「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより

「新刊予告」 穂高健一著「八月十日よ、永遠なれ」 ことし(2025年)6月27日 全国一斉販売します

作品名 : 「八月十日よ、永遠なれ」

著者 :  穂高健一

出版社 : 南々社

四六判 288ページ 定価1600円+税160円

発売日 : 2025年6月27日(金)
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日清・日露戦争から、太平洋戦争へ、戦争の真実に迫る高校生たちの物語です。

・日清・日露戦争はだれが仕掛けたのか?
・どうして太平洋戦争はすぐに終わることができなかったのか?
・なぜ広島に原爆が落とされたのか。
・アメリカ・トルーマン大統領は、広島の原子雲の写真を見せられて、『原子雲の下に女と子どもがいるのか、そんなばかな』と絶句した。それは......

歴史書と青春小説が融合し、「近現代史が」小説で学ぶことのできる「書き下ろし歴史小説」です。


中国放送(RCC)ラジオに、穂高健一氏「広島城・護国神社をたどる」に出演  山澤直行

 RCC(中国放送)のラジオ番組の【週末ナチュラリスト】は毎土曜の朝に、岡佳奈さんが広島の旬な話題と幅広いジャンルを、流行に敏感なリスナーのために送る4時間の生放送です。

 2025年03月29日(土曜日)に、歴史作家の穂高健一さんが「広島城・護国神社をたどる」に出演しました。
 
 ナレーターの岡佳奈から、まず放送の趣旨のリードがあります。

「広島城三の丸が今日、オープンしました。この機会にと、広島城、そして護国神社を、番組おなじみ歴史小説家の穂高健一先生と散策しました。大鳥居、石垣、天守閣、二の丸、護国神社をめぐり、お話を伺いました。」
IMG_2545 広島城.jpeg


「ナチュラリスト文化部」をクリックすれば、放送内容の全文が読めます。

 放送の最後には、
「今回は駆け足でのご紹介となりましたが、広島城や護国神社には、歴史を感じられる場所・景色がたくさんあります。この機会に改めて、触れてみてはいかがでしょうか?」と岡さんが皆さんに足を運んでくださいと、呼びかけています。

【関連情報】

岡佳奈さんのHP

RCC(中国放送)ラジオ【女性の視点からとらえた幕末動乱期 】 岡佳奈さんが穂高先生をゲストに迎える 

RCC中国放送2024年1月27日放送「週末ナチュラリスト」で、パーソナリティの岡佳奈さんが、穂高先生をゲストに迎え、今回も幕末の動乱期を解き明かしていきます。

             幕末芸州広島藩研究会広報室 山澤直行

岡佳奈.jpg岡佳奈さんは、香川出身で広島在住。1月30日生まれです。

 福岡(RKB毎日放送)広島(RCC中国放送)での7年間の局アナをへて、2008年からフリーランスに。現在、広島を拠点に、TVナレーター、ラジオパーソナリティーとして活動中。
 
 彼女はバラエティーナレーションが大好きな方です。モットーは「声にこめる「情熱」を大切に!!」です。

 パーソナリティの岡佳奈さんの令和六年正月は、穂高健一先生の新刊小説『妻女たちの幕末」(大奥の最高権力者姉小路の実像~)を読破されたそうです。
 読みだしたら、どんどん引き込まれたそうです。

 これまでの幕末の通説が次々にくつがえされる。とくに大奥の実像には驚かれたそうです。

  

週末ナチュラリスト「つどいのひろば」・ゲスト穂高健一


『上臈御年寄・姉小路(あねがこうじ)は、こんなすごい女性がいたとは驚きです』

 そう前置きしてから、岡さんから作者の・穂高健一先生にインタビューがなされました。、

『江戸城・大奥といえば、将軍以外の男子禁制、大勢の華やかな女性の華美な空間で捉えていました。ところが、先生の本を読むと、大奥は老中以上の強い権力をもっていた。ここらを語っていただけますか』

