A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

高間省三の墓参  20歳で死す。福島県・浜通りの戦い 

DSC_0567.JPG 3.11東日本大震災から11年経っている。高間省三の参拝で、双葉町の自性院の墓地に入った。周囲の墓石の多くは、いまだ積み木崩しのようだ。目ざす高間省三の墓は自然石でどっしり座っている。

 かえりみれば、フクシマ原発事故から三年目で厳しい立入禁止。特別許可で、防護服で身をつつみ取材・お参りして以来だ。
「このお墓です」
 墓石の文字は風化して読めない。墓前のワンカップの水をかけてみる。『高間省三之墓』と浮かび上がった。歴史の幕が開いたような感慨をおぼえた。
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 同行してくれた楢葉町・町議員の宇佐美さんが、線香を立ててくれる。

 慶応4(1868)年7月、広島藩の第一神機隊は平潟に上陸したあと、相馬・仙台・旧幕府軍の連合を敵とし、磐城、広野、楢葉、大熊、浪江と浜街道を北上していく。激戦続きだった。
高瀬川を渡り、大激戦の浪江で、高間省三は命を落した。
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「ご遺体は、ここに眠っているのですか」
宇佐美さんが訊く。
「そうです。浪江の戦いで、頭部に銃弾を受けて即死でしたから。遺体はここに埋葬されて、遺品はすべて広島に持ち帰っています」
 二百数十点が護国神社に奉納されている。

 当時、超エリートの死を悼み、浅野藩主の長訓、世子・長勲が神社をつくった。それがいまの広島護国神社で筆頭祭神は高間省三である。
「二十歳で筆頭祭神とはすごいですね」
 宇佐美さんがおどろいていた。

「大村益次郎が創った靖国神社よりも、1年早い。つまり創建が一年早いのです」
「高間省三の遺品は閲覧できるのですか」
「いいえ。広島市は、「軍」、「軍人」となると、展示品の閲覧も、銅像も歓迎しないようです。
 そんな語らいをした。

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