「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより

「広島藩・神機隊」 歴史は後からつくられる、真実は後から消される=上野戦争

 私が著作「二十歳の炎」を出版したのが、2014年6月だった。
 2011年3月11日の東日本大震災で、三陸海岸が大津波の惨事に遭った。取材で福島県いわき市、広野町などに出向いた。東電原発被害があった一帯に、広島藩の墓を見つけた。

「なんで、明治元年(慶応4年)広島藩の墓があるのだろう」
 その疑問から出版まで、約3か年を要している。

 当時は、広島に足を運んでも、「原爆で史料がありません」というオウム返し。ただ、雪降る福島や会津に出向けた。郷土史家たちから、広島藩が西軍としてきたという多少の資料があった。広島地区をかなり歩いて、広島藩・神機隊という名前が浮上してきた。

 広島の藩兵でなく、若者たちが立ち上げた独自色の強い軍隊だった。やがて、神機隊の研究者だった武田正視(呉市)から『浅野家・芸藩志』の存在をおしえられた。

 同家史は、明治後半に完成したけれど、薩長閥の政治家により、自分たちに不都合だと言い、封印されていた。やがて昭和52年、東京の出版社が「芸藩志」全26巻という膨大な量を発行していた。わずか300部の発行だった。
 東京から全国に散っており、広島ではほとんど見かけなかった。運良く、東京中央図書館に全巻が置かれていた。その芸藩志を読み込んでみると、幕末の広島藩が克明に浮かび上がる貴重な資料となった。

 神機隊の320人が奥州戦争に自費で出兵していく。そこを作品化したのが「二十歳の炎」(改題・広島藩の志士)だった。
 同書のなかで、大きな疑問の一つが慶応4年5月15日の上野戦争だった。神機隊の約280人が上野戦争に参戦しているのに、あらゆる幕末関係の歴史書、歴史小説において広島藩がまったく登場しないのだ。なぜか。不可解だった。

「大村益次郎が立てた戦略図面にも、広島藩の存在がない。なぜだ?」
 芸藩志のなかでは、上野戦争で、飛鳥山(東京都・北区)に陣を張っているし、彰義隊の逃亡兵を幾人かつかまえている。軍隊として成果がゼロでもない。
 その不可解さが解明ができないまま「二十歳の炎」を芸藩志に近いところで、書きあげた。


京都・御所で、神機隊が「奥州鎮撫使応援」の命を受けた

 神機隊は、広島藩に320人の脱藩届を出してまでも、自費で奥州戦争にむかった。それも勇気がいることだ。神機隊は大坂の広島藩の藩邸で、浅野家世子・長勲の労で、京都に挙がり、朝廷か「奥州鎮撫使(ちんぶし)応援」の命を受けた。そして、大阪の湊から奥州にむかう。機帆船が舵のトラブルから、江戸湾の品川湊に一時寄港する。
 隊員らは上陸し、浅野家の菩提寺の泉岳寺(忠臣蔵で有名)を宿所としていた。
 
 江戸城の開城で、徳川幕府から新政府軍に渡っていた。神機隊の代表が江戸城に挨拶に行くと、大村益次郎から、上野戦争の参戦を要請されたのだ。
 長州藩の大村益次郎は、新政府に出向する徴士(ちょうし)で、上野戦争の戦略・戦術のプランナーだった。上野山の北側に位置する王子方面に陣を張ってほしい、と依頼された。
 
 かれらは泉岳寺に,その話を持ちかえった。神機隊は総督をおかず合議制だった。

「バカバカしい。長州の奴らの頼みごとなど聞けるか。鳥羽伏見の戦いあと、広島藩の名誉を失墜させた。......、広島藩は幕府にも色目を使うコウモリだ。風見鶏だ。日和見だと京都で罵詈雑言のうわさを流した。それが長州の品川弥二郎たちだ」
 その噂への怒りから、広島藩・神機隊は自分たちの強さをみせてやろうじゃないか、そして名誉回復のためにも、と自費出兵してきたのだ。

「よりによって長州の大村ごときの頼みで、上野戦争に加担などする必要はない。われわれ神機隊は朝廷から、会津を恭順させよ、と特別命令を受けているのだ。会津に一番乗りするのだ」
「そうだ。その通り」
「江戸で寄り道などできるか。それに、奥州に行くまえに、神機隊の戦力を消費してしまうのは考えものだ」

「そもそも、江戸城は約1か月前に無血開城しているのだ。なにも2か月後(閏月が入る)に、上野の彰義隊を壊滅させる必要があるのか。大村は腹の底で、なにを考えておる。慶喜公の一橋家の家臣が彰義隊を立ち上げたというではないか。大村がいうように、彰義隊はほんとうに賊徒なのか。どうも解せない」

「結論をだすまえに、いちど彰義隊を偵察してみよう。拙者が行ってみよう」
 五番小隊長の藤田太久蔵(たくぞう)が、帯刀姿で、東叡山とよばれる広大な上野の山に入った。偵察中に、道に迷った。
 かれは大勢に取り囲まれた。

「早まるな。拙者は広島藩の浅野家家中のものだ。隊長に取次ぎをしてもらいたい。長州戦争のとき、幕府軍が広島に参集した。海田市で陣を張っていた時の隊長が、もしやこちらにいないかと思って、訪ねてきたのだ」
 藤田は有名な奇才だった。彰義隊の小隊長のまえに案内してもらった。


 広島県海田町の皆さん  越後高田藩が長州戦争で陣営をおいていた
 
「貴藩(広島藩)の海田市で、我が隊は八か月間にわたり、お世話になった。長州との戦闘がはじまると、弊藩は犠牲者も多く出した。貴藩には寺院を斡旋してもらい、死者をていねいに葬ってもらった。あらためて、お礼をいう」