 大奥の上層部の女性は、将軍や幕閣らの政治に参加していました。「表の政事(老中)」と「奥の政事(大奥)」の両輪で、260年間を支えていました。

『作中に、千人前後の女性を無為に遊ばせておくほど、江戸幕府の財政は甘くなかった。武家社会には『恥の文化』『切腹の檀家』があった。これが大奥の存在感になっていたとありますよね。千人の女性が何していたか。くわしく教えてください」

  武家諸法度で、大名の婚姻は幕府の許可が必要です。つまり、幕府が婚姻組み合わせを決める。経歴、家柄、外様支配など無限のデータから、婚姻の組み合わせを作る。とてもじゃないが、4-5人の老中はできない。
 大名家からのお願い制度があった。上級職の女性と大名夫人が内密に話し合う。これが男(大名名代の家老など)が老中役邸で直々にお願いして断られると、その日のうちに「大名家として恥」をかいたといい、切腹する。
 初代の家康は大切な人材を失わないために、江戸在府の大名夫人が極秘で江戸城・大奥に内願できる制度を作った。


「大奥・上臈御年寄の姉小路なは政略結婚を仕切る。ほかにも、天保の改革で名を馳せた水野忠邦は剛腕すぎて、武士も民もこころが幕府から離れてしまった。そこで上臈・姉小路が将軍のブレーンとして、水野忠邦を失脚させたうえで、25歳の若き美男子の阿部正弘を老中首座(現・内閣総理大臣)に大抜擢をする。これって史実なんですよね。すごいです」
 
 こうした質問を著者の穂高先生に向けます。ぜひ、視聴してください。

週末ナチュラリスト 妻女たちの幕末.png


● 画像をクリックすると、RCCラジオ放送に飛びます。

戊辰戦争のなかにも、心打たれるエピソードがある 山澤直行

 RCC(中国放送)ラジオの土曜日の朝、ナレーター岡佳奈(かな)さんによる週末ナチュラリスト『つどいの広場』があります。

 2023年9月2日10時の放送で、福島県大熊町に伝わる「戊辰戦争・余話(ぼしんせんそう・よわ)」を岡さんが朗読されました。

 この民話は、今から156年前の7月28日(旧暦)に福島県浪江町の手前、福島県大熊町で実際におきた出来事です。
 
 広島県出身の作家・穂高健一さんが、「広島藩の志士」のなかで大熊町史に掲載されており、いまも「民話」としても語り継がれていると紹介しています。

                 *

 背景として、芸州広島藩の神機隊が自費で奥州戦争に出向き、相馬藩・仙台藩を相手に連戦連勝していたときです。
 砲隊長・高間省三(20歳)ら大砲隊の十五人が、熊川駅(大熊町)から野上という集落に向かって進軍していた。
 場所は、東電第一原発から約二、三キロの距離(目見当)です。

 三軒の農家があった。前置きはここまでにして、まずは朗読をお聞きください。

       岡佳奈さんの『戊辰戦争余話」の朗読はこちらから

 ちなみに、かれらの上官である砲隊長・高間省三(20歳)は、この逸話の3日後の8月1日「浪江の戦い」で一番乗りをしながらも、不運にも敵弾の頭部貫通で戦死しています。
 現在は広島護国神社の筆頭祭神として祀られています。


「関連情報」
 
 朗読者:岡佳奈(かな)さんのプロフィール
 ナレーター / パーソナリティーです。香川出身で広島在住。福岡(RKB毎日放送)広島(RCC中国放送)で7年間の局アナをへて、2008年からフリーランスになりました。

独立後、声の表現の幅を広げたいと、ナレーションを学び、現在は広島を拠点に、TVナレーター、ラジオパーソナリティーとして活動されています。
声に温度と熱をのせて、空気に色をつけるお手伝いをしたい、と彼女は『声色 コワイロ』屋号にされています。

       岡佳奈さんのホームページ・素敵な写真も豊富です


終戦記念日=太平洋戦争はなぜ始まったのか。薩長史観の歴史教育がまねいた惨禍だった

 石原莞爾(かんじ)は関東軍の参謀で、満州事変を起こした首謀者である。かれの〈世界最終戦争論〉が、太平洋戦争の発端となる思想だった。

『いずれ日本はアメリカと航空機戦を戦うことになる。それに耐えうる国力をつける必要がある。五か年計画で経済力をつけてきたソ連が、満州を奪う前に、日本がまず植民地にし、持久戦になっても、アメリカと戦える国力を保持するべきだ』

