。これが広島に伝わると、かれら神機隊の320人は憤り、戊辰戦争の関東、奥州への出兵を決めます。広島藩の藩政府は彼らの出兵を認めなかった。すると、神機隊の320人は全員が脱藩届を提出し、自費をもって、出兵します。
第二次長州征討には小笠原老中を暗殺してまでも、無益な戦争を止めようとしていた若者たちです。それなのに、かれら若者は命を惜しまず、出兵します。そして、最も激戦地を選び、戦います。
徳川幕府を揺るがせた「攘夷思想」の誕生
攘夷思想は「黒船とペリーが原因」だと歴史教科書では教えられていますが、「実は、そうではない」と、穂高健一が判りやすく解説します。
① 開国派、攘夷派とは
② なぜ、水戸徳川家が攘夷論を言い出したのか?
③ 孝明天皇は、どうして攘夷派になった?
④ 尊王攘夷は正しいのか?
この①から④まで、幕末史ではとても重要です。薩長史観では、これまでかなり史実が曲げられてきました。穂高健一が、より歴史的事実に近いところから解説しています。
「広島テレビ・カルチャーセンターにて」
広報室 山澤直行
【映像を左クリックすれば、YouTubeで動画を見ることができます】
作者が取材から語る「安政維新・阿部正弘の生涯」
日本の国難を救った人物は、北条時宗、阿部正弘だと言われています。
みなさんは、どの程度、阿部正弘を知っているでしょうか。もし、39歳で死去した老中・阿部正弘がわが国にいなければ、尊皇攘夷論の旗の下で、強烈な軍隊をもった西洋列強と戦争したでしょう。そして、清国のようにアヘンがまん延し、わが国はまちがいなく殖民地になっていたでしょう。
薩英戦争、下関戦争、という薩長の悲惨な負け方からも、かんたんに想像がつきます。
「夷狄に打ち勝つ。それが大和魂だ」。この尊皇攘夷思想は、とても危険な思想です。第二次世界大戦まで、軍部を支えた中枢の思想です。
「勇ましく西洋人に打ち勝つ」.日本は古来、二度の蒙古襲来で、『神風が吹いた』という神がかりから、北条時宗は1945年の原爆投下、敗戦日まで、神さま扱いです。実際に、学徒、予科練、あらゆる若者が徴兵されて、「神風特攻隊」と名のもとに、命を失くしました。
かたら、軍国主義の目線から、「ペリー提督が浦賀にきたとき、阿部正弘は蹂躙(じゅうりん)させられて、開国した」という、水戸藩の徳川斉昭の法螺(ほら)を太平洋戦争末期まで、引きずりました。
『北条時宗は英雄、阿部正弘は日本を売った』、という歴史のねつ造が軍国教育でまかり通っていたのです。
*
アジア、アフリカ、南アメリカを見わたせば、日本が唯一植民地にならなかった国です。厳密にいえばタイ国も半独立を保てていました。この国は疫病のまん延で、西洋諸国の軍隊が入っていけなかったのです。
「西洋は強烈な武力をもってくる。日本は優秀な人材を選りすぐって外交で勝つ」
これが阿部正弘の戦略です。
阿部正弘が老中首座のときに設立したのが「誠之館」です。いま広島県立誠之館高校になっています。小学校は東京都文京区の誠之館小学校です。いつ設立されたか。皆さんはご存知ですか。嘉永6(1853)年12月です。
この年にはペリー提督が6月3日に浦賀にやって来ます。ペリーはアメリカ大統領の国書を持参し、来年には回答をもらいに来る、と立ち去ります。すぐさま、第12代德川家慶が急死し、身体障害者の家定が13代将軍になります。
すべての責任が老中首座の阿部正弘の力量にかかってきます。
「德川御三家」が幕政に口を出すのは家康の時代からご法度(同族の政治は短命だという家康の考え方)。老中政治が250余年支えてきました。
しかし、水戸藩の斉昭は、老中首座の阿部にたいして攘夷を振りかざします。神風が吹く、大和魂で退治せよ、と執拗に申し出ます。阿部は拒絶します。
そういう多難な同年に、阿部正弘は江戸と福山に、人材育成のために「誠之館」を設立するのです。
