A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

再掲載・【歴史から学ぶ】 日本の経済・文化が変わる = 渋沢栄一からヒントを得る(中)

 渋沢栄一は面白い経歴だった。ここらからひも解いてみよう。

 生れが天保11(1840)年で、武蔵国洗島村(埼玉県・深谷市)の農家(名主)だった。幼少の7歳で、頼山陽の「日本外史」を読んでから尊王思想に魅せられたという。

 武蔵国の豪農の子どもらは剣術をならう。近藤勇、土方歳三などのように。渋沢栄一も武芸として神道無念流を学んだ。
 渋沢は19歳で結婚してから、江戸に出て、北辰一刀流の千葉道場に入門する。そこでも、尊王攘夷の思想に染まり、23歳にして、大胆なことを考える。
 農民はどんなに才知があっても、勤勉しても、政事はつけない。逆の道をいこう。それには、尾高惇忠、後に彰義隊頭取になる渋沢成一郎などとともに、「高崎城を乗っ取り」、その勢いを借りて、外国人の多い横浜の横浜を焼打ちにする。国家が混乱すれば、英雄が出てきて、国政をとるだろう。
 
「暴挙だ、一揆とみなされて、斬首が落ちだ」
 と従弟に反対される。

 高崎城乗っ取りを断念した渋沢栄一は、京都に出て、尊王攘夷の志士活動をしようと決めた。八月十八日の変のあとで、期待した過激派の長州は京の都を追われていた。勤王派は凋落していたのだ。
「持ち金がなくなった。腹がすくし」
 江戸で顔見知りだった一橋家の重臣・平岡円四郎が京都にいる。そこを訪ねた。
「うちにきて、中間でもやれ」
 と手を差し伸べてくれたのだ。ここから人生は尊王攘夷とは真逆になった。
 一橋家の最も下っ端で、足軽以下で、雑魚寝(ざこね)である。すこし昇格して御徒士(おかち)になった。
「一度でよいから、殿さまの慶喜公にお目通しさせてほしい」
 と御用人に頼んでおいた。大胆な希望だった。ところが、そのチャンスを作ってくれたのだ。
「一橋家には軍隊がありません。殿さま(慶喜公)は京都守衛総督でいながら、身辺警備の100人ばかり。京に戦いが起きたら、守衛でいながら役にもたちません。一橋家の御領内から1000人の農民をあつめて、歩兵を組み立てられたらいかがでしょうか」
 と注進した。慶喜はただ無言で訊いていた。

 数日後、歩兵取立御用掛を言いつけられた。つまり、兵士の募集係だ。

 一橋家は飛び地として摂州、泉州、播州、備中、それに関東にもある。御徒士の低い身分の渋沢栄一が出むいても、どこの代官所も協力しない。予想外の難問だった。一軒ずつの農民を口説いても、翌日には断ってくる。1人も集まらない。
 別の領地に出むいて、そこの代官に直接頼んでも、下っ端か、とあなどられてしまう。
 備中井原村(現・岡山県)は一橋領で、興譲館(こうじょかん)があり、阪谷朗廬(ろうろう)という著名な学者がいた。学者から代官に頼んでもらおう。思惑とおり、阪谷は協力してくれた。ここから切り口ができて、総体として450人ほどあつめられた。
 
 この興譲館には、広島・神機隊砲隊長となる高間省三が、学問所の助教のとき遊学していた。もしかすれば、渋沢栄一と顔を合わせていたかもしれない。
 神機隊と渋沢栄一とは戊辰戦争の時、思わぬ関わりが生じるのだ。

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 渋沢栄一は、小規模ながら、一橋家の軍隊を起こした。さらに、産業奨励にも積極的で、勘定組頭になった。みずから提案した藩札も発行し、金融の実践である。それぞれが成功した。経済が好きな人物になった。
 これが近い将来のヨーロッパ留学で、おおいに役立つのだ。

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 厄介なことに、慶喜が15代将軍になったことで、組織は巨大になってしまった。渋沢は望まずして家臣から幕臣になった。とはいっても、幕府内の超下っ端だから、とても産業・金融の仕事などありつけない。
 むろん、将軍・慶喜にも拝謁できない。また、浪人にもどろうか、と渋沢は考えていた。 