 この石原理論が実行された。関東軍は占領下においていた奉天(ほうてん)・吉林・黒竜(こくりゅう)江(こう)省に満州国を樹立した。そして清朝(しんちょう)最後の皇帝だった愛新覚羅(あいしんかくら)溥儀(ふぎ)が就任させた。
 それはまさしく傀儡(かいらい)国家だった。

 日本国民は石原理論と関東軍の行動を熱狂的に支持した。それが太平洋戦争につながった。
 12月8日の真珠湾攻撃の日に、軍艦マーチによって米国との開戦が国民に知らされた。ここにおいても国民が熱狂したのである。

 こうした国民の熱気が太平洋戦争への最大のけん引力になった。軍部・政治の強烈な指導にしろ、国民の声をないがしろにできないからである。

 戦争責任を問えば、それは国民にある。

 太平洋戦争の敗戦のあと、東京裁判がおこなわれた。石原莞爾は病気や開戦前に反東條英機の立場だったことから、戦犯が免(まぬ)がれた。ただ重要な証人として、アメリカの判事が石原の自宅を訪ねて訊問している。

「太平洋戦争のA級戦犯は、だれだと考えていますか」
 ーー戦犯は原爆を落としたトルーマンだ。アメリカ大統領こそ真の戦犯だ。
 あ然としたアメリカ判事が次のように質問した。
「日清・日露戦争までさかのぼれば、戦争を起こした最大の責任者はだけですか」
 ーーそれならば、東京裁判にペリー提督を呼んで来い。日本は約三百年間にわたり鎖国政策の下で、他国に対していっさい干渉もしない国だった。自給自作で、国民は平和に暮らしていた。ところが黒船を率いたペリー提督に脅迫されて開国させられた。
 西欧の侵略帝国主義の列強から身を守るために、日本はみずからも帝国主義になった。太平洋戦争に突入した、すべての元凶はペリーにある。
ペリー提督.png
 日中戦争当時において最高の知能といわれた石原莞爾すら、小学校の教科書の『鬼の顔のペリー像』が頭脳にすり込まれた。生涯消えなかった。

              *

 教育が人間をつくる。人格も思想も形成する。

 徳川政権は260余年の平和を維持し、海外といちども戦争をしなかった。幕末に戦争をしたのは薩英戦争(薩摩・島津家)と下関戦争(長州・毛利家)の2つだけである。  
 
 明治に入ると、この二家の薩長閥の政治家たちが天下を取った。
 前政権を見下すために、江戸幕府の老中首座・阿部正弘は、ペリー来航におびえ、砲艦外交に屈して開港・開国した。そんな弱腰だから腕力・武力・知力にすぐれた薩長が倒幕したのだという。
 
 はたして事実だろうか。ペリー初来航はわずか9日間である。かれは統領国書を手交する久里浜に一度だけ上陸し、四隻の海兵はほかに一度も上陸させていない。
 当時の江戸は天然痘のパンデミック下にあり、「自粛」というべきか、市内には人出はなかった。死の街だ。黒船見学や騒動などあり得ない。
 江戸城といえば、将軍・世子の家定の正室および継室(二番目の妻)も天然痘で死去する。将軍・家慶も病で倒れる。
 こんな江戸城にペリーが行こうとしない。うかつに天然痘を艦船に持ち込むと幽霊船だ。
 ペリーは外交の予備交渉すらせず、久里浜で国書を渡すと、さっさと退散した。わずか九日間のうち、浦賀すら上陸していない。そのペリーは日本を離れると、マカオで居を構えている。
 そこで一年間待つつもりでいた。

 明治時代派から始まった義務教育で、少年・少女らに事実無根を教えた。
『太平の眠気(ねむけ)をさます上喜撰(じょうきせん)たった四杯(しはい)で夜も眠られず』
 これは明治十年に詠まれた狂歌である。さも、ペリー初来航の強化だと教科書に載せた。