「第二次長州討伐は、わが広島藩は戦争回避だった」
「よく存じております」
 意気投合した。ふたりの話題が慶応三年の大政奉還、同年12月9日の小御所会議へとすすんだ。 

京都御所・小御所会議

「われら彰義隊は、幕府側からみれば、薩摩藩の大久保、西郷の罠(わな)だとおもっておる。慶喜公を参列せず、王政復古派は幼帝(のちの明治天皇)を担ぎ上げる。新しい王政復古の政権が誕生すると、こんどは徳川家に辞官納地せよ、という。でたらめだ」

「わが広島藩浅野家の浅野長勲公、執政(家老職)の辻将曹が、その小御所会議に参列した。しかし、その後は、大久保、西郷の動きが怪しい、これは私的な動きだ、島津幕府を狙っておると、辻将曹や長勲公が薩摩藩と距離をおきはじめた」
 それは鳥羽伏見の戦いが起こるまえだった。

 大久保利通と西郷隆盛は、公家の岩倉具視としめし合わせて、徳川家に約800万石の領地を朝廷に返上させる。それをもって新政府の費用をまかなう、と強引に押してきたのだ。かといって、大久保は島津久光に77万石を朝廷に返上してほしい、と口が裂けても言えない。

「慶喜公は大久保・西郷の悪質な陰謀だと見抜いたのでござる。小御所会議のあと、辞官納地の要求だ。徳川家だけが、王政復古政権に領地を返上するのはおかしい。なぜ、徳川家だけに犠牲を強いるのは不公平だ、という慶喜公が怒るのはわかる。ここから旧幕府側のわれらは、慶喜公の怒りをくみ取り、薩摩がほんとうにを許せなくなった。打倒薩摩藩となった」
 彰義隊の小隊長の説明にたいして、藤田太久蔵(たくぞう)は理解をしめした。
 

 彰義隊の小隊長は、さらにこういった。
「大政奉還のあと江戸や関東周辺で、薩摩藩の狼藉、放火がはじまった。江戸警備の庄内藩の屯所に銃弾が撃ち込まれた。(現代でいえば、テロリストが警視庁に銃弾を撃ち込んだのと同じ。)。幕府側は堪忍袋の緒が切れた。薩摩藩をつぶせ、もはや『討薩』が合言葉になった」
 
 勘定奉行の小栗上野介らが、薩摩藩の江戸藩邸を焼き討ちした。海軍をつかって逃げる薩摩藩士を追う。このとき旧幕府と会津藩は、朝廷に「薩摩藩を討つ」という許可をもらうための「討薩の表」を持って京都にむかった。
 そして、華城(大坂城)の慶喜の許に立ち寄った。
 華城(大坂城)/秀吉が築城する 写真=ネットより

 二条城から、慶喜が華城(大坂城)に移っていた。討薩軍らの幹部は、面会した慶喜公から、朝廷から薩摩征討の許可が得られるまで、戦争をしてはならぬ。討薩の許可が出ても、『京都で、銃を放つな。朝廷に銃をむけた『禁門の変』の二の舞いにもなりかねない。一つ間違えると、朝敵になってしまう』と指図した。
 
 鳥羽伏見街道で、薩摩側からふいに攻撃が仕掛けられた。双方で戦闘になった。加担したのが長州、鳥取、土佐、岡山、徳島藩である。


 広島藩の執政(家老)辻将曹は、『これは会津と薩摩の遺恨だ、私闘だ』と言い、広島藩兵に銃を撃たせなかった。前線部隊から辻将曹のもとに、戦わせてほしいと、なんども要望があがってきていたけれど。
「ならぬ。勝てばよいが、もし劣勢になれば、戦闘の舞台が京都に移ってくる。そうなれば、禁門の変の二の舞いになる。朝敵・長州の二の舞いになる」
 それは広島藩、浅野家を守るためでもあった。
 京の都の市街戦を回避する点では、辻将曹と徳川慶喜公と考えがよく似ていた。
 

 この間に、元幕府海軍が兵庫沖で、薩摩海軍を砲撃し、制海権を奪った。旧幕府軍は大阪の薩摩屋敷を攻撃した。そして、慶喜らは蒸気船で江戸に帰っていった。その際、新政府軍には大阪城を無傷で引き渡すな、と指図していた。
 そして、3日間の間に、幕府は金銀や重要書類を榎本武揚海軍で運び出していた。尾張・越前の立ち合いで長州(徳山・岩国)への引き渡式は見せかけであり、当日、智将の旗本(大目付)の妻木頼矩(よりのり)が火薬庫を大爆発させたのだ。
 大久保・西郷らは土壇場で、薩摩屋敷の江戸屋敷からはじまって大坂屋敷も焼かれるし、蓄財をあてにした華城(大坂城)も全焼し、一泡食わせられてしまったのだ。

 慶喜、板倉勝静(かつきよ)、松平容保(かたもり)、松平定敬(さだあき)らは品川にたどり着いたが、王政復古政権から、いずれも朝敵になった。そして、歴史が動き、東征軍が江戸にむかった。そして、江戸城の無血開城となった。

「われら彰義隊は慶喜公を守り、と同時に江戸の治安を守る治安部隊です。賊徒など、言いがかりだ。腹立たしい。憎きは薩摩です」
「わかりました」
「広島藩が敵とは思っておりません。神機隊の皆さんに、そうお伝えください」
 彰義隊の小隊長が東叡山の出口まで、見送ってくれた。
 