こんなすごい人材主義の阿部正弘は、日本人の誇りだと思いませんか。現に、植民地にはなっていません。
誠之館高校の会報の5月号に、穂高健一が「阿部正弘について寄稿しています。
(写真を左クリックすれば、内容が読めます)
広報室 山澤直之 (監修・穂高健一)
作家に学ぶ歴史講座「激動の幕末広島藩」=広島城内
歴史は人間の英知がたっぷりあります。将来に生きるためには、過去の歩み、歴史をヒントにする。
広島の人は、歴史に疎い。毛利元就から原爆まで、大半の人が認識していない。原爆の被災者から、憐れみを語れば、世界に通用してきた広島だった。もはや原爆三世の時代です。生々しい悲惨を語り、被曝の同情だけでは前にむかっていけない。
「世界遺産」として物理的な歴史的な建造物になった。
「なぜ、広島に原爆が落されたのですか」という質問にも、大半の広島人は応えられない。それが明確に答えられなくても、自分たちの歴史を知らなくても、世界から国から被曝支援金が入ってくるのです。
一言でいえば、150年前に「尊王攘夷」という思想がなければ、広島、長崎には原爆が落ちなかったでしょう。それを簡略にわかりやすく説明できないようでは、広島人はなさけないと穂高健一は常に語っています。
人類はつねに疫病、戦争、飢餓という三大災害と戦ってきた。日本人はどんな風に戦ったのか。そこには英知がいっぱい詰まっています。
「いまからでも遅くない。歴史を学ぼうよ」と広島人に語っています。
広島県大崎上島町出身者から、穂高健一は広島の恥部でも語れるのですよ。他府県の人は遠慮して、広島は原爆に寄りかかりすぎると語れないでしょう。故郷愛がとても強いから、広島の事を思えばこそ、耳ざわりのことも言うのですよ、と語る。
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講演日は2019年9月8日、広島城内
戊辰戦争は、薩摩の膨大な贋金で、西軍が勝利した
戊辰戦争は、なぜ幕府軍は負けたか。戦争はお金がなければ、勝てない。それを150年間も隠し続けたのが、学者や歴史作家である。
「学者が隠す、薩摩藩の悪質な密貿易、贋金づくりが徳川家をつぶした」
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坂本竜馬が新谷道太郎に、御手洗の重大な4藩密議「薩長芸土軍事同盟」は60年間は伏せておけよ、と語った
慶応3(1867)年の慶喜から朝廷に、大政奉還から小御所会議、鳥羽伏見の戦いまで、幕末史の謎の空白です。
大政奉還が慶応3(1867)年10月15日です。坂本龍馬が暗殺されたのが、翌月の11月15日です。その1週間前には、大崎下島・御手洗港の新谷道太郎の本堂で、重大な4藩軍事同盟が結ばれました。(薩長芸土の大物たち)。大政奉還が成功したので、どんな新政府にするか、どのように挙兵し、京都から幕府の一会桑を武力でおいだすか、という極秘の戦略です。
極秘ゆえに、幕末史の空白が生じています。それゆえに、当時の学者たちは推定、推論を交えた仮説を立てました。その推論が独り歩きし、幕末史が整合性が合わなくなっても、やがて国民的常識になったのです。
戦後になると、司馬遼太郎著「龍馬がゆく」が、それに輪をかけたので、薩長芸土の密議の存在を問うとか、真剣な討議がなされなくなっています。
かたや、学問的な公平さから、坂本龍馬の業績は何か、と問われて教科書から外れてしまいました。
しかしながら、慶応3年11月3日から、御手洗港の4藩軍事同盟の主要人物として、坂本龍馬が参加していたことは間違いないでしょう。龍馬の直筆で「新政府綱領八策」が、二通現存していますから。
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