 さらには、江戸城内も大騒ぎ、右往左往し、政治はノーコントールになったと教える。そんな徳川幕府側の資料などない。

ペリーの似顔絵 (2).jpg 挙句の果てには、ペリー「夜叉面の鼻の高い」似顔で、米国にたいする恐怖を煽り立てる。
 当時の幕府は狩野派など精緻な画家をたくさん抱えていた。二度目の来航の時に、写真とほぼ同じような絵画をたくさん残している。
 それなのに、明治政府の教科書編纂委員は、あえて精緻なペリーの顔は載せず、「鬼の顔・ペリー」をどこかから見つけたきたのだろうか、もしかすれば、あえて描かせたのかもしれない。それを載せて、少年・少女に「米国憎し」と洗脳したのだ。

 この薩長史観は、力と腕力に勝れたものが政治の勝者になれる、と教えた。すべからく軍国少年となった。

           *  

 明治政府は富国強兵を目標にした。世界の一流国に肩を並べたいがゆえに、帝国主義で大陸侵略となる日清・日露戦争を起こした。
 かたや、軍国少年らは優秀な生徒があつまる兵学校・士官学校を目指した。海上・陸上で階級を上りつめて、やがて海軍大臣・陸軍大臣となり、さらに内閣総理大臣となった。
 軍人が政治に関与する軍事国家になった。
 国民も、教科書で習ったペリー憎しの歴史を信じていた。政府が言う敵国の米英鬼畜をすなおに信じた。全国民一致で太平洋戦争に突入した。
「教える歴史がまちがうと、国家が破滅する」
 それが石原莞爾が後世に残した教訓だろう。

 教育は見方を変えれば、これほど怖いものはない。この歪んだ教育は、石原莞爾の時代で終わったわけではない。
現代でも、この鬼の顔が平然と載っている教科書があるし、私たちはなおも洗脳されているのだ。

「妻女たちの幕末」は,先輩作家の海音寺潮五郎、吉川英治、司馬遼太郎氏にない技があった。

 新聞連載の歴史小説「妻女たちの幕末」が昨年八月一日から、ことし七月末まで一年間つづいた。そして完結した。日曜日をのぞく毎日で、二九八回である。
 新聞社は一般に辛口である。文化部・部長から「後半(ペリー来航から)は、新たな幕末史観を興味深く読めたといった感想も多く聞かれ、小説の狙いは成功だったと感じています」と好評だった。
DSC_0509 福山会 (2).jpg
 ここで、私の執筆の手順を明かしてみたい。まず英雄史観の通説は疑ってみる。私は純文学で世に出てきた作家である。
「人間って、こんなことはやらないな」という疑問をあぶりだす。
 歴史は勝者がつくる。国内の史料はかなりねつ造や隠ぺいがなされている。そこで外国の関連資料から疑問をひも解いてみる。

「ここまでウソをつくか」とあ然とさせられる。

 IT時代でAIがすすむ現代、百六十年前の海外新聞が瞬時に日本語に変換できる。これは先輩たち大作家の海音寺潮五郎、吉川英治、司馬遼太郎氏などにはできなかった芸当だ。かれらは明治の薩長閥の御用学者の術に乗せられている、とわかった。

 面白いほどに、新たな発見があった。国立国会図書館も、デジタルで著作権のおよばない幕末関連の資料は面白いほどに難なく入手できた。
「井伊家史料」などもネットで古本として安く入手できる。先輩諸氏が足で神田古本屋をまわったものだが、雲泥の差になった。次つぎに通説をくつがえす傍証が容易にさせてくれた。

「妻女たちの幕末」は単行本として十月に発行予定。多くの読者が通説の嘘に気づくだろう。

阿部正弘の直系の阿部氏と(福山会にて)

