A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

私はなぜ歴史小説を書くのか=あくどい人間をいつまでも英雄にしておかない

 十年一昔のことわざ通り。この『穂高健一ワールド』の掲載数は約10年間の累積が2730の掲載に及んでいる。(HPは10年目のメンテナンスで、ここ1か月間ほど掲載が止まっていました)。

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 私の記事のみならず、多くの寄稿作品から成り立っている。読者が、『穂高健一ワールド』を利用してもらう場合には、トップ画面の「サイト内検索」で、キー・ワードを入れてもらえば、数分以内で呼びだせる。
 寄稿者ならば、自分の名前を入れると、過去の掲載作品が一瞬にして表示される。

 歴史に興味ある方だと、事件名、人物名、地域名、あるいは歴史用語などを「サイト内検索」に入れて左クリックすれば、その関連の記事が列記される。

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 「歴史」とは過去の事象を描くもの。しかし、裏を返せば、新発見とか、新しい切り口とかで、従来の史観がちがってくる。

「歴史」は時代とともに進歩しているといえる。その面でいえば歴史は、科学や医学の進歩とおなじかもしれない。

 このHPに掲載した歴史関係は、この10年間の流れのなかで、多少なりとも内容が違ってきている面もある。それは新たな取材の裏付け、思いもかけない新発見の史料による歴史の進化があったともいえる。
 ただ、私のテーマは変わっていない。「あくどい人間をいつまでも英雄にしておかない」という信念と信条は変わっていない。

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 約10年ほど前のある日、山口県内の著名な博物館を訪ねた。坂本龍馬の取材で、歴史学者に話を聞いていた。1時間ほど経った。
「長州は、倒幕に役立つ藩でなかったんですよ。萩と長府の分裂で、長州藩内は殺戮の内乱の連続だったんですよ。明治なるまで、藩論統一はできなかった」
 私はえっとおどろかされた。

 その後、調べてみると、長州が幕府に勝ったという第二次長州戦争のあとも、毛利家は朝敵のままだった。これでは倒幕など足も、手も出ない。調べてみると、毛利藩主・世子や長州藩士らは隣の芸州広島藩にすら足を運べなかった。
 木戸孝允ら長州の幹部が広島藩との打合せにいくことすら、幕府の厳しい目があるために容易ではなかった。広島藩世子・浅野長勲(最後の大名)が船に乗り宮島詣でカムフラージュし、新岩国港まで迎えに行かざるを得なかった。
 慶応3年12月9日の小御所会議まで、約一年間、毛利家の家中が京都に足を踏み入れば、新選組、見回り組に斬り捨てられる状況だった。

「長州藩は倒幕に役立つ藩でなかった」
 それは歴史的事実だった。なぜ「薩長倒幕」という用語になったのか。後世の歴史学者のねつ造か。

 それを深く掘りさげると、芸州広島藩浅野家の「芸藩志」(げいはんし)に出会った。実態は薩摩と芸州広島による「薩芸倒幕」と行きついた。そして、「広島藩の志士」(二十歳の炎・改訂版)を出版した。

 ここから、私は幕末史の通説を信用しなくなった。
     
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 有名な黒船来航においても、通説では、徳川政権の交渉団は弱腰であり、ペリー提督に蹂躙(じゅうりん)された。それによって、わが国は鎖国を放棄し、いやいや開国されたというものだ。
 この定説が教科書にまで採用されて、明治、大正、昭和、平成、令和の現在まで、大手を振ってまかり通っていた。俗にいう、薩長史観である。

 その根拠は「ペリー提督日本遠征記」である。外国に遠征した軍人たちは、不都合なところは隠し、わい曲した自慢話ばかりである。
 明治の御用学者は、薩長閥の政治家たちをヒーローにし、一方で、西洋コンプレックスからアメリカ側の史料をう呑みにしている。黒船の 乗組員の日記・覚書を中心にした「ペリー提督日本遠征記」が我が国の学説の根拠にしている。かたや、幕府側の史料は完全に無視だった。

 当時の徳川家の狩野派などは、世界に通用する繊細な肖像画技術を持っていた。しかし、おもしろ可笑しく人の気を引く「かわら版」のペリー提督の鬼のような似顔絵を教科書に採用されている。

 1853年の「黒船来航」から約160年経った現在、日本側の外交交渉団の『墨夷応接録』(ぼくい おうせつろく)が世に出てきた。
 幕府の交渉団は、アメリカ大統領の国書の扱い、アメリカ側の通商要求などつよく拒否するなど、結果からみた歴史的な事実とぴたり符合できる。

「幕府は弱腰ではなかった。かれらはペリー提督の要求を論理的に、ことごとく打ち砕いていた」
 私たちの想像をはるかに越える幕府の外交は知的な集団だった。

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 ペリー来航以前においても外国船の来航が数多くあった。イギリス、フランス、オランダ、アメリカ、ベルギーなどの来航が、当時の外交政策におおきな影響を与えている、と私は知った。

 徳川幕府の重要な史料『墨夷応接録』から、私は阿部正弘を追ってみた。日本側の歴史書は信用ならないと、さらに外国側から資料をあさりはじめた。
 オランダの「別段風説書」などすべて目を通した。冒険家マンドナルド(長崎で、通事に英語を教えた)も、貴重な資料を残している。
 さらにジャワやアジアで発行されている英字新聞なども漁った。グーグルの翻訳サイトを使えば、無料で膨大な英字新聞すら数秒で日本語になる。
 「てにをは」はあやしげだが、私は作家であるし、文意は難なく読み取れる。
 発刊した『安政維新』(阿部正弘の生涯)は、これら外国資料と『墨夷応接録』で組み立てている。

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 私は、薩長史観が幕末英雄を鼓舞した軍事思想になったと、嫌悪に似た感情を持っている。薩長閥の政治家は、教育で軍国少年を作り、「お国のために戦う」と命を投げ捨てる兵士を作り上げた。日本の近代化という名の下に、大陸侵略へと手を伸ばしていった。

 日清戦争、日露戦争、満州侵略、日中戦争、太平洋戦争へと悲惨な結果へとつながった。太平洋戦争だけでも、320万人の戦死者を出した。近隣諸国を含めると、千数百万人の犠牲となった。
 元を正せば、御用学者が作った薩長史観が、悲惨な戦争への道になった。

 令和3年の今、太平洋戦争から77年が経つ。明治新政府の軍事教育から150年が経った。
「150年前の罪だから、忘れてしまったともよい、ということにはならない」
 私たちは人間としてやってはならない倫理、道徳の面で、過去の英雄を裁判にかける必要がある。
『あくどい人間を、いつまでも英雄にしておかない』
 その執筆精神は大切にしておきたい。来年8月から、私は新聞連載のしごとが入っている。無抵抗な市民を殺戮し、政権の座を得た人物は英雄の座から引き下ろしたい。 

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