A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

講演会「渋沢栄一と一橋家」= 衆議院選挙の1週間前で、経済が語りにくかった 

2021年10月24日、葛飾区立立石図書館(小池館長)で、『渋沢栄一と一橋家』について、2時間の講演会をおこなった。
 当初は7月24日に実施される予定だったが、新型コロナ感染が東京オリンピック前でうなぎ上りに急拡大しており、講演会が3か月間延期されたものだ。
 7月時点は「密」を避けるために、35人に絞り、申込者が多く、すぐに締め切ったもの。10月に入ると、参加人数の規制緩和がなされたけれど、
「7月でお断りの方々が多かったので、再募集すると不公平になりますから」
 と主催者は3か月前の申し込みのまま実施した。


 講演タイトルはNHK大河ドラマ「青天を衝け」に近い内容であり、7月の場合は同大河ドラマは、渋沢栄一が京都において一橋家の家臣になる頃の展開だろうし、京都の徳川慶喜の活躍にウエイトを置いた話を予定していた。

 しかし、10月24日は渋沢栄一がパリ万博に行き、資本主義とはなにか、フランス国債、そして自費で株券を買う体験、銀行の産業の役割を知るなど知ったうえで帰国して、静岡で合本会社(株式会社)を作り、大蔵省に引き抜かれるところだった。

 講演会の参加者に、大河ドラマ「青天を衝け」を見ている方に手を挙げてもらうと、大半が視聴していた。
 そこで渋沢が大蔵省に入り、銀行法を作る、外債で鉄道(新橋~横浜)を作る、数々の株式会社を立ち上げる。「日本の資本主義の父」とよばれる経済面を中心にシフトした。
 
 つまり、慶喜が一橋家として家定将軍の継承問題に巻き込まれる、禁門の変、長州戦争、大政奉還、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争という政治中心だったものが、急きょ、明治時代の「渋沢と資本主義」へとシフトさせた。
 
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 現在の経済問題は、GNPの伸び悩み、国民所得が韓国に抜かれた。国債が1100兆円ある。
 もし、現在、渋沢栄一がいれば、どんな手段を講じるか。
「歴史から学ぶ」
 10月31日は衆議院議員選挙があり、不用意な発言はできない。現代に置き換えてケース・スタディ―をおこなえば、アベノミクスの本質的な問題点にも言及する。その事例は自民党批判となり、特定の政権に誘導にもなりかねない。
 ここらは避けて通った。
 
 本来ならば、「廃藩置県」で、わが国は君主制から中央統一国家となり、全国260藩の全借金を明治政府が背負ったのだ。その負債額は天文学的ともいえる膨大なものだった。

 現在の国債発行残高1100兆円よりも、政府ははるかに精神的な負荷がかかっていたはずだ。

 徳川時代の武士は「金勘定(家計)」は女の役目だとして帳簿などわからない。戊辰戦争で勝って政府高官になっても、だれひとり資本主義の理論はわからない。大蔵省といえども、大久保利通や井上馨など、まったく理解できない。
 資本主義を理解しているのは、元幕臣の渋沢栄一くらいだった。

 「廃藩置県」で、武士階級がなくなり、全国の士族100万人が失業した。それをいかに食べさせるか、という当面のおおきな問題がある。

 渋沢は政府が抱え込んだ借金を外債などで対応し、武士階級の失業者には「秩禄処分」で6年間の延払いで切り抜けた。その「秩禄処分」は自由に売買させた。それが債券市場、会社の株を自由に帰る株式市場の発達につながった。
 つまり、政府の膨大な借金が資本主義を加速させた。日本版の産業革命で高度成長し、近代国家となり、貿易収支も黒字へと転換していった。
 
「政治家は歴史から学んでいない」とよく言われる。政治、戦争ばかりでなく、経済面でも途轍もない経験則がある。
 ここらは衆議院選挙のまえで、具体的に語れなかったのが残念だった。

