A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【歴史から学ぶ】解決を先送りすると、滅亡の悲運に至る = 「下」

 第一次長州戦争の幕府軍の総督は、徳川慶勝(よしかつ)は、第14代の尾張藩主だった。尾張藩は62万石である。ただ、慶勝の両親とも水戸藩の血筋だった。

写真=尾張藩・元藩主 德川慶勝  ネットより

 つまり、慶勝は徳川斉昭の甥であり、尊皇攘夷派に固まったていた。生前の老中・阿部正弘から、尾張藩の徳川慶勝、福井藩の松平春嶽のふたりは、呼び出されて、
「徳川御三家と徳川親藩の藩主でありながら、水戸藩の老公のように、攘夷論をふりまわりし、まわりを煽るな」
 と、きつく注意を受けたことがある。

 阿部正弘の目を気にしていた慶勝だったが、正弘は老中の現職で早死にした。

 安政5(1858)年に、安政の大獄が起きた。その起因は一橋家の慶喜を将軍に推したい水戸藩の斉昭らが、江戸城に不時登城して井伊大老に抗議している。このなかに、甥っ子で、尾張藩主の慶勝がいた。決められた日以外に、江戸城に登城するのは、重大な規律違反だった。井伊大老から、慶勝は尾張藩主から外れる謹慎処分をうけている。慶勝の子が藩主になった。

「桜田門外の変」で井伊大老が暗殺されると、慶勝は元藩主として藩政に返り咲いていた。

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 広島藩の浅野家は、尾張藩と深い縁があった。
 
『尾張名古屋は城で持つ』といわれるほど、築城の歴史は輝いている。
 この初代の尾張藩主は、德川義直(よしなお)で、藩祖として尊敬されている。義直は徳川家康の九男で、正室は紀伊和歌山藩・初代藩主の浅野幸長(ゆきなが)の娘・春姫である。(ふたりの仲は良好だったが、子どもがいなかