A020-小説家

講演会「開国の真実」・葛飾区立水元図書館で講演 9月28日(土曜) 

 拙著の「安政維新」(阿部正弘の生涯)が、10月15日に、全国書店・ネットで一斉に発売されます。それに先駆けて、いくつかの講演会が予定されています。
 9月28日(土曜)午後2時から28日に、東京・葛飾区立水元図書館で、題目『開国の真実』の講演を行います。
 会場 : 同図書館内の「葛飾区水元集い交流館2階会議室」
 住所 : 葛飾区東水元1-7-3
 JRまたは京成の金町駅からバス。金町駅北口・(金62)葛飾総合高校下車

 対象 : 中学生以上
 定員 : 50名(当日・先着順)
    入場料無料です。

【講演の要旨】

 最近は歴史の見直しがはじまっています。従来「開国」は黒船のペリー提督の砲艦外交に蹂躙(じゅうりん)されて、日本は無理やり開国させられた、と歴史書には記載されていました。日本史の教科書も同様です。

 歴史の見直しがはじまっています。
 従来は、ペリー提督の黒船が突然やってきたのではない。日本は恐怖に陥れたとは、ウソの記述だ。アヘン戦争が清国で起きた天保時代から、通商をもとめる外国船(おもに軍艦)が次々に日本にやってきた。その都度、江戸城の老中から現地対応の司令を出していた。

 ある意味で、経験則が高まっていたのです。封建制度・鎖国のままでは、アヘン戦争と同様に戦争になる、たいへん危険だと幕閣は考え始めました。「打払令」を止めて、水野忠邦は「薪水給与令」に変えて、外国船が難破すれば、日本国の港に、避難すれば、薪、水、食料をわたす、と法令を変える努力もしています。

              ☆   

 阿部正弘が満25歳で老中首座(内閣総理大臣)になってから、浦賀にきた外国船はペリー提督で5番目であり、幕閣も、浦賀奉行・与力も落ち着き払って対処しています。
 
 ペリー提督との外交交渉(横浜)は、日本が決して弱腰でなかった。その克明な交渉記録が現存しており、その現代語訳も、数年前に世に出てきました。

 かたや、天保・天明の大飢饉から、日本が疲弊してしまった。国が豊かになるために、阿部正弘が戦争せず開国し、世界の潮流となった資本主義に仲間入りを図った、という歴史認識に変わってきました。
 当時のアジア諸国をみると、英仏露は危険だから、最もリスクが少ないアメリカを選んだ。阿部正弘が、ペリー提督の来航を一年前に知り、ここで開国条約を結び、植民地化の危機を切り抜けた。

 みずから開国した阿部正弘は、安政の改革を実行し、富国強兵策、海陸軍の創設、日の丸の国旗制定、大日本(おおやまと)帝国(みかどのくに)、挙国一致、近代化政策へと進みはじめます。
 若くして亡くなった阿部正弘の、その遺志を継いだ小栗上野介たちは、安政時代に渡米し、アメリカ大統領・国務大臣にも面談し、西洋の民主主義を知り、さらに世界一周してきます。このときの77人の随行員が、近代化の力になってきます。

 随行船だった咸臨丸の日本人乗組員らも、サンフランシスコの地を踏んでおり、この段階だけでも、百数十人がアメリカ文化に触れて帰国しています。 

 薩長史観では、薩摩藩の15人の留学生、長州・ファイブと、もてはやされて強調されていますが、為政者の徳川家の海外使節、留学生の規模とではまったく比べ物になりません。

 明治政権は、それら阿部正弘の安政施策と近代化路線のパクリとなっています。

 国内変革の維新は、明治維新からでなく、阿部正弘から始まった。歴史の正確な認識として、安政維新が正しく、明治は徳川政権の瓦解による「御一新」だった。(昭和時代初期2.26事件で青年将校が昭和維新と叫び、そのあとに明治維新と一般にいわれるようになった)。

 歴史の見直し、歴史の塗り替えのなかで、早晩、鎖国から開国へと「安政維新」がはじまり、徳川瓦解による「明治の御一新」という正確な表記に変わってくるでしょう。

 その予兆はすでに出てきています。「薩長史観による開国史はあやしい」、明治以降の薩長閥の政治家による「陰謀史観」ではなかったのか、と。ネット、書籍のみならず、テレビ、新聞なども取り上げ始めました。
 講演は、こうした内容を語る予定です。

 写真:坂町郷土史会の提供 2019年4月20日「隠された幕末史 芸州広島藩と神機隊」より

『開国の真実』ポスター

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