新聞連載小説「妻女たちの幕末」、一年間の完結。文化部長より、「成功でした」とコメント

 新聞連載小説「妻女たちの幕末」が昨年8月1日に、作家・宮部みゆきさんから引き継いで連載を開始しました。この7月31日で完結しました。日曜日をのぞく毎日で合計298回でした。
 かえりみれば、コロナ禍のなかで歴史講演などが止まり、その分の約2年間は「妻女たちの幕末」の関連資料の読み込みに集中できました。むろん、京都や新宮や都内の各所に必要不可欠な取材には出むいています。

二人の天皇.jpg 幕末史と言えば、明治政府の薩長閥の政治家に迎合した御用学者たちが、事実を歪曲し、ねつ造した。「薩長史観」で腕力・武力に勝れたものが勇者だとした。明治から、それを教育で使った。義務教育から軍国少年がつくられた。かれらは兵学校・士官学校を目指し、やがて首相や海軍・陸軍大臣になった。当然ながら、軍人が政治に関与する軍事国家になった。
明治・大正から太平洋戦争終結まで、政治家も、軍人も、国民も、「薩長史観」の英雄崇拝の歴史を信じたことで、国民一致の戦争に突入した。


 現在も少なからず、薩長史観が信じ込まれています。私たちはいかにねつ造の歴史から抜け出せるか。これが連載小説の目的でした。

                          *

 そこで私は、外国関連の文献・当時の古新聞など可能なかぎり追いもとめました。通説の英雄史観にある事象から「人間って、独りで、こんなことはできないな」という私の純文学の頭脳で、まず疑問を抽出し、外国から傍証(ぼうしょう)する作業に費やしたのです。

 AI時代です。関連文献や新聞が見つかれば、即座に日本語に変換できる。ありがたかったです。これは過去の著名な歴史学者・歴史小説家(海音寺潮五郎氏、吉川英治氏、司馬遼太郎氏など)にはできなかったことです。

「妻女たちの幕末」の冒頭において、、
『江戸城が無血開城した。それなのに、なぜ上野戦争(彰義隊&新政府軍)が起きたのか。その答えは海外にもとめることができる』
と記しています。

 これこそ、まさにIT時代が幕末史の通説を変える典型的な傍証でした。......明治政府がひた隠しにしたもの、日本に二人の帝(天皇)が誕生したという記事であった。瞬間的にしろ、南北朝時代の到来である。当時のニューヨークタイムスの記事で、それを知ることができたのです。(イラスト:中川有子さん)

 なぜ、現在でも教えたくないのか、私たち国民が考えることです。
 
                          ☆  

 私は国内関係は極力一次史料にまで手を伸ばし、丹念に読み込みました。すると、徳川将軍家の史料に軍配が挙がるのです。
 幕府の昌平黌(しょうへいこう)出身や教授らなど超エリートたちが外国奉行になった。来航する外国人よりも、ディベート力(論理と頭の回転の速さ)ははるかに勝っていた。どの条約も日本側の希望がほぼ通っている。安政の通商五カ国条約など、それぞれ五か国とも言語がちがう条約締結を3カ月でやってしまう。
 現代の外務省や各省庁など、徳川政権の頭脳と交渉力は足元にも及ばない。

 一例として、フランスは主要輸出品目・ワインに35%も輸入関税をかけられた。中国・インドはわずか5%なのに。日本には屈辱の不平等条約をむすばされてしまった。と、現代のフランスは、当時の歴史をそう捉えている。(シラク仏大統領)。

                    *

 掲載してくださった新聞社の社会部長から、7月末日に、「特に後半は、新たな幕末史観を興味深く読めたといった感想も多く聞かれ、小説の狙いは成功だったと感じます」とコメントが寄せられた。新聞社はおおむね辛口ですから、「成功」という言葉は、このさき幕末史が大きく転換する契機になるかな、と思います。

                    *

「穂高健一ワールド」は、その新聞小説が後半に入り初めころから、意識して停止しました。
 なぜならば、複数の方が、私のアーカイブを使い(パクリ)で、書籍出版されています。平気でパクる心無い歴史家に、「妻女たちの幕末」の新しい歴史観がかれらの自説を付加し汚されないためのものでした。

