A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

藝州広島藩の神機隊を探訪する = 大政奉還論を推し進めた広島藩 ①

 第二次長州戦争から戊辰戦争まで、歴史には謎が多い。謎というよりも、資料が薄く、推測でしか、筋立てが追えない面が多い。
 第一長州征伐が起こる。幕府側の総督・尾張慶勝(元尾張藩主)と、参謀の西郷隆盛(薩摩藩)が、35藩15万人で進攻しながら、曖昧な長州処罰で引き揚げてしまった。ここに徳川幕府が倒れる大きな起因があった。

 歴史学者や歴史作家は、ヒーロー西郷隆盛を悪く言いたくのだろう、倒幕の根源が第一次長州征討の未処理のいい加減さにある、書きたがらない。
 一橋家の徳川慶喜がそれを知って「芋(薩摩)にやられたのだ」と尾張の慶勝に激怒した事実がある。
 明治時代になっても、德川慶喜が『長州・毛利は許せても、薩摩・島津は許せない』と語っている。ここらが本質をよく物語っている。


 孝明天皇は曖昧な長州処罰に不満だった。さいど朝敵の長州・毛利家を討て、と命じた。もはや、と14代将軍の家茂がみずから大阪城まで、出陣するより方法はなかった。ただ、和宮の夫だけに、孝明天皇からすれば、家茂は義弟になる。
 強引な長州征討はもとめず、やや緩やかなものになった。

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 1866年6月に第二次長州戦争が勃発するのだが、その前年から、幕府は第二次長州征伐へと進む。15万の幕府軍と500人の長州藩軍の戦いだった。だが、幕府は一つに結束できなかった。

 まず、広島藩は2回目の長州戦争に大義がないと征討に反対した。老中・小笠原長行が幕府軍の指揮を執るために広島にやってきた。広島藩の野村帯刀、辻将曹(つじしょうそう)ら執政(家老級)は、繰り返し戦争回避の建白をする。
 ところが、小笠原老中は、出兵に反対する広島藩の執政(家老)二人も楯突くと言い、謹慎処分にした。これでは藩政府は回っていかない。
 老中の横暴に対して、学問所関係者の若手55人が反発し、『戦争を推し進める老中を打ち取るべし』と小笠原の暗殺を謀る。そのなかに、高間省三がいた。あわや幕府と広島藩の戦争になりかけた。藩主の浅野長訓、世子の長勲が小笠原老中を広島から退去を言い、かつ広島藩の参戦拒否で収めた。

越後高田藩の出兵風景 絵=最後の浮世絵師・揚州周延(橋本直義)、かれも参戦している。
 

 越後高田藩の部隊などをみれば、慶応元年5月に越後から大阪に向けて出発していた。12月に海田(広島県)に到着しました。兵士らは厭戦(いやけ)の気分だった。部隊は延々と海田で待機していた。
 諸藩をみれば、2度にわたる戦費はすべて自前だし、苦境に陥っていた。いつ戦闘が怪死するのか、見通しも、情報もなく、戦う気迫は削がれていた。

 薩摩藩となると、小栗上野助など江戸の幕閣が「長州を討った後、その勢いで薩摩を討て」と主張している。なにしろ、第一次長州征討の毛利家処分なしの総引き揚げは、幕府を嫌う西郷の罠だと思っている。
 
 にらまれた薩摩藩は、もはや幕府の先鋒となって朝敵の長州藩と戦争などしていられない。むしろ、薩長同盟を結んで、ともに耐え忍ぼうとする策にでた。

 それでも長州戦争が勃発する。藝州口では、厭戦気分との彦根藩と高田藩が、広島が抜けた先鋒隊となった。武器は旧式だし劣勢になった。敗走する。しかし、フランス式の軍隊の紀州藩が出てきて、長州を追い返する。藝州口の戦いは互角だった。

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 幕府側からみれば、最悪は小倉城だった。肥後熊本藩の大将と老中・小笠原が大喧嘩してしまったのだ。肥後熊本藩は総引き揚げする。他の九州の諸藩も引き揚げてしまった。
 となると、小倉藩だけが長州藩と戦う。沖合の幕府側の戦艦は、射撃の砲弾も高価だと言い、艦砲射撃もしない。戦う気力もなく、傍観していた。

 小倉城は、藩士ら手で自焼した。しかし、ゲリラ戦で、長州藩兵と長く戦っていた。

 14代将軍の家茂が大阪城で死去した。一橋慶喜の命令で勝海舟が広島に休戦協定でやってきた。広島藩の執政・辻将曹(つじしょうそう)が、長州藩にかけあい、宮島で長州藩と幕府との間で、休戦協定がむすばれた。