 五番小隊長の藤田太久蔵が、泉岳寺に帰ってきた。

「神機隊が大村の要請で、参戦せず、江戸を素通りして奥州の会津に行ったとなれば、広島藩はまた逃げたともいわれるだろう。陣地は上野山の裏手の王子(東京都北区)だ。逃亡兵をつかまえる役だ。神機隊は飛鳥山に陣を張っていよう」

 神機隊は意見を統一し、上野山の戦いに参列した。

 彰義隊は1日で壊滅した。

 翌日には、総督府から神機隊に、輪王寺宮さまが家来を随行させて尾久村に落ちている。探し出して、江戸城にお供せよ、として命じられた」
 神機隊は豪雨のなかで、農家や林間を探す。しかし、輪王寺宮は見当たらなかった。輪王寺宮の所在もわからなかった。その実、奥州まで落ち延びていたのだ。

 芸藩志は次の舞台の飯能戦争にむかう。


 
 彰義隊の墓(東京・上野) 写真・ネットより

 歴史は後からつくられる。この上野戦争を検証する切り口は幾つかある。
 
① 薩摩藩の大久保が岩倉具視と西郷隆盛に謀って、徳川家のみに800万石の領地を返上させるという陰謀がなければ、歴史はどうなったか。

② 大政奉還のあと、薩摩藩は江戸騒擾というテロ活動を2か月もつづけた。江戸市民は恐怖のどん底に落ち込んだ。当時も現代も、無抵抗な市民の命と財産を奪うことは、道徳・倫理の面で許されない。

③ 慶喜は大正時代まで長生きしたが、「長州藩は許せても、薩摩は許せない」と複数の側近に伝えている。

 歴史を見てきた慶喜は、幕末・薩摩の偽がね造り、密貿易、江戸騒擾、辞官納地という陰謀から、おそらく日本流でいえば、ふたりは良い死に方しない、と思っただろう。
 西郷は西南戦争で鹿児島・城山で自刃し、その首が政府軍の山形有朋のまえに運ばれた。令和の今も、賊軍として靖国神社に祀られていない。大久保利通はその翌年、東京・紀尾井坂付近で暗殺されている。

④ 明治からの歴史家は、鳥羽伏見は薩摩側の勝利とするが、果たして、そうだろうか。高輪薩摩屋敷、鳥羽伏見の陸上戦、兵庫沖の薩摩軍艦の沈没、大阪薩摩屋敷、この10日間は旧幕府軍よりも、戦死者の数が多いはずだと類推できる。
 天下を取った為政者たち、不都合な数字はごまかすか、伏せるが常だ。とくに品川沖、兵庫沖の薩摩海軍の犠牲者数の史料はあるはずだが、今日(こんにち)も学者は出してこない。戦死者の逆転が、不都合なのだろう。
 
③ 上野寛永寺の彰義隊は、渋沢誠一郎ら一橋家臣が徳川慶喜を守るために立ち上げたものだ。誠一郎は大河ドラマでも、渋沢栄一と行動を共にし、平岡円四郎に拾われて一ツ橋家の家臣になった人物だ。慶喜に忠誠を尽くす。

 彰義隊の特徴のひとつは、慶喜と同様に、幼帝を担いで勝手な振る舞いをした薩摩の大久保一翁・西郷が天皇家を利用した私欲とみなし、「薩賊」の討滅を記した血誓書を作成していることだった。

 彰義隊はほんとに賊徒だったのか。これらは大河ドラマの「青天を衝け」で、どう描くのだろうか。興味深い。
 
④ 上野戦争で、彰義隊は賊徒として壊滅された。その実、新政府軍は東武天皇(元号・延壽えんじゅ)に擁された輪王寺宮をつぶしたかったのだ。

 私は近著「紅紫の館」(こうしのやかた)で、上野戦争の本来の目的が掘り起しができた。江戸城が無血開城したにもかかわらず、2か月後に、あえて東京・上野で大規模な戦争を仕掛けたのだ。幼帝(のちの明治天皇)を擁した大久保、西郷、岩倉たちの腹の底が鮮明にみえてきた。

 薩長閥の明治御用学者らは、南北朝時代と同様に、京都に幼帝(のちの明治天皇)、東に東武天皇(輪王寺宮)とという国家分断があったと認めたくなかった。
 南北朝時代の正当性はあいまいにし、慶応四年の延壽という元号、東武天皇の存在は歴史から抹殺して今日に至っている。
 分断の国家が歴史的事実ならば、公表しても、国民はすなおに受け入れるとおもうけれど。

 

藝州広島藩の神機隊は、なぜ自費で戊辰戦争に参戦したのか、RCCラジオ7月9日放送

RCCラジオ(中国放送)で、毎月第2土曜日の9時05分から『歴史スペシャル』で、穂高健一の「幕末・明治・大正の荒波から学べ」が放送されています。

(2021年)7月9日は、『藝州広島藩の神機隊は、なぜ自費で戊辰戦争に参戦したのか』というタイトルです。

 幕末の歴史で、広島藩がどう関わったのか。薩長という言葉はよく聞くが、広島について語られることは少ない。なぜか。たしかに広島藩は42万石の大藩であり、「日本外史」の頼山陽を生みだすほど皇国思想の要の藩でありながらも、「天下の駄藩」と蔑まれるほど、政治に関わっていません。

