A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【残滓(ショート・ストーリー①】 ボロボロ咸臨丸で、小栗上野介が対馬にむかう  

咸臨丸で対馬へ 小栗忠順 訂正.png白い波頭の玄界灘を、咸臨丸が対馬にむかって突きすすむ。五月の潮風がマスト・トップの日章旗をはためかす。総トン数が625トンの船体が、前後に揺れつづける。
 その船首ちかくで、外国奉行で三十一歳の小栗忠(ただ)順(まさ)が被った陣笠(じんがさ)のひもを締めなおす。その目がかなたの洋上にうかぶ緑の対馬をとらえている。まだ、細長い島の輪郭が荒波の向こうで見えかくれしている。
あの対馬は南北約八十キロ、東西約十八キロの細長い島である。上島(かみのしま)と下島(しものしま)は、ひょうたんの形状のように、中央が絞りこまれている。大小・九十八の属島をもっている。
 小栗が船長から借りた双眼鏡を眼にあてた。二百から五百メート級の緑の山々が連なり、海岸にそって集落の民家が点在する。平たんな耕作地がほとんど見あたらず、島全体が山岳におもえる。

 この対馬は九州と朝鮮半島のほぼ中間に位置する。それゆえに日本海を航行する軍艦にも、貿易の商船にも、寄港するには好都合の位置にある。西洋列国は喉から手が出るほど欲しい島であろう。
「安政の五か国通商条約」で、幕府が開港したのは横浜、長崎、箱田(函館)の三か所のみである。ゆくゆくは新潟と兵庫を開港すると約束している。だが、この対馬は対象外である。

 昨年には、イギリスの軍艦が幕府に対馬に無断で寄港し、測量をしている。イギリスも、フランスも、日本海のど真ん中に立地するだけに、航路の上の最重要拠点として対馬につよい関心を寄せている。

 ロシア帝国の場合は、冬場のシベリアの港が凍結するので、不凍港である対馬をアジア進出の中継地点と鷹の眼のように狙っている。幕府は永年にわたりそのロシアをとくに警戒してきていた。

 とうとう事件が起きた。この文久元年(1861年)二月三日、申の刻(夕刻四時ころ)に、ロシア艦・ポサドニック号が不法にも対馬・浅茅(あそう)湾に尾崎浦に入って きた。二月の真冬の日本海は大荒れにもなる、ロシア艦は難破したと虚偽の緊急避難してきた。そして島の一部を占領したのである。

 ポサドニック号の海兵らが芋崎(いもざき)に無断で上陸し、あろうことか兵舎の建設、井戸の掘削、菜園などをつくりはじめた、と対馬藩から江戸の幕府に報告があった。
 次なる報告では、対馬藩の問情使(外交実務の藩士)が、ポサドニック号の船将ビリリヨフと対談し、立ち退きを要求するも、ロシア側はまったき退却の意思を示さない、という。
 対馬藩から次々と情報が入り、江戸城内の幕閣が協議し、ここまま現地・対馬藩任せにはできないと判断し、幕府がロシア艦占領事件の解決に関わることになった。

 こうして老中・安藤信正が、城内に外国奉行・小栗豊後守忠順と目付の溝口八十五郎を呼びだし、この事件を解決するために、対馬に向かうようと命じたのである。
 日本海の対馬は本州・九州とつながっていないので、海路で行く、と決まった。品川の沖から出帆する。
 このとき幕府の蟠竜丸(ばんりゅうまる)と朝陽丸とが修理中なので、咸臨丸は無人島調査への対応中だが、急きょ対馬行きに回されたのである。

           *

 小栗・溝口一行の十数人が品川に集合したとき、対馬藩の江戸家老が見送りにきて、「よしなに」と頭を下げていた。下関では対馬藩士が咸臨丸に乗り込み、最も新しい現地情報をご説明いたします、という。

 文久元年四月十九日(1861年六月二日)に、品川沖から咸臨丸は出港し、浦賀に立ち寄り、下関では対馬藩士が乗り込み、長崎で石炭の補給を行ってきている。

 ところが、この航海のさなかに咸臨丸がたびたび汽缶(ボイラー)の故障を起こしている。というのも、万延元(1860)年のサンフランシスコへの太平洋横断で深刻なダメージを受けており、それに老朽化と腐食も加わり、この日本で満足に機関・船体を修理できる機械工場がないので、ダマしダマし使っている状態であった。

 対馬でロシア艦を一刻も早く立ち退きさせないと、ロシアの占拠が日増しに拡大してしまう、と小栗・溝口一行は焦るも、こんなことから咸臨丸の蒸気汽缶がうごかず、帆走が多く、予定より大幅に遅れ、五月朔日を越えても、きょう現在もまだ対馬に着いていない状態であった。