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 江戸の幕閣あたりから、3度目の長州征伐を言い出す。
 広島藩としは藝州口で、甚大な被害をこおむっている。また、戦争をる気か、民が塗炭(とたん)の苦しみに追いいるだけだ。
「こんな徳川幕府はもう政権を朝廷に返上した方がいい」
 広島藩が藩論一致で、倒幕に動き出した。まず薩摩を巻きこんだ。土佐藩は山内容堂の許可が取れなかった。代わりに、朝敵の長州を加えて、薩長芸軍事同盟を結んだ。軍事圧力で幕府に迫るというものだった。

 勘の良い徳川慶喜は、土佐藩と広島藩が出した大政奉還を受けた。慶喜は、ここは一度幕府を解体し、新たな政府をつくる。アメリカ大統領のような頂点を据えた。議会制度をつくる狙いがあった。
 大政奉還は朝廷が認めた。ここで、公家が秘かに動いた。「王政復古」という平安時代のような、武士階級でなく、朝廷を動かす公家による政治を行う。
 主力は岩倉具視で、薩摩の大久保利通と西郷隆盛がそれに乗った。

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 慶応3年12月9日に、王政復古新政府ができた。幕府は武力でつぶしておかないと薩摩にしろ、長州にしろ、わが身が危ないと、鳥羽伏見の戦いが起きた。
 広島藩の執政・辻将曹が、「これは薩摩と会津の怨念の戦いだ。広島藩はこれに乗るな」
 伏見に出ていた軍隊には、戦わさせなかった。


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 朝廷から、広島藩には備中・備後に出動せよ、と命が出る。藩兵が出動したが、神機隊が300人も出陣した。尾道から笠岡に上陸し、備中の陣屋を占領し、民衆を鎮撫し、一応の役目を果たしてきた。


「伏見の戦いで、辻将曹の実弟・岸総督が失態を犯した。日和見の広島藩が闘いから逃げてしまい、京都の有志から、腰抜けだと嘲笑されている」
 船越陽之介が、その情報を持ち帰ってきた。
「広島藩が笑いものにだと」
 若き神機隊の隊員が激怒した。このうえは、神機隊の全体が一致して、激戦地に出動し、命をかけて戦おう。広島藩の名誉挽回だ。ただちに関東出兵を決めた。

 神機隊の出動は、財政難の広島藩から認められなかった。
「みずから、軍費を負担して出兵する以外に方策はない」
 と家中や豪商・豪農に。軍費調達に走れ、と出兵の準備を着々と整えた。

「神機隊が自費で、戦場に行くなど、広島藩の恥さらしだ」
 藩政府は、請願の裁許を出さない。
「ならば、精鋭として選んだ320人はみな脱藩しよう」
「300余人がいちどに脱藩など、前代未聞だ。広島藩の無策ぶりをみせるようなものだ」
 藩政府は議論百出だった。

                      【つづく】
『予告』

 ◎2回目
 ・広島藩・神機隊の高間省三(二十歳にして広島護国神社の筆頭祭神)、一橋家の興譲館の館長の阪谷朗盧(開明派の学者)、NHK大河ドラマの主人公・渋沢栄一(近代日本経済の父)、かれらの知られざる接点。
 ・パリ万博に行く渋沢栄一の「見立養子」となった渋沢平九郎は、上野の彰義隊から分裂した振武軍の副隊長となった。戊辰戦争の飯能戦争(埼玉県)において、平九郎は秩父の山中で神機隊斥候と遭遇し、戦った末に自刃する。割腹した名刀の小刀が神機隊の河合三十郎の手で永く保管され、明治26年に広島で渋沢栄一に渡された。
 拙著「広島藩の志士」には、現地取材で詳しく取り上げられています。
 ・大河ドラマ「青天を衝け」で、この渋沢平九郎が悲劇のヒーローとしてクローズアップされてくるでしょう。

 
◎3回目

 ・自費出兵の神機隊は約21歳の若者たちで、従軍日記にもローマ字で署名するなど、高度の知識と教育訓練を受けた精鋭部隊たちだった。
 ・広島藩主の藩命でないからと言い、総督を置かず、義勇同志とした。武士と農兵との間には身分の上下をつくらなかった。関東征討、奥州の激戦地で戦う若者は、軍律厳しく、侵攻者特有の暴虐は許さず、現地の民に気配りする美談の数々を残す。
 ・令和のいまも、墓前に花が飾られている。

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