 ペリー提督の来航、水戸藩からの尊皇攘夷、長州の過激攘夷論、桜田門外の変、薩摩による公武合体論、文久の改革、と幕府の根幹が一気に崩れますが、広島藩は我関せずです。

 その理由のひとつとして、浅野家は徳川御三家に近い血筋が多々入っている。かたや、豊臣政権時代には、浅野長政が五奉行の筆頭(内閣総理大臣)という、複雑な立ち位置にあったからです。
 そんな広島が急激に動いたが「禁門の変」で、長州藩の毛利家が朝敵になり、孝明天皇の征討の勅命が幕府に出たときからです。
 長州戦争を前にして、幕府と長州を仲介する役がいない。まわりの諸藩は逃げ回っていた。ならば、徳川系にも、豊臣系にも、顔がきく広島藩が双方の仲介役を買って出たのです。
 ここから、広島藩が強烈に幕末歴史に登場してきます。  

【今回の放送内容のあらすじ】

 総督の尾張慶勝(元尾張藩主)と参謀・西郷隆盛(薩摩藩)らが、孝明天皇から幕府に朝敵の長州を討て、という大命題に添わず、毛利敬親・親子の処分を行わず引き揚げた。
「芋の悪だくみに、慶勝は乗せられた」と一橋慶喜の怒りを買った。そこで、14代家茂将軍を江戸城から大坂城へと出陣し、諸藩にふたたび出陣を要請した。


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  越後高田藩の出兵風景。明治最後の絵師:揚州周延(橋本直義)の作

 35藩のいずこも、「わずか四か月のあと、また長州出兵か」とウンザリ。戦意もなく、死にたくないし、武器砲弾も自前だし、それも消費したくない。厭戦気分だった。

 ちなみに、越後高田藩は、幕府の第二次長州征伐の出兵要請で、4500人の藩兵は慶応元(1865)年5月に大阪に向けて出発した。幕府の方針が細部で煮詰まらず、半年は大坂で無為に過ごす。やがて、大坂から広島藩領の海田に12月に到着した。ここからも明日の戦いはやるのか、やらないのかと、長期に7カ月も滞陣する。厭戦ムードは高まるばかり。

  かれら国元、あるいは江戸藩邸を出てから延べ13カ。妻子や家族を想う望郷の念の書簡が多く残されています。

「なんで第一次で決着できなかったのだ』と不満が募る。第二次長州征討の戦いに勝ったところで、幕府から報奨金が貰えるわけではない。兵士にかかる衣食住と宿賃は、幕府の補填がなく、すべて藩の負担になる。

            *

 広島藩は「この2回目の征討には大義がない」と猛反対だった。
 慶応2(1866)年6月には5月、広島藩学問所(現・修道高校)のOB・若者たち55人が、前線基地の広島にきていた老中・小笠原にたいして暗殺予告まで行う。騒然となった。広島藩は藩主・長訓、世子・長勲の仲介で、広島藩出兵拒否で解決を図った。

 翌6月には、第二次長州戦争が勃発した。6月は長州軍は岩国から大竹・大野に入り、旧式武装の彦根藩、高田藩を打ち負かし、広島城下に近い廿日市、五日市に勢いよく進軍した。
 それを見た幕府は真剣になり、フランス式最新部隊の紀州藩を芸州口の最前線に投入してきた。紀州藩は互角以上に戦うし、沖合の幕府軍艦から連続して艦砲射撃で長州兵を打ち負かす。長州藩は岩国に近くまで逃げ帰った。

 芸州広島藩が乗りだし、安芸領(広島領)で戦争するな、領民が迷惑だと言い、長州軍と幕府軍の間に割り込んだ。戦争以前の状態にもどさせた。
 芸州口の戦いは、後世で言われるほど、長州の勝利ではなかったのだ。

1か月後の7月、大坂城で、14代家茂将軍が20歳の若さで死去したのである。
「将軍が死去して、本州の外れの一藩と関わっている暇はない。勝海舟、休戦してこい」
 一橋慶喜の命令で、海軍奉行の勝海舟が単独で広島城下にやってきた。広島藩の執政・辻将曹が勝と面談したうえで、宮島(広島県)で、双方の休戦協定が結ばれた。

 長州は、馬関海峡をはさむ小倉藩との戦いでも、九州男児の死に物狂いのゲリラ戦だの、小倉城を自焼するだの、決して楽な戦場ではなかった。沖に幕府海軍の軍艦が終結している。まだ、火を噴いていない。
 長州側も、徹底抗戦し、大坂、京都、江戸に攻め入る力などない。辻将曹の和解に快く乗ってきた。9月初旬に、幕府と薩摩との和平協定が結ばれた。しかし、長州の朝敵と、毛利家処分問題が解決したわけではない。たんなる戦争の現状維持の停止だった。

 この慶応2年12月には、ペリー来航以来、朝廷政治を取り戻そうとする孝明天皇が死去した。政治が混沌としてきた。ただ、長州の朝敵が外れたわけではない。

 その後においても、幕閣(江戸城組)は、未解決の毛利処分を言いだす。芸州広島藩などいくつかの諸藩に、萩城の毛利敬親・定広の親子を捕縛し、江戸に連れて来い。処分は江戸で命じるからという。
「そんなことはできるはずがない」
 どの藩も拒否すると、幕閣はならば、第三次長州征討を言い出す。

「ここで3度目の長州征討をやれば、疲弊した民は塗炭の苦しみに陥る。西洋諸国は、内戦を口実に内政干渉し、植民地になる恐れがある。こんな幕府は政権を朝廷にもどさせよう」

 広島藩主の浅野長訓、世子の長勲はそう決断した。慶応三(1867)年正月、広島藩の執政・石井修理が老中筆頭・板倉勝静(かつきよ)に「大政奉還の建白書」を提出した。これは一般にいわれている後藤象二郎の「大政奉還の建白書」よりも、10カ月も早いものだった。
 しかし、幕府は拒否でもなく、無視だった。