「小栗豊後守殿、甲板ですこし腰を据えて休まれたらどうだ。貴殿が、今から気負っても、気が急いたところで、この蒸気船の船速は変わらぬ。この咸臨丸が対馬に接岸するには、あと一日はかかる」
「余の気持ちは、もはや対馬を占拠したロシア艦の艦長と向い合っている」
 そういう小栗忠順がふりむくと、目付・溝口八十五郎(みぞぐち やそごろう)は甲板に搭載した小舟の陰で、荷箱に腰かけ、キセルで煙草を吸う。幕政にも、軍事にも明かるい幕臣である。みるからに落ち着いた態度だ。

「汽缶(ボイラー)の故障で、またまだイライラさせられますぞ。この船の揺れ方は、まるで心臓の不整脈みたいだ」
「余の心配は咸臨丸の機関にあらず。不法にもここ三か月間余り、対馬に居座っておるロシア艦でござる。ロシア海軍の奴らは、日本領地の対馬に上陸し、斧で次つぎと神木を伐り倒し、薪で燃やしておる。海兵の宿舎までも立てている。あきらかに対馬を奪い取る魂胆だ。そんな艦長の胸倉をつかんで張り倒し、対馬から追い出してやりたい」
 かれが憤る。それら対馬のロシア艦の横暴は、下関から乗船した対馬藩士から聞き取っている。

 小栗忠順は対馬のロシア艦の艦長らにたいして殺気立つ自分を意識した。ロシア艦船を退去させる交渉では、小栗はけっして妥協しない強い態度で臨むつもりであった。
「小栗豊後守。貴公がロシア軍艦の艦長の胸倉を掴むのは結構だが、あくまでも演技の範囲にとどめていただかないと、なりませぬぞ」
 溝口がさりげなくいう。
「演技とはなにゆえに、そう申す。旅芸人でもあるまいし」
 小栗忠順の声が、玄界灘に白波を立たせる潮風に吹き飛ばされていた。

「こちらが始からけんか腰だと、交渉に余裕がなくなる。まずは対馬の主権は日本にある、ロシア艦の船長らの行為は国際法違反だと、理路整然にていねいに説明されたほうがよかろう。最初は正論を述べておく。受け入れる、入れないは向こうの判断で」
 幕府目付の溝口が、キセルの煙草のきざみを取り換えている。

 外国との交渉には、幕府の目付が同行し、観察する制度があった。その交渉内容が老中に報告書として上がる。その制度は、幕府がこちらに不利な約束をさせない仕組みでもあった。
「溝口殿。ロシアの本音は聞かずとも、南下政策で日本の対馬を奪うつもりだ」
われらが優柔な態度で会談に臨めば、ロシアは難癖をつけ、ずるずると解決を先延ばし、二年も、三年も解決を長引かせ、あげくの果てに対馬占拠を既成事実にさせてしまう。
 それが予想できるだけに小栗 忠順は、心底から憤然としている。
「小栗豊後守、ロシアとの軍事衝突は避けよ、相手の挑発に乗るな、という幕府の命令に沿うよう。拙者は目付として豊後守の手綱を握りしめておく役でしてな」
溝口が両手で、暴れ馬の手綱をとる素振りをした。

「貴公は目付だから、余がロシアと交渉する過程をみて、幕府の意向通りに対応しているかそれを、とそれを見張る立場だ。監察だ。......だから、余の性格で、暴走しないか、と見張っているのだ」
「まさに。その通り。ロシア人がどんな言い訳をするか。まず相手の言い分を聞いてから、胸倉をつかんでも、遅くはない」
「懐柔策は望まぬ。最初から高飛車に出て、即刻この島から出て行け、と迫ったほうが解決ははやい。アジアで不凍港が欲しいロシアだ。生半可な交渉では事態が解決しない。対馬は日本に主権があるんだ、とロシア人の胸倉をつかんでも、喧嘩腰の気迫で臨まないと、この度の事態は動かないだろう」
 といっても、溝口八十五郎がのんびりキセルのきざみ煙草を取り換えている。
「対馬の島人を、ロシア海兵が二人も殺害しておる。許せぬ。凶暴な相手には、強い態度で対処するのが一番である」
 小栗のやり場のない悪感情を吐きだしていた。

