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広島藩「大政奉還建白書」をやっと見つけた = 慶応3年10月6日、十五代将軍・徳川慶喜に提出。 土佐藩に新たな疑問か

 広島藩が提出した「大政奉還の建白書」がやっと見つかりました。約7年かかりました。原文どうりです。現代語訳にして、お使いください。


 芸藩主・松平安芸守(浅野茂長)が、辻将曹をして建白書を板倉伊賀守(勝静)に呈出せしむ。
『兵庫開港・防長処置の儀につきては、すでにご布告の趣もあり、いまさら建議すべきこともなけれども、再三言上せるがごとく、1日も早くご裁許あらんことを、切望の情に堪えず。
 熟(つらつ)ら天下の大勢を考えるに、甲是・乙非、物情背馳し、漸く済(すく)ふべからざる世態に逼迫せり、その原因はもとより一言・半句にて悉(つく)さるべきにあらねど、畢竟大義・名分・明ならずして、国体壊頽せるより起りたれば、いたずらに枝末の些務(さむ)にのみご注目ありて、大本にご反省なくば、木によりて魚を求るがごとく、何事も徒労に属して、時運ご挽回の期あるべからず。
 そもそも我が邦は万国に卓絶し、終古一姓にして、君臣の大義儼(げん)として存するが故、この自然の至理に基き、大義を明にし名分を正し、政柄を朝廷に帰し奉り、公平灑脱(しゃだつ)、天下群辟(ぐんへき)とともに、九重の上に於て万機をご献替あらせられ、いささかも矯勅の嫌(きらい)・壅塞の疑(うたすがい)なきよう、ご反省の実跡を立てられるべきなり。
 事ここに至りてなお旧轍を踏ませられては、内外の不都合を醸(かも)し、遂に滔天(とうてん)の禍害を引き起こして、烈祖のご遺志も泡滅せんかと、深く痛心の情に堪えず、なにとぞご熟慮ありて、ご決断あらんことを願ひ奉る』  徳川慶喜公伝四より

               ※「御」→「ご」もしくは「お」で読みやすくしています。


『補足』

① 後藤象二郎が同年十月三日に神山左多衛とともに板倉伊賀守(勝静)に謁し、山内容堂の建白書を呈出せり。

② 丁卯日記所載 → 板倉伊賀守が慶応三年十月十日付にて松平大蔵大輔に与ふる書簡に、「四日別紙写しの通り建白書差出」とあるのは不審である、と記す。「徳川慶喜公伝四より」。

 想像するに、明治30年代に、渋沢栄一の勧めで自伝に取り組んだ慶喜とすれば、①の山内容堂の名で、後藤象二郎が建白書を提出したと明確に覚えている。
 しかし、翌4日に寺村左膳、後藤象二郎、福岡藤次、神山左多衛たち四人の家臣の連署で提出とは箇条書かつ具体的で、はなしができすぎていると考え、ヒアリングした歴史学者に②「不審である。」としたのだろう。


 薩長土肥による倒幕が成功した明治時代に入ってから、土佐藩関係者たちが「(倒幕をまったく考えていない)山内容堂による大政奉還の建白書」があまりに薄ぺらい内容だから、ねつ造したのかもしれない。

 大政奉還が箇条書かつ具体的な理由は、薩摩藩・家老の小松帯刀の口頭での建白だった。

 慶応4年2月、慶喜は上野寛永寺に謹慎した。水戸藩に移るまえに不都合が生じるので、日記はすべて焼却したと記している。よって、渋沢栄一立会いの下で、「丁卯日記」をみせられた慶喜の記憶による確認である。


             *

 このさき歴史家、幕末史愛好者たちが、慶喜の「不審である。」を掘り下げてみると、新発見があるかもしれない。坂本龍馬の「船中八策」が嘘だったように。

「四日別紙写しの通り建白書差出」の原本は国立国会図書館のアーカイブでみられます。
 

 

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