写真=ネットより
                
 この慶応3年5月に、幕府と雄藩の有力大名との「四侯会議」が京都で開かれた。「長州藩処分問題」と「兵庫港の開港問題」が主要課題だった。
 島津久光(薩摩藩)が音頭を取り、松平春嶽(前越藩)、山内容堂(土佐藩)、伊達宗城(宇和島藩)らによる幕府の諮問会議の形態だった。ただ、薩摩のイニシアチブを嫌う德川慶喜が、この「四侯会議」を分裂・解体させたのだ。

         *
 
 「四侯会議」の分解をみた広島藩は、幕府に期待するものがないとして、「大政奉還」を藩論とした。執政の辻将曹など、多くの有能な広島藩士が、大藩に「大政奉還」に働きかけた。薩摩、土佐。さらに岡山藩、鳥取藩、徳島藩などである。


 御手洗港(広島県・大崎下島 写真)で、薩芸交易が盛んにおこなわれている。かたや、宮島(広島県)で芸長交易がある。これは薩摩、長州、広島は深い三角貿易の経済圏であった。
 この3藩がやがて結びついて、薩長芸軍事同盟ができる。
 
 まず、広島藩の辻将曹の働きかけ、薩摩の島津久光が「大政奉還」に乗ってきた。薩摩家老の小松帯刀も賛成した。小松が札度同盟土佐藩にも持ち込む。後藤象二郎は山内容堂から、建白書の提出は良いが、武力圧力に反対された。

 広島藩は、この「四侯会議」の空中分解を機に動き出す。まず、薩摩藩の島津久光、
「土佐がダメならば、朝敵の長州を誘い込もう」
 小松帯刀の奇策に対して、長州は待ちに待っていたと乗ってきた。
 ここに薩長芸軍事同盟が結ばれた。

 ただ、後藤象二郎が抜け駆けで徳川慶喜将軍に、大政奉還建白書を出した。慶喜が公議政体論者でもあったことから、これにのって政権を朝廷に返還した。朝廷も受理した。
 
 大政奉還のあと、藝州広島藩は藩論が割れた。鳥羽伏見の戦いが勃発したが……。広島藩は非戦を唱えた。広島藩は伏見街道に、軍隊を出しながらも、辻将曹は一発も撃たせなかった。「これは薩摩と、会津の遺恨に過ぎない戦いだ」
 その認識が、広島藩の幕末の存在を消してしまったといえる。

 広島は日和見主義、臆病風が吹いた、と侮られた。これが広島に伝わると、かれら神機隊の320人は憤り、戊辰戦争の関東、奥州への出兵を決めます。広島藩の藩政府は彼らの出兵を認めなかった。すると、神機隊の320人は全員が脱藩届を提出し、自費をもって、出兵します。

 第二次長州征討には小笠原老中を暗殺してまでも、無益な戦争を止めようとしていた若者たちです。それなのに、かれら若者は命を惜しまず、出兵します。そして、最も激戦地を選び、戦います。

 くわしくはこちらからお聞きくださいからお聞きください

徳川幕府を揺るがせた「攘夷思想」の誕生 

攘夷思想は「黒船とペリーが原因」だと歴史教科書では教えられていますが、「実は、そうではない」と、穂高健一が判りやすく解説します。

① 開国派、攘夷派とは

② なぜ、水戸徳川家が攘夷論を言い出したのか?

③ 孝明天皇は、どうして攘夷派になった?

④ 尊王攘夷は正しいのか?

 この①から④まで、幕末史ではとても重要です。薩長史観では、これまでかなり史実が曲げられてきました。穂高健一が、より歴史的事実に近いところから解説しています。

 「広島テレビ・カルチャーセンターにて」

広報室  山澤直行


【映像を左クリックすれば、YouTubeで動画を見ることができます】

作者が取材から語る「安政維新・阿部正弘の生涯」

 日本の国難を救った人物は、北条時宗、阿部正弘だと言われています。
 みなさんは、どの程度、阿部正弘を知っているでしょうか。もし、39歳で死去した老中・阿部正弘がわが国にいなければ、尊皇攘夷論の旗の下で、強烈な軍隊をもった西洋列強と戦争したでしょう。そして、清国のようにアヘンがまん延し、わが国はまちがいなく殖民地になっていたでしょう。
 薩英戦争、下関戦争、という薩長の悲惨な負け方からも、かんたんに想像がつきます。

「夷狄に打ち勝つ。それが大和魂だ」。この尊皇攘夷思想は、とても危険な思想です。第二次世界大戦まで、軍部を支えた中枢の思想です。
「勇ましく西洋人に打ち勝つ」.日本は古来、二度の蒙古襲来で、『神風が吹いた』という神がかりから、北条時宗は1945年の原爆投下、敗戦日まで、神さま扱いです。実際に、学徒、予科練、あらゆる若者が徴兵されて、「神風特攻隊」と名のもとに、命を失くしました。

 かたら、軍国主義の目線から、「ペリー提督が浦賀にきたとき、阿部正弘は蹂躙(じゅうりん)させられて、開国した」という、水戸藩の徳川斉昭の法螺(ほら)を太平洋戦争末期まで、引きずりました。

『北条時宗は英雄、阿部正弘は日本を売った』、という歴史のねつ造が軍国教育でまかり通っていたのです。

                *

 アジア、アフリカ、南アメリカを見わたせば、日本が唯一植民地にならなかった国です。厳密にいえばタイ国も半独立を保てていました。この国は疫病のまん延で、西洋諸国の軍隊が入っていけなかったのです。
「西洋は強烈な武力をもってくる。日本は優秀な人材を選りすぐって外交で勝つ」
 これが阿部正弘の戦略です。
 