 慶応3(1867)年に、パリ万博が開催される。德川将軍の名代として、水戸藩の昭武(あきたけ・最後の水戸藩主)が出むくことになった。慶喜は、年少の昭武には5-6年は留学させる予定だった。
 かたや、水戸藩は頑迷な攘夷派集団だから、外国人嫌いだ。お供の人選に難航していたらしい。かろうじて7人と決まった。一橋家からは、金銭感覚の良い渋沢栄一が加わったのだ。
「経済が学べるぞ」
 夢が一杯だった。貪欲に学びたい渋沢は、まず船中でフランス語を勉強していた。
「なにがなんでも、ヨーロッパの好いところを学びたい」

 一行はパリ万博のほかにスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスと巡回旅行した。
 渋沢は学ぶポイントを絞り込んだ。将来は政事・政策など無縁だし関係ない。ひたすら経済学を修めて金融、運輸、商工業を会得することだと燃えていた。
 
 最大の関心事は、紙幣の流通だった。紙幣が金・銀に替えられる。それも量目も純分も同じある。日本の場合は石高の表示であり、金に換えられない。

 次の興味は銀行だった。他人の金を預かったり、貸したりもする。為替の取り扱いもする。ここらは日本にないシステムだった。
 ヨーロッパの鉄道会社は新規投資に、借用書(社債)を出す。日本では借金を隠すのが一般的だが、ところが、なんと借用証文(公債証書)が公然と売買されているのだ。

 商工業の組織は不特定が株券を買う、株式会社である。つまり、大勢が出資した商工の会社である。
「なるほど、国家の富強は、かくのごとき物事が進歩しなければならないのか」
 と資本主義の骨幹を知った。

 日本は武士が威張っている。だけれど、ヨーロッパの軍人は商工者(実業家)の地位を尊敬している。まるで、日本と逆だ。
「すべてのひとが平等でなければ、たがいに投資して、共同で事業の進歩を成すことができない」
 渋沢は領事官を介して、銀行家、郵船会社の重役に会って話すこともできた。経営者からの視点も得られた。

 こうして学んでいるとき、徳川幕府が倒れてしまった。帰国命令が出たので、一行は明治元年11月に日本に帰ってきた。

 德川慶喜公は謹慎で、駿河の宝台院という寺の汚い一室に、押し込め隠居のような有様だった。出発時には将軍であったひとが、惨めな生活を強いられている、と渋沢は心を痛めた。

 かれには養子に剣術の達人・渋沢平九郎(写真)がいた。戊辰戦争の飯能戦争で、振武軍の副将だった。
 平九郎は敗戦で、秩父の山道を逃げているさなか、広島・神機隊の斥候たちと遭遇した。4人をあいてにして追い払ったが、銃弾を一発足に受けていた。平九郎は観念して自刃した。

 渋沢栄一は慶喜の境遇、平九郎の死という失望感から、田舎に帰り農業するか、駿河でヨーロッパで学んだ産業の実践経営をするか、と迷っていた。

 ちなみに静岡市内の有力者たちに、合同出資を持ちだしてみた。

 ヨーロッパ帰りということで賛同者が得られたので、官民合同の「静岡商法会所」(株式会社)を設立した。渋沢栄一は事務総裁の頭取と名づけて、そこに座った。
 事業は米穀、肥料など商品の売買、そして銀行業務として貸付、預金もひきうける。いわゆる万屋(よろずや)商法であった。

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 明治2年11月、箱館戦争が終結するまえだった。突然、大蔵省に出仕せよ、と藩庁を介して渋沢栄一に厳達がきたのだ。
 かれは拒否した。
「それはならぬ、静岡藩が新政府に楯突(たてつ)くことになる、有為な人材を隠していることにもなる」
 と藩庁は受け付けない。藩主や慶喜公にも迷惑になることだという。

 この当時、大蔵卿(大臣)が伊達宗城、大蔵大輔(実質のトップ)が早稲田の大隈重信だった。その下に伊藤博文、さらに井上馨と続いていた。


 渋沢栄一は静岡藩庁の顔を立てて、ひとまず大蔵省に出仕してから、すぐに大隈重信に辞表をだした。
「これからの日本の経済界を進めていくには、渋沢栄一が必要だ」
(御免こうむりたい)
 渋沢は慶喜公の惨めな姿からしても、新政府に役立つ人間になろうとは思わなかった。
大隈の説諭は執拗だった。

                     【つづく】

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