「小栗豊後守。ここは落ち着いて考える。幕府から与えられた我々の役目は、『ロシア艦を退去させよ』でなく、『退去に追い込め』でござる。その違いを認識なさって外国奉行として対応されたほうがよろしい」
 小憎たらしいほど、溝口は冷静である。
「はたして正面からの正攻法の抗議だけで、ロシア艦を追い出せるだろうか。西洋の歴史的をみても、ロシアの南下にはいずこの国もてこずり、戦争に及んでいる。生半可な国じゃない」
「だからこそ、冷静に、国際法で対応されたほうが良い。拙者は幕府の目付だから、助言のみに徹する。交渉の主役は小栗豊後守だ」
「貴公・溝口殿は目付だから、老中にも将軍にも直じきに意見を具申できる、強い立場だ。老中の考え通りにせよといい、余の行動範囲を狭めてしまう。そうなると、対馬をロシアに奪われて、将来の日本に禍根を残だろう」
小栗忠順が攻撃的になると、溝口は無言でかるく視線かわす。

(貴殿も、昨年は遣米使節団の目付だったし、なにを言うか)
溝口はときに、目でそう反論している。
 玄界灘の荒波が、咸臨丸の船側をなんどもたたきつける。咸臨丸の汽缶がどこか不 整脈のような不規則に振動に思える。
「溝口殿。日露和親条約、日露修好通商条約を結んで、両国はたがいに批准しておる。この条約をロシアに順守させる。対馬は開港しておらぬ、と主張する。胸くそが悪い不法者のロシアを恐れ、日本が低姿勢になる必要はない。ロシアの野心は対馬の割譲だ。一坪たりとも渡せぬ。即刻、退去せよ、と強く言い寄る」
 小栗忠順は、熱(いき)り立った口調である。

「あいては海も凍るロシアからきた連中だ。正論だけで首を縦に振るほど、ロシアは甘くない。だいいち日本には軍事力がない、と見透かされている」
この咸臨丸には、小栗家臣ら十数人が乗り込んでいる。船酔いでデッキから身を乗 
りだし、嘔吐している者もいる。
 潮風が強いので、操舵室の船長が緊張した表情で、大きな舵を回している。船員らは帆柱マストを結ぶ太いロープをきつく締めなおしている。

          *

――老中・安藤信正公(陸奥(みちのく)国(こく)磐(いわ)城(き)平藩(たいらはん)の藩主)は、根が弱腰だ。外交では大国へさして強い抗議ができず、自分の代で茶をにごし、後任に解決を託す。そんな態度で、ロシア艦の対馬占拠が未解決のままだと、日本列島は島々が多い、類似の占領事件が多発するだろう。

 昨年11月6日に、非常に優秀な外国奉行の堀利煕(ほりとしひろ)が、プロシアとの通商条約の締結目前にし、老中安藤信正と激論した夜に自刃したのである。なにが、原因か。多くの説があるけれど、安藤の外交政策を批判する堀利煕が死をもって諫言した、という見方がもっとも事実に近いだろう。
 自刃に追いやった安藤信正が、堀利煕の後任に命じたのが、この小栗忠順(のち上野介)である。
 小栗にすれば、外国奉行として、ロシア・ポサドニック号対馬占領事件が初のおおきな外国奉行の仕事であった。
「豊後守殿。貴殿が強い態度で臨んでも、日本はロシア帝国と戦争するほどの海軍力などない。太平洋をたったいちど横断して来たくらいで、この咸臨丸はもう船体がボロボロ、機関はガタガタ、不整脈の汽缶で、品川からこの玄界灘に入るまでも、四度もボイラの小爆発だ。それで帆走に切り替えれば、メイン・マストは折れる。船底の牡蠣(かきがら)を落してないから速力は出ない。十日で対馬に着く予定が、もう一ヶ月を越えた。これがいまの幕府最新鋭の軍艦だ。推して知るべしだ」
 溝口は辛辣に冷静にみている。そのうえで、こう言った。
「帆船と蒸気船の戦いの海戦ではロシア海軍に勝てない。ならば、陸上戦に誘い込んでも、海上から艦砲射撃で住民の犠牲は甚大だろう。どれだけ人命を失おうとも、日本がロシア帝国には勝てない。小栗殿が口で言うほど、ロシア帝国との戦いは生易しくない」
 文久元年(1861)年二月三日に、申の刻(午後3時頃から午後5時)頃に突然、大型のロシア軍艦・ポサドニック号が対馬の尾崎浦に入ってきた。対馬藩の問情使(もんじょうし、朝鮮通信使らとの外交役)が船上で、理由を問えば、二月の荒海で船体を破損したので修理したい、という。

――ロシアの蒸気軍艦・ポサドニック号は約1000~1200トンクラスのコルベットで、三本の帆柱で長さは約70メートルのスクリュー船である。帆走と蒸気汽缶の動力で推進する。定員は約360人であった。

  ここからロシア帝国海軍の対馬占拠事件が起きます。

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