 阿部正弘が老中首座のときに設立したのが「誠之館」です。いま広島県立誠之館高校になっています。小学校は東京都文京区の誠之館小学校です。いつ設立されたか。皆さんはご存知ですか。嘉永6(1853)年12月です。

 この年にはペリー提督が6月3日に浦賀にやって来ます。ペリーはアメリカ大統領の国書を持参し、来年には回答をもらいに来る、と立ち去ります。すぐさま、第12代德川家慶が急死し、身体障害者の家定が13代将軍になります。
 すべての責任が老中首座の阿部正弘の力量にかかってきます。
「德川御三家」が幕政に口を出すのは家康の時代からご法度(同族の政治は短命だという家康の考え方)。老中政治が250余年支えてきました。
 しかし、水戸藩の斉昭は、老中首座の阿部にたいして攘夷を振りかざします。神風が吹く、大和魂で退治せよ、と執拗に申し出ます。阿部は拒絶します。
 そういう多難な同年に、阿部正弘は江戸と福山に、人材育成のために「誠之館」を設立するのです。
 こんなすごい人材主義の阿部正弘は、日本人の誇りだと思いませんか。現に、植民地にはなっていません。


 誠之館高校の会報の5月号に、穂高健一が「阿部正弘について寄稿しています。

 (写真を左クリックすれば、内容が読めます)


こちらからPFFで読めます

                    広報室 山澤直之 (監修・穂高健一)

作家に学ぶ歴史講座「激動の幕末広島藩」=広島城内

 歴史は人間の英知がたっぷりあります。将来に生きるためには、過去の歩み、歴史をヒントにする。
 広島の人は、歴史に疎い。毛利元就から原爆まで、大半の人が認識していない。原爆の被災者から、憐れみを語れば、世界に通用してきた広島だった。もはや原爆三世の時代です。生々しい悲惨を語り、被曝の同情だけでは前にむかっていけない。
「世界遺産」として物理的な歴史的な建造物になった。

「なぜ、広島に原爆が落されたのですか」という質問にも、大半の広島人は応えられない。それが明確に答えられなくても、自分たちの歴史を知らなくても、世界から国から被曝支援金が入ってくるのです。

 一言でいえば、150年前に「尊王攘夷」という思想がなければ、広島、長崎には原爆が落ちなかったでしょう。それを簡略にわかりやすく説明できないようでは、広島人はなさけないと穂高健一は常に語っています。

 人類はつねに疫病、戦争、飢餓という三大災害と戦ってきた。日本人はどんな風に戦ったのか。そこには英知がいっぱい詰まっています。

「いまからでも遅くない。歴史を学ぼうよ」と広島人に語っています。

 広島県大崎上島町出身者から、穂高健一は広島の恥部でも語れるのですよ。他府県の人は遠慮して、広島は原爆に寄りかかりすぎると語れないでしょう。故郷愛がとても強いから、広島の事を思えばこそ、耳ざわりのことも言うのですよ、と語る。

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作家に学ぶ歴史講座「激動の幕末広島藩」


 講演日は2019年9月8日、広島城内

戊辰戦争は、薩摩の膨大な贋金で、西軍が勝利した

 戊辰戦争は、なぜ幕府軍は負けたか。戦争はお金がなければ、勝てない。それを150年間も隠し続けたのが、学者や歴史作家である。
「学者が隠す、薩摩藩の悪質な密貿易、贋金づくりが徳川家をつぶした」

穂高健一が史料から、暴露する。

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戊辰戦争は、薩摩の膨大な贋金で、西軍が勝利した

坂本竜馬が新谷道太郎に、御手洗の重大な4藩密議「薩長芸土軍事同盟」は60年間は伏せておけよ、と語った

 慶応3(1867)年の慶喜から朝廷に、大政奉還から小御所会議、鳥羽伏見の戦いまで、幕末史の謎の空白です。

 大政奉還が慶応3(1867)年10月15日です。坂本龍馬が暗殺されたのが、翌月の11月15日です。その1週間前には、大崎下島・御手洗港の新谷道太郎の本堂で、重大な4藩軍事同盟が結ばれました。(薩長芸土の大物たち)。大政奉還が成功したので、どんな新政府にするか、どのように挙兵し、京都から幕府の一会桑を武力でおいだすか、という極秘の戦略です。

 極秘ゆえに、幕末史の空白が生じています。それゆえに、当時の学者たちは推定、推論を交えた仮説を立てました。その推論が独り歩きし、幕末史が整合性が合わなくなっても、やがて国民的常識になったのです。
 戦後になると、司馬遼太郎著「龍馬がゆく」が、それに輪をかけたので、薩長芸土の密議の存在を問うとか、真剣な討議がなされなくなっています。
 かたや、学問的な公平さから、坂本龍馬の業績は何か、と問われて教科書から外れてしまいました。
しかしながら、慶応3年11月3日から、御手洗港の4藩軍事同盟の主要人物として、坂本龍馬が参加していたことは間違いないでしょう。龍馬の直筆で「新政府綱領八策」が、二通現存していますから。

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<p>  この密議の最終日に、龍馬が新谷に「これは60年間黙っておれよ。口にすれば、佐幕派から殺されるぞ」と極秘としました。<br />
 昭和に入り、新谷道太郎が島根県の湯野津で語り、当時グンゼの総務課長が口実筆記したものが、「維新志士の話 新谷翁の話」諏訪正編者として、現存しています。<br />
 当時から現在まで、学者はこの話はでたらめだと否定しています。</p>

<p>「新谷道太郎の話はウソ?ホント??」</p>

<p> 広島テレビカルチャーセンターのキャンパスで、穂高健一が「維新志士の話 新谷翁の話」の書籍を発見するまで、推移を語っています。<br />
                         広報・山澤<br />
【ユーチューブ】<br />
<a href= >穂高健一が語る坂本龍馬の謎


