戦後八十年 戦争責任は「国会」にある。現在の国政・代議士の認識度を問う
太平洋戦争の終結から、八十年の節目を迎えた。
「二度と戦争をしてはいけない」と声高に叫ばれる。例年のことだが、今年も、報道で奇異な現象をみせつけられる。
国政の代議士たちが、「命を捧げられた方々のお陰で、わたしたちは幸せな暮らしをさせてもらっている。尊崇の念をもって哀悼の誠を捧げた」という。数十人の代議士はほぼ類似的な内容だ。
かれらはいったいだれが侵略戦争をはじめたのか、と問うたことがあるのだろうか。戦争の発火点が国会にあるという、基本的な戦争責任など語ろうともしていない。
明治時代から七十七年の間に、十年に一度は海外で戦争をした。これは国政にたずさわる政治家と高級軍人とが戦争を引き起こしたのである。多大な戦争責任は国会にあるのだ。自分たちの先輩諸氏が諸悪の根源だ、という本質をまったく理解していないようだ。
ここで、あえて英霊といわれる一人の戦死者を悼んで描いてみる。
かれは物心ついて小学校(国民学校)に入学すれば、皇国史観による教育で、「天皇は神の子孫である。日本人に生まれてきたからには、天皇の赤子(せきし)として、天皇のために死ぬ。それがお国のためである」と洗脳させられる。
この教材は、明治時代に長州人の役人が、古代の神話をさも歴史的事実として創作した教育勅語である。
やがて成人したかれは、いやおうなしに徴兵検査をうけさせられる。拒否すれば、非国民だといい、罰せられる。甲種合格となると、「赤紙一枚の命」といわれた召集令状がとどく。
「○○君、万歳」の声で、妻子から切り離される。
遠い戦地につけば、二等兵の新兵として苛酷な訓練の連続である。軍律がきびしく、一人の失敗で、上等兵から連帯責任だといい、スリッパの裏で頬をたたかれる。日々だから、顔が腫れあがる。
数か月後には、敵の銃弾が飛び交う最前線へと送りだされる。恐怖から逃げれば、うしろから逃亡罪で射殺だ。運よく敵弾がそれてくれても、兵站の食料がとどかず、「現地調達」の名のもとに、現地の市民に銃を突きつけて強奪する。もはや倫理観が失われている。
戦況が悪化して「転進」という後退がはじまる。ジャングルや洞窟へと逃げこむ。蛇やトカゲを捕って食するも、やせ細り、四つん這いでしか進めない。あげくの果てには命が絶えて餓死する。遺骨が収集されて帰国する。かれの死はお国を守った英霊として祀られる。
かたや内地は戦争末期で、米軍の焼夷弾の雨である。東京、名古屋、大坂、神戸が焦土となる。火傷で顔も衣服も焼けただれた黒焦げの遺体が、あちらこちらに山積みになる。政治家はそれでも戦争をやめない。民の生命・財産、文化を守ることが最大のつとめである、という認識が欠如している。国土は日増しにこれまで以上におぞましい悲惨な光景になる。そして原爆の投下、それにソ連軍の侵攻である。
終戦の証書で、軍人政権が崩壊し、あらたに民主主義の政権が誕生した。あの戦争とはいったい何だったのか。
今日の代議士たち政治家は、戦死者を自分たち家族を守ってくれた方々だ、英霊だという。特攻とかを美化する。
歴史的な真実を掘り下げず、「お国のための戦争」「祖国のための戦争」のために命を捧げだと美化する。言葉は魔物だ。歴史の歪曲にもつながっている。
戦死者たちは、時の政権から、自分の意思に反し、死を強いられたひとたちなのだ。お国のためでなく、政権のために死んだのだ。
☆
戦後の新しい教科書で、日本国憲法の三原則は「主権在民」「基本的人権」「戦争放棄」とおしえた。戦後八十年の現在では、「国民主権」「基本的人権」「平和主義」になっている。
「平和」ということばは、戦争に対する両刃の剣である。
首相・東条英機は国会で、東亜の平和と自存自衛のために英米と戦争を開始したという。これは国民の目を善の戦争だとあざむくものだ。
ナチスは「ドイツ系住民の保護・欧州の安定のため」とした。アメリカはイラク戦争で、「大量兵器を保有するテロとの戦い・中東の安定と平和のため」とした。ロシアのウクライナ侵攻は、「ロシア系住民の保護・地域の平和維持」とした。
このように多くの戦争の名目が、「平和を守るために」というレトリックでおこなわれる。つまり、平和とは悪意を隠すための用語でもある。
今日(こんにち)、国会へ送り込んだ代議士たちが、かつての侵略戦争の責任が自分たちの先輩諸氏にあるとは語らずして、英霊とか、特攻とか、若き死を英雄視する。そのうえで、日本列島の安全と平和のため、有事に備えるといい、軍備拡大の必要性を語る。
まさに定石通り、危険信号が点りはじめた。戦争への足音が聞こえてくるようだ。