「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより

「明治政府に隠されてしまった大崎下島「御手洗」

 RCC(中国放送)ラジオで、毎月、第一週の土曜日の9蒔05分から穂高健一の「幕末・明治・大正の荒波から学べ」歴史スペシャル!が放送されています。「明治政府に隠されてしまった大崎下島「御手洗」です。今月もかなり重要です。
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イラストを左クリックすると、《一文字弥太郎の週末ナチュラリスト》に飛べます


 前回まで、ここまで第一次長州征伐で、長州征討総督の尾張藩元藩主・徳川慶勝と、同参謀の薩摩藩・西郷隆盛がうやむやな戦後処理をしたところまで、穂高さんは語られています。

 毛利家の処分はせず、「なんのために大規模な征討だったのか。朝敵の毛利家になんら処罰をしていなかった」。
 一橋家の徳川慶喜は、征討総督の尾張藩の慶勝が、参謀の西郷隆盛から「まんまんと、芋を喰わされてしまった」と激怒しています。歴史的な事実です。

 それはどういうことか。芋とは当時、民衆まで、薩摩人を芋と称しています。日本人は米の日本酒を飲む。薩摩人は貧しい芋焼酎を飲む、犬猫を食していると、さげすんだ言葉です。
 「芋を喰わされた」とは、陰謀の多い薩摩・西郷の罠にかかったという意味です。

 時代的なみても、討つべき毛利家は過激な攘夷派の長州だった。西郷は水戸藩の斉昭の攘夷派とつながっていた。さらに慶勝は水戸斉昭の血筋で、実の甥ッ子だった。さかのぼること安政5年(1858年)には、水戸斉昭ら、水戸藩主の尾張藩主の慶勝らが、不時登城(幕府のご法度)をおこなった。これが井伊直弼の逆鱗に触れて、大勢が血をながす「安政の大獄」が始まったのである。その主要な責任の一端は攘夷思想に固まった慶勝にもある。

 こう見てきますと、第一回の征討の大軍の総督の慶勝も、参謀の西郷も、朝敵となった毛利家も、みな攘夷派だったのです。処分に甘いという処分に終えたというよりも、なんら罰を与えなかったのだ。これが遺恨を残しました。

 現代的に現代的にいえば、数千の兵士で京都御所を襲い、孝明天皇を拉致しようとした長州軍の最高責任者だった毛利敬親と定広にたいし、総督府は起訴留保としたのです。

 そんな攘夷派の尾張・慶勝が、長州征討の重要な参謀を西郷に任せてしまった。30藩15万人の兵を向かわしながらも、結果として、肝心な毛利家処罰はしていない。「いったい何のための出陣だ」と慶喜は激しく批判をしたのです。慶勝は「芋を喰わされてしまった」と、西郷の意見を鵜呑みで、薩摩の陰謀(ペテン)にかかってしまったのだと激怒したのです。

「これは孝明天皇が幕府・征夷大将軍に命じた毛利家処分の征討だ。このままでは、孝明天皇に示しがつかない」
 そこで、第二次長州征討が企てられます。幕府は体面上から徳川14代家茂将軍の出陣をうながします。将軍はみずから大阪城まで出陣してきます。

 他方、広島藩などは第一次征討で決着したはずだ、ここで幕府と長州が大規模な戦争となれば、わが国の民は疲弊し、西洋列強の内政干渉を誘い、武力陥入する口実を与えてしまうだろう。最悪は植民地になる。
 広島藩はゆいいつ幕府の方針に逆らい、戦争回避の建白書を次々と大阪城の家茂将軍、各老中にさしむけました。その数は10数回におよびます。広島藩は先陣の出兵拒否もした。しかし、幕府側は広島藩執政の野村帯刀、辻将曹らに謹慎処分を出します。

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 広島の学問所の若者・OBたち(後の神機隊の設立者たち)は、広島に滞在する小笠原長行に、暗殺予告をします。暗雲たちこめた広島城下です。

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 慶応2(1866)年6月14日に、幕府軍と長州軍が戦闘状態に入った。その戦争の最中に、家茂将軍(20歳)が大阪城で死去した。ここに、広島藩立会いの下で、幕府側と長州藩が宮島で一時休戦を結ぶ。

「長州戦争などはやってはならない。民が塗炭(とたん・極貧)の苦しみに陥る」と徹底的反対してきた広島藩は、とうとう倒幕路線になります。
「こんな幕府に政治を任せていては日本国がつぶれてしまう。徳川家には、政権を朝廷に返還させよう」と大政奉還が藩論になります。そして、広島藩はまず薩摩藩に呼びかけ、さらに長州藩も巻き込みます。
 ここに薩長芸軍事同盟が結ばれて、倒幕へと突っ走っていきます。


 御手洗港の胡子屋前  島々に囲まれた〈汐待ち、風待ちの良港〉、薩摩藩の贋金が発掘された


 第15代将軍の徳川慶喜から朝廷に政権が返還されます。『大政奉還』。それにとどまらず、慶応3年11月3日から7日まで、土佐藩の坂本龍馬も含くめて、御手洗で薩長芸土の4藩軍事同盟の密儀が行われます。
 1週間後、坂本龍馬は京都で暗殺されます。その土佐藩は山内容堂に出兵を拒否されますが、薩長芸の三藩は6500人という幕末最大の大規模な挙兵へと進みます。


 ここらは詳しくは、RCC(中国放送)ラジオ6月12日の穂高健一の「幕末・明治・大正の荒波から学べ」歴史スペシャルでお聞きください。
 このコーナーはポッドキャストでも配信中です。