「明治政府に隠されてしまった大崎下島「御手洗」

 RCC(中国放送)ラジオで、毎月、第一週の土曜日の9蒔05分から穂高健一の「幕末・明治・大正の荒波から学べ」歴史スペシャル!が放送されています。「明治政府に隠されてしまった大崎下島「御手洗」です。今月もかなり重要です。
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イラストを左クリックすると、《一文字弥太郎の週末ナチュラリスト》に飛べます


 前回まで、ここまで第一次長州征伐で、長州征討総督の尾張藩元藩主・徳川慶勝と、同参謀の薩摩藩・西郷隆盛がうやむやな戦後処理をしたところまで、穂高さんは語られています。

 毛利家の処分はせず、「なんのために大規模な征討だったのか。朝敵の毛利家になんら処罰をしていなかった」。
 一橋家の徳川慶喜は、征討総督の尾張藩の慶勝が、参謀の西郷隆盛から「まんまんと、芋を喰わされてしまった」と激怒しています。歴史的な事実です。

 それはどういうことか。芋とは当時、民衆まで、薩摩人を芋と称しています。日本人は米の日本酒を飲む。薩摩人は貧しい芋焼酎を飲む、犬猫を食していると、さげすんだ言葉です。
 「芋を喰わされた」とは、陰謀の多い薩摩・西郷の罠にかかったという意味です。

 時代的なみても、討つべき毛利家は過激な攘夷派の長州だった。西郷は水戸藩の斉昭の攘夷派とつながっていた。さらに慶勝は水戸斉昭の血筋で、実の甥ッ子だった。さかのぼること安政5年(1858年)には、水戸斉昭ら、水戸藩主の尾張藩主の慶勝らが、不時登城(幕府のご法度)をおこなった。これが井伊直弼の逆鱗に触れて、大勢が血をながす「安政の大獄」が始まったのである。その主要な責任の一端は攘夷思想に固まった慶勝にもある。

 こう見てきますと、第一回の征討の大軍の総督の慶勝も、参謀の西郷も、朝敵となった毛利家も、みな攘夷派だったのです。処分に甘いという処分に終えたというよりも、なんら罰を与えなかったのだ。これが遺恨を残しました。

 現代的に現代的にいえば、数千の兵士で京都御所を襲い、孝明天皇を拉致しようとした長州軍の最高責任者だった毛利敬親と定広にたいし、総督府は起訴留保としたのです。

 そんな攘夷派の尾張・慶勝が、長州征討の重要な参謀を西郷に任せてしまった。30藩15万人の兵を向かわしながらも、結果として、肝心な毛利家処罰はしていない。「いったい何のための出陣だ」と慶喜は激しく批判をしたのです。慶勝は「芋を喰わされてしまった」と、西郷の意見を鵜呑みで、薩摩の陰謀(ペテン)にかかってしまったのだと激怒したのです。

「これは孝明天皇が幕府・征夷大将軍に命じた毛利家処分の征討だ。このままでは、孝明天皇に示しがつかない」
 そこで、第二次長州征討が企てられます。幕府は体面上から徳川14代家茂将軍の出陣をうながします。将軍はみずから大阪城まで出陣してきます。

 他方、広島藩などは第一次征討で決着したはずだ、ここで幕府と長州が大規模な戦争となれば、わが国の民は疲弊し、西洋列強の内政干渉を誘い、武力陥入する口実を与えてしまうだろう。最悪は植民地になる。
 広島藩はゆいいつ幕府の方針に逆らい、戦争回避の建白書を次々と大阪城の家茂将軍、各老中にさしむけました。その数は10数回におよびます。広島藩は先陣の出兵拒否もした。しかし、幕府側は広島藩執政の野村帯刀、辻将曹らに謹慎処分を出します。

             *

 広島の学問所の若者・OBたち(後の神機隊の設立者たち)は、広島に滞在する小笠原長行に、暗殺予告をします。暗雲たちこめた広島城下です。

             *     


 慶応2(1866)年6月14日に、幕府軍と長州軍が戦闘状態に入った。その戦争の最中に、家茂将軍(20歳)が大阪城で死去した。ここに、広島藩立会いの下で、幕府側と長州藩が宮島で一時休戦を結ぶ。

「長州戦争などはやってはならない。民が塗炭(とたん・極貧)の苦しみに陥る」と徹底的反対してきた広島藩は、とうとう倒幕路線になります。
「こんな幕府に政治を任せていては日本国がつぶれてしまう。徳川家には、政権を朝廷に返還させよう」と大政奉還が藩論になります。そして、広島藩はまず薩摩藩に呼びかけ、さらに長州藩も巻き込みます。
 ここに薩長芸軍事同盟が結ばれて、倒幕へと突っ走っていきます。


 御手洗港の胡子屋前  島々に囲まれた〈汐待ち、風待ちの良港〉、薩摩藩の贋金が発掘された


 第15代将軍の徳川慶喜から朝廷に政権が返還されます。『大政奉還』。それにとどまらず、慶応3年11月3日から7日まで、土佐藩の坂本龍馬も含くめて、御手洗で薩長芸土の4藩軍事同盟の密儀が行われます。
 1週間後、坂本龍馬は京都で暗殺されます。その土佐藩は山内容堂に出兵を拒否されますが、薩長芸の三藩は6500人という幕末最大の大規模な挙兵へと進みます。


 ここらは詳しくは、RCC(中国放送)ラジオ6月12日の穂高健一の「幕末・明治・大正の荒波から学べ」歴史スペシャルでお聞きください。
 このコーナーはポッドキャストでも配信中です。