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 一橋家の面にも触れた。徳川慶喜公をどう評価するか。「鳥羽伏見の戦いで、大坂城の慶喜将軍が真夜中に変装し、江戸に帰ってしまった。旧幕府軍は総崩れになり、大敗した」というのが通説だ。慶喜は無責任だ、幕府軍を統率する気がない。なりゆき任せで、場当たり的だ。臆病者だ。
 それが明治時代から人々にすりこまれている。おのずと評価の点数が低い。

 ただ、歴史の通説とは、おおむね為政者に都合よく恣意的に改ざんされたものが多い。現在も解明されていない。
 慶喜は家康の再来とまで言われた聡明な将軍である。大政奉還をなしたあと、慶応4年1月3日に鳥羽伏見の戦いが勃発した。その3日後だった。同月6日、慶喜は大阪城から突如として脱出した。
「何のために帰還されたのか。真の目的はなにか」
 慶喜が怯懦(きょうだ・臆病者)といわれても、暗愚(あんぐ)と評価された。いささかも弁解しない。

 有栖川宮が大総督として東征してきたとき、これは薩長が事を構えて朝命を矯めて(ゆがめて)、德川幕府を無理に朝敵としたものだ。
 仮に旧幕府軍の慶喜が迎え撃てば、立場が変わった。勝てば官軍で、薩長側がかえって朝敵になっただろう。
 しかし、慶喜は江戸城の無血開城を命じ、上野寛永寺でひたすら一意恭順で朝命に従うと謹慎した。
「慶喜が真っ先に謹慎するとは、理解に苦しむところだ」
 渋沢栄一すれば、当時はパリに行っており、実態はわからず、永い間の不可解な疑問だった。
    
          *   

 慶喜は大正2年77歳まで生きた。
 15代将軍の慶喜が、このまま真実を語らなければ、王政復古の陰に押しやられた状態で、歴史の真実が永遠に消えてしまう。
 一橋家の元家臣の渋沢栄一が、德川慶喜に伝記の出版を勧めたのである。
「いまさら語ることもなかろう」
 慶喜は拒んだ。
 歳月が経っても、三条、岩倉、大久保、西郷の話題をむけても、慶喜はいつもそしらぬ態度をとっていた。

 渋沢は粘った。明治40年に、百年千年後においても、慶喜公が大決断で大政奉還し、江戸城を無血開城した。その経緯を書き遺すべきです、と渋沢は口説き落とした。
 慶喜は死んでから百年後まで世に出さないという条件で応じた。
 それが「徳川慶喜公伝」(国立国会図書館アーカイブで検索)、「昔夢会筆記(せきむかいひつき)」(平凡社4000円)の2冊である。
 大正4年に、「昔夢会筆記」がわずか25部の限定私版である。編集関係者だけに配られたものだ。
 
 現在では、徳川慶喜が登場する学術書、歴史小説、大河ドラマなどは、かならずこの2冊が底本になっている。

 葛飾区立立石図書館の講演会『渋沢栄一と一橋家』で、「昔夢会筆記」を持参した。関心を高めたようだ。

 私は講演会にはレジュメや教材的なものは作らない主義だ。今回は『一橋家(徳川慶喜)と渋沢栄一の略年表』を作成し、配布した。それというのも、慶喜77歳、渋沢は91歳で、当時としては長寿だが、活躍した時代が大幅にずれている。私の講演に双方の組み合った年表がないと、参加者の理解が難しいと判断したからである。

「感想」

① いままで思っていた慶喜公、渋沢像とちがった観点から聴けて参考になりました。

② 歴史を多方面からみる楽しさを知りました。

③ 大河ドラマと関連づけて講義してくれたので、次回以降の放送がいっそう楽しみです。

④ 渋沢栄一の人間性が良くわかりました。

⑤ 現代とと照らし合わせての考え、発想、これが大切とあらためて刺激を受けました。

⑥ 楽しくて眠くなる時間はなかったです。
 について、2時間の講演会をおこなった。それら書物も紹介した。

 

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