【寄稿・詩集「そらいろあぶりだし」より】 扉 中井 ひさ子
私は運動嫌いである。しかし、食べることは大好きである。それゆえ太る。これでは困ると、スポーツジムの会員にだってなった。でも会員証を使ったのは、二年間のうち数えるほどだった。
もう女はやめましたと、太るにまかせていた。
「運動しなきゃだめでしょ。だめでしょ」
娘が口やかましく言い出した。どうも、介護の不安を感じてきたらしい。
「倒れたらすぐ病院に放り込むよ」
毎日のようにおどかされ、やっと重い腰をあげた。
とりあえず毎日一時間ほど歩くことにした。歩くならば一番好きな時間帯の夕暮れ時である。
灯りがにじんでいる。人々は足早に互いに無関心である。車の往来が激しくなる。街路樹の欅が時々ため息をつき揺れる。この空気のなかにすっぽり入り込んでしまう。時空の違う世界に来たと感じる瞬時である。
いろいろな人と出会う。思いもしないことがおこるのだ。
夕陽が沈み、青に少しずつ灰色を流し、空が深さを増していくと、青梅街道沿いにある三階建てのマンションが浮かび上がる。ゆるやかな光のなか、横に五軒の扉が整然と並んでいる。
いつも何故か懐かしく見上げながら通っていた。
二階の右から三軒目の扉が開き、男が一人出てきた。ふと、立ち止まった私に右手を上げている。父だ。こんなところに住んでいた。私は目を凝らしもう一度見据えた。やはり、少し照れたような顔をして父がそこに立っていた。
「どこにいくの」
思わずでた言葉。
「お前に会いに来たんだ」
「珈琲でものむかい?」
昔のままのおだやかな口調だった。
マンションの下の小さな喫茶店に入り、窓際の椅子に座った。父は、嬉しそうだ。
「ここの珈琲、意外に美味いんだ」
珈琲はやはりブラックだった。ゆっくりと味わい口にする飲み方も懐かしい。私が珈琲を好きになったのは、父に連れられ外出した時、いつも喫茶店に寄ったからだった。なんだか、それが日常から外れているようで、とても楽しかった。ちょっぴり、おとなになった気分だった。
「変わらないね、元気だったと聞くのも変だけれどね」
少し照れくさく、笑いながら珈琲を口にする。
「そうだな」
父も左手に持つ珈琲カップを見ながら苦笑する。
「何か用事があった?話したいことでもあったの」
「別に、ふと思いついたんだ」
遠い目をして答え、美味しそうに珈琲を飲みほす父。
「じゃあな」
と、マンションの扉の向こうに消えた。
七年前に逝った父は相変わらず無口だった。
あそこに父が住んでいる。扉を見上げていると、再び扉が開き塾のカバンを持った男の子が飛び出し、私には目もくれず走り去った。
あれからも、毎日マンションの前を歩いている。体重は少しもかわらない。
イラスト:Googleイラスト・フリーより
【関連情報】
詩集 「そらいろあぶりだし」
作者 : 中井ひさ子(なかい・ひさこ)
定価 : 2000+税
発行 : 土曜美術社出版販売
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