A033-「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより

『幕末ハーメルンの笛吹き官軍』 山澤直行

神機隊の東北出軍第一隊の名簿のなかに、「楽隊」と称した22名の隊員が登録されています。
「これは?なんで?」
 と思っていましたが、穂高健一ワールドの、小沢雅楽助『偽勅使事件』の記事を読むと、なんとなく解ったような気がしました。

 日本最古の軍歌とされる「宮さん宮さん」(別名:とんやれ節)
 この楽曲を演奏しながら歌って行軍する事で、周囲の住民に知らしめていたのでは?と推測します。

 住民にとって、彼方からくる何者か解らない軍隊、その軍隊が「我々は官軍で、朝敵を征伐しに来た♪」と歌いながら宣伝していたのでしょう。


 もしかすれば、小沢雅楽助たちの楽隊がハーメルンの笛吹き男のような状況をつくり、その楽曲を聞いた住民たちが、かれらの行軍に参加してきたのかもしれません。

            *

 この曲「宮さん宮さん」は、作詞が品川弥二郎、作曲が大村益次郎とされています。日本の軍化の第一号と言われますが、実際にだれの楽曲なのか、諸説はあります。
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① 京都の勤王芸者の中西君尾(なかにし きみお)が、品川弥二郎の歌詞に三味線で節をつけたもの。(写真・右)

 余談ですが、君尾は勤王志士が恋い焦がれた名妓です。錦の御旗は岩倉具視と玉松操の入れ知恵で、品川が君尾に贈ると言い、西陣の帯を購入した。「緞子(どんす)と大和錦(やまとにしき)どしたえ」という君尾の証言が残っている。

 彼女はさらに「西郷隆盛は、象のように肥満していた奈良屋のお虎という仲井が好きどしたえ」とも月翁に話している。象が豚となり、『西郷とブタ姫』として歌舞伎になった。ブタ姫は中村勘十郎が演じた。


 ② 慶応元(1865)年にもともと江戸市中で流行していた『流行トンヤレ節』を改題したもの。それが「宮さん宮さん」になった。
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 幕末研究者の故・綱淵謙錠(つなぶち けんじょう)氏の見解です。

この節を採用すれば、三年前に江戸で流行した歌を、明治に要人となった薩長人たちが自分たちの手柄にしたのだと思います。
 この歌詞のなかには「薩長土肥」とありますから、戊辰戦争後に明治政府がじぶんたちをより大きく見せるために、歌詞を都合の良く変えたのかもしれません。

"宮さん宮さん お馬の前に
ヒラヒラするのは 何じゃいな
あれは朝敵 征伐せよとの
錦の御旗(みはた)じや 知らないか"

 錦の御旗を掲げた公家を先頭にして行軍している事を説明しています。


"一天万乗(いってんばんじょう)の 一天万乗の
帝王(みかど)に手向かい する奴を
ねらい外さず ねらい外さず
どんどん撃ち出す 薩長土"

一天万乗とは、中国由来の表現で、天子、天皇になります。


"伏見 鳥羽 淀 伏見 鳥羽 淀
橋本 葛葉(くずは)の戦いは
薩長土肥の 薩長土肥の
合(お)うたる手際じゃ ないかいな"

「鳥羽伏見の戦いから、この戦争が始まった」の意味だと思います。
「葛葉の戦い」とは、鳥羽・伏見の戦いでの楠葉台場(くずはだいば)の戦いです。


"音に聞こえし 関東武士(さむらい)
どっちへ逃げたと 問うたれば
城も気概も 城も気概も
捨てて吾妻(あづま)へ 逃げたげな"

 旧幕府軍は弱腰で逃げ回っていたという表現ですね。
「〜たげな」これは方言ですかね? 今の広島でも使いますよね。


"国を追うのも 人を殺すも
誰も本意じゃ ないけれど
薩長土肥の 薩長土肥の
先手(さきて)に手向かい する故に"

ここは面白いですね、官軍下っ端の本音でしょうか?


"雨の降るような 雨の降るような
鉄砲の玉の 来る中に
命惜しまず 魁(さきがけ)するのも
皆お主の 為故じゃ"

ここで「お国の為に〜」の精神が出始めたと考えられます。

しかし、楽曲中に出てくる合いの手「トコトンヤレ トンヤレナ」
これは、「とことんやれ」。つまり、徹底的にやれって言う意味と思います。
歌に歴史ありですね。

「宮さん宮さん」
作詞・品川弥二郎 作曲・大村益次郎
歌・春日八郎
https://youtu.be/DVc-UNU48g0


《参照記事 穂高健一ワールド》

【幕末史の謎解明】西郷隆盛も真っ青?=「雅楽助はなに奴だ」(上)


【幕末史の謎解明】西郷隆盛も真っ青?=「雅楽助はなに奴だ」(下)

神機隊東北出軍第一隊 

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