             広報室・山澤直行

「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより= RCC放送・徳川幕府瓦解のはじまり

 昨年(2020年)4月から、RCC(中国放送)ラジオ「一文字弥太郎のナチュラリスト」において、毎月・第2土曜日・9蒔05分から、穂高健一の「幕末・明治・大正荒波から学べ」というレギュラー放送されています。
 こんかいで14か月におよび、リスナーからの再生回数も上がり、人気番組になりつつあります。
 
 「幕末藝州広島藩研究会」広報室として、RCCラジオ番組の内容や、リスナーの反応とか、取り上げてあげていきます。(広報室・山澤直行)
 
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イラストを左クリックすると、《一文字弥太郎の週末ナチュラリスト》に飛べます

《4月10日の放送:265年間もつづいた徳川幕府が、滅亡となった原因とはなにか? 》

◎一文字弥太郎から、穂高健一に問う。

 「徳川幕府が滅亡した最大原因の一つが第一次長州戦争としていますが、その理由はなんですか?」(一般に、第二次長州戦争の幕府敗北をあげている)

 「それと、広島藩はこの第一次長州戦争にどのようにかかわっていますか?」

☆「穂高健一の語り」

 総督・徳川慶勝(よしかつ)、参謀・西郷隆盛が、孝明天皇から命じられた朝敵・長州藩を討つ、そのための30藩・約15万の兵だった。だが、参謀・西郷隆盛が慶勝に進言し、無責任にも、毛利敬親・広封の父子の処分「長州処分」をまったくせず、全軍の総引き揚げをしてしまった。
 慶勝(よしかつ)、隆盛ともに、過激攘夷派であり、安政の大獄で失脚している。おなじく長州藩も過激攘夷派で、本気で、討つつもりはなかった。むしろ、幕府軍を追い払う形になるった。
 これが2度目の長州戦争・再討となり、幕府にとって重圧になり、瓦解の最大要因となりました。

 一文字・穂高のやり取り、ラジオで聴く:徳川幕府瓦解への道を検証・第一次長州戦争


《5月11日の放送:第二次長州戦争、大政奉還、新政樹立へと進む》


◎ 一文字弥太郎から、穂高健一に問う。

 「第一次長州戦争が未解決。さらに、薩長同盟による第二次長州戦争の幕府敗北となった。広島藩が主導して薩長芸軍事同盟ができて、徳川政権の瓦解になった。広島藩は主導しながらも、なぜ、明治政府の重要ポストにつかなかったのか? 」

☆「穂高健一の語り」
 第一次の参謀の西郷が、幕府に大恥をかかせた。尾張藩の元藩主・徳川慶勝裏で唆(そそのか)し、総引き揚げさせた。第二次長州征討で、『長州を討ったあと、西郷の薩摩も討て』と江戸・幕閣(小栗上野助)から指示が出た。
 薩摩藩(西郷)は、幕府ににらまれてしまい、一転して長州と手をむすばざるを得なかった。木戸孝允は薩摩逆境を知っていた。『ならば、長州が朝敵から解除るように、尽力してくれ』と同盟に応じた。従来の司馬史観と違い、薩摩側から長州に近づいたものである。

 広島藩は、西洋列強が日本列島を取り囲んでいる、薩長を巻きこんだ大規模な戦争をやっている時ではない。このさい、徳川幕府には政権を朝廷に返上させようと、薩長芸軍事同盟による大政奉還へと進んで成功した。王政復古の大号令が出たあと、広島藩は薩長や佐賀藩のように、個人プレイができなかった。

 一文字・穂高のやり取り、ラジオで聴く。徳川幕府瓦解への道を検証・第二次長州戦争

《リスナーの声』

 一文字さん、岡さんお早うございます穂高先生のお話、生でお聞きしました。
 我が福山藩も、第二次長州征伐に行きました。益田の石州口で戦ったんですが、かの大村益次郎にコテンパンにやられました。その痕跡が、お寺の柱の弾痕に残っていました。そのお寺の名前は、忘れてしまいましたが、資料を探せば分かります。

 そこで戦死した13名の位牌を、今でも祀ってくださってます。

 福山藩の陣を張っていたお寺なのでしょうかあ、やっぱり戦争がここであったのだなあ、と実感した次第です。
 福山の人はすっかり忘れているのに…。ありがたいお寺さんです。南無阿弥陀合掌

 来月もまた、よろしくお願いいたします。

【関連情報】

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「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより= 中国新聞・書評「紅紫の館」

 穂高健一著『紅紫の館」がこの5月9日の中国新聞の書評欄に掲載されました。タイトルは「幕末からみた戊辰戦争とは」です。記者は、城戸良彰さんです。

 現在、NHKの大河ドラマでは、渋沢栄一を主人公として「青天を衝け」が放映されています。
 渋沢は、深谷(現・埼玉県)の農家の出身です。そして、尊王攘夷から、一転し一ツ橋家に入り、めきめきと急上昇して、日本の資本主義の父と言われるまでになりました。

 これまで、幕末の大河ドラマでは薩長の視線から描かれていました。德川側(江戸・東京)はいつも倒される側であり、幕末史の主役ではなかった。それが徳川側からみた幕末史です。

 同様に、穂高健一著「紅紫の館」の主人公は、現在の東京都足立区の郷士・日比谷健次郎を主役にして描いています。
 渋沢と同様に、德川の目線です。新しい角度の幕末歴史小説です。

 今後、この徳川からみた史観が傾向になる予兆すら感じます。    
                                広報室・山澤直行