             広報室・山澤直行

「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより= RCC放送・徳川幕府瓦解のはじまり

 昨年(2020年)4月から、RCC(中国放送)ラジオ「一文字弥太郎のナチュラリスト」において、毎月・第2土曜日・9蒔05分から、穂高健一の「幕末・明治・大正荒波から学べ」というレギュラー放送されています。
 こんかいで14か月におよび、リスナーからの再生回数も上がり、人気番組になりつつあります。
 
 「幕末藝州広島藩研究会」広報室として、RCCラジオ番組の内容や、リスナーの反応とか、取り上げてあげていきます。(広報室・山澤直行)
 
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イラストを左クリックすると、《一文字弥太郎の週末ナチュラリスト》に飛べます

《4月10日の放送:265年間もつづいた徳川幕府が、滅亡となった原因とはなにか? 》

◎一文字弥太郎から、穂高健一に問う。

 「徳川幕府が滅亡した最大原因の一つが第一次長州戦争としていますが、その理由はなんですか?」(一般に、第二次長州戦争の幕府敗北をあげている)

 「それと、広島藩はこの第一次長州戦争にどのようにかかわっていますか?」

☆「穂高健一の語り」

 総督・徳川慶勝(よしかつ)、参謀・西郷隆盛が、孝明天皇から命じられた朝敵・長州藩を討つ、そのための30藩・約15万の兵だった。だが、参謀・西郷隆盛が慶勝に進言し、無責任にも、毛利敬親・広封の父子の処分「長州処分」をまったくせず、全軍の総引き揚げをしてしまった。
 慶勝(よしかつ)、隆盛ともに、過激攘夷派であり、安政の大獄で失脚している。おなじく長州藩も過激攘夷派で、本気で、討つつもりはなかった。むしろ、幕府軍を追い払う形になるった。
 これが2度目の長州戦争・再討となり、幕府にとって重圧になり、瓦解の最大要因となりました。

 一文字・穂高のやり取り、ラジオで聴く:徳川幕府瓦解への道を検証・第一次長州戦争


《5月11日の放送:第二次長州戦争、大政奉還、新政樹立へと進む》


◎ 一文字弥太郎から、穂高健一に問う。

 「第一次長州戦争が未解決。さらに、薩長同盟による第二次長州戦争の幕府敗北となった。広島藩が主導して薩長芸軍事同盟ができて、徳川政権の瓦解になった。広島藩は主導しながらも、なぜ、明治政府の重要ポストにつかなかったのか? 」

☆「穂高健一の語り」
 第一次の参謀の西郷が、幕府に大恥をかかせた。尾張藩の元藩主・徳川慶勝裏で唆(そそのか)し、総引き揚げさせた。第二次長州征討で、『長州を討ったあと、西郷の薩摩も討て』と江戸・幕閣(小栗上野助)から指示が出た。
 薩摩藩(西郷)は、幕府ににらまれてしまい、一転して長州と手をむすばざるを得なかった。木戸孝允は薩摩逆境を知っていた。『ならば、長州が朝敵から解除るように、尽力してくれ』と同盟に応じた。従来の司馬史観と違い、薩摩側から長州に近づいたものである。

 広島藩は、西洋列強が日本列島を取り囲んでいる、薩長を巻きこんだ大規模な戦争をやっている時ではない。このさい、徳川幕府には政権を朝廷に返上させようと、薩長芸軍事同盟による大政奉還へと進んで成功した。王政復古の大号令が出たあと、広島藩は薩長や佐賀藩のように、個人プレイができなかった。

 一文字・穂高のやり取り、ラジオで聴く。徳川幕府瓦解への道を検証・第二次長州戦争

《リスナーの声』

 一文字さん、岡さんお早うございます穂高先生のお話、生でお聞きしました。
 我が福山藩も、第二次長州征伐に行きました。益田の石州口で戦ったんですが、かの大村益次郎にコテンパンにやられました。その痕跡が、お寺の柱の弾痕に残っていました。そのお寺の名前は、忘れてしまいましたが、資料を探せば分かります。

 そこで戦死した13名の位牌を、今でも祀ってくださってます。

 福山藩の陣を張っていたお寺なのでしょうかあ、やっぱり戦争がここであったのだなあ、と実感した次第です。
 福山の人はすっかり忘れているのに…。ありがたいお寺さんです。南無阿弥陀合掌

 来月もまた、よろしくお願いいたします。

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「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより= 中国新聞・書評「紅紫の館」

 穂高健一著『紅紫の館」がこの5月9日の中国新聞の書評欄に掲載されました。タイトルは「幕末からみた戊辰戦争とは」です。記者は、城戸良彰さんです。

 現在、NHKの大河ドラマでは、渋沢栄一を主人公として「青天を衝け」が放映されています。
 渋沢は、深谷(現・埼玉県)の農家の出身です。そして、尊王攘夷から、一転し一ツ橋家に入り、めきめきと急上昇して、日本の資本主義の父と言われるまでになりました。

 これまで、幕末の大河ドラマでは薩長の視線から描かれていました。德川側(江戸・東京)はいつも倒される側であり、幕末史の主役ではなかった。それが徳川側からみた幕末史です。

 同様に、穂高健一著「紅紫の館」の主人公は、現在の東京都足立区の郷士・日比谷健次郎を主役にして描いています。
 渋沢と同様に、德川の目線です。新しい角度の幕末歴史小説です。

 今後、この徳川からみた史観が傾向になる予兆すら感じます。    
                                広報室・山澤直行
                              

ジャーナリスト
小説家
カメラマン
登山家
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「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより
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