 たとえば、老中・若年寄が7-8人では、幕府による諸藩の統率「武家諸法度」および順守など、少人数の幕閣で力を発揮できるはずがない。登城した勤務時間は約5時間くらいで、なおかつ老中の月番担当制だ。となると、だれが行ったのか。

 一例として御三家・御三卿・300藩の大名家のすべて婚姻は幕府の許可がいる。旗本・御家人の婚姻もある。さらに、大名家が朝廷から冠位をもらう幕府側の申請手続きもあるし、多々、輻輳(ふくそう)している。
 これらの処理は老中(男の政事)に持ち込まれても、対応できるはずがない。それならば、だれがやるのか。大勢の女性が処す集団的組織が向いている。それが千数百人を抱えた大奥(奥の政事)の機能だった。論理的にも、そこには矛盾なかった。当初は推量から入り、(刑事が見込み捜査をする手法)、多面的に傍証(証拠)をあつめて構築しました。
 裏付けが次々にとれました。幕府内人事や大名昇格権(官位)の窓口・対応など、歴代将軍が大奥に付与してきた。だから、大奥には老中を左遷させるほどの実権があった。

 ついては、心無い作家たちに、新吉原か、大奥か、将軍ハーレムのごとき通説の作り話で歴史が汚されたくない、と「穂高健一ワールド」を半年間ほど休止いたしました。

                        *  

 なお、「妻女たちの幕末」は南々社から、10月か11月には単行本で出版する予定で作業に入っています。「安政維新・阿部正弘の生涯」とおなじ出版社です。

 連載の7月末の「エピローグ」で、最後の数行のなかで、
『あらためて徳川幕府が二百六十余年も政権を維持できた背景を問う。表の政事(男)、奥の政事(女)の両立が寄与した寄与した側面がある』
 と記しています。

 上臈御年寄・姉小路の女の視点「妻女たちの幕末」、阿部正弘の男の視点「安政維新・阿部正弘の生涯」と二つを併用して読むと、いっそう克明に幕末がとらえられるからです。

                                              「了」
 
 
 、

 

AIの技術の進化で、「妻女たちの幕末」が音声で聞ける = 山澤直行

文字文化の象徴といわれてきた小説です。過去から朗読の専門家がいて、耳の不自由な方にも、小説が楽しめるものでした。

 いまや、AIの技術の進化で小説の世界まで変革しています。新聞連載の小説も、パソコンで処理し、YouTubeで聞けます。

             ※
 
 幕末芸州広島藩研究会「広報室」では、公明新聞に連載中の穂高健一氏「妻女たちの幕末」をユーチューブに掲載する活動を開始しました。朗読ソフトにて朗読させてみました。

 朗読動画は、幕末芸州広島藩研究会のYoutubeチャンネルにて掲載しています
そして、下記のアドレスでは順番にプレイリストで公開しています。

新聞連載「妻女たちの幕末」YouTube

 朗読動画は追加更新していきます。お楽しみにしてください。

【写真の上で左クリックしても、新聞連載「妻女たちの幕末」YouTubeにはいれます】

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オンラインセミナー幕末芸州広島藩の歴史を学ぶ

幕末芸州広島藩研究会からのお知らせです。
11月29日(火)18時30分から、穂高健一氏によるセミナー
「幕末芸州広島藩の歴史を学ぶ 〜オンライン・オフラインセミナー〜」
 を株式会社ミックス1階DXスタジオにて開催いたします!

現在、オンライン配信視聴用チケットを販売中!詳細は以下のURLからご確認ください!

また、見逃し配信もありますので、当日ご都合がつかなくても後日ご覧になれます。
オンライン参加の受付は27日までになります。
ぜひどうぞ。

公式サイト:幕末芸州広島藩の歴史を学ぶ

歴史とは自国の都合だけでうごかない。 世界情勢と連動している

 1853年といえば、世界史では有名なクリミア戦争(野戦のナイチンゲールが活躍)がぼっ発し、3年間つづいた。英仏とロシアが大戦争をはじめ、その戦火がアジアにも拡大してきた。

 鎖国とは世界にブラインドを下ろすことではない。積極的に世界の情報を取りにいかないと危険きわまる。阿部正弘は老中首座(現・内閣総理大臣)になったときから、アジアで発行されている英字新聞をオランダ語に翻訳させて(別段風説書)逐一、世界の動きをみていた。

――クリミア戦争に突入した欧州は、いま日本に派兵できない、清国が被ったアヘン戦争の二の舞にならないと阿部はみなした。

 嘉永6(1853)年6月に米国のペリー提督が浦賀に来航し、翌7月にはロシア帝国のプチャーチンが長崎にきた。ともに黒船(蒸気船)を従えていた。

――ここは千載(せんざい)一遇(いちぐう)のチャンスだ。

 鎖国から開国と舵を切った。翌七年三月に、まずクリミア戦争と無縁なアメリカと日米和親条約をむすんだ。半年後の八月、イギリスがカムチャッカ半島に領土的な野心からロシア軍を追撃してアジアに出兵してきた。かれらは長崎に寄港し、幕府に燃料・食料の供給基地として、長崎・函館の港の利用をもとめた。

「米国と同文ならば、和親条約を結んでもよい。さもなければ、貴国の軍艦がわが国に立ち寄ることはいっさい断る」

 長崎奉行の水野忠徳(ただのり)が高飛車な姿勢を貫いた。イギリス艦隊司令・スターリングは、日本側の条件をうけ入れた。これに怒ったのが、東洋を管轄するイギリス香港総督で、
「通商規定の条文がゼロで、日本の港では日本の法律に従うと明記されている。屈辱だ」
 と破棄の添え書きをつけて、イギリス政府にその条約文を送った。

 イギリス国会はクリミア戦争に勝つことが最優先だといい、批准してしまったのだ。
 その翌安政二年、クリミア戦争の敗戦が濃厚なロシアにたいし、日本側は有利な立場で、「日露和親条約」をむすび択捉・国後を日本領土とした。

 阿部政権は、クリミア戦争が日本に有利な風だととらえて米、英、露の三か国の大国と和親=平和条約を一気に結んだのである。


 わが国の歴史書となると、嘉永6(1853)年といえば、世界最大のクリミア戦争をまったく教えず、アメリカの黒船が来航したといい、鬼のような奇異なペリー提督のかわら版の顔をのせる。

 そのうえ狂歌『泰平(たいへい)の眠りを覚ます上喜撰(かみきせん)たった四はいで夜も寝られず』と記す。それは明治10年に創作された狂歌だと、いまや化けの皮がはがされた。

             ☆

 令和4年のいま、ウクライナ戦争が世界中に、武器供与、経済封鎖、石油、穀物輸入など影響をおよぼしている。戦争当事者でなくとも、アフリカは食糧危機に直面しているし、世界のいずこの国も、無関心でいられない。

 1853年に勃発したクリミア戦争では、勝利国となった英仏も、敗戦国のロシアも、非戦の米国も、わが国が鎖国だろうが、関係なく、軍艦や商船でなんども来航している。
 伊豆下田港では、なんとロシア海軍兵がフランス商船の掠奪の戦闘までしかけている。
 日本の下田奉行は厳重な抗議をした。

 クリミア戦争当事国の英・仏・露は、軍艦の燃料・食料の中継機能として、日本の港が喉から手がでるほど欲しかった。幕府はこの地の利で、外交交渉で優位な立場にいた。

 ところが、下級藩士によって樹立された明治政府は、かつて上級武士が支配した徳川政権を恣意的(しいてき)に見下すために、
『徳川幕府はアメリカに蹂躙(じゅうりん)されて、砲弾(ほうだん)外交で開国されられた』
 と歴史をねつ造した。
 まさに幕末史のプロパガンダである。

 そもそもペリー提督が江戸湾にやってくる七年前に、アメリカ東インド艦隊のピッドル提督が浦賀に米大統領の親書をもって来航している。
 捕鯨船マンハッタン号、イギリス艦、デンマーク軍艦も来航している。幕末史は黒船以前の歴史から紡(つむ)がないと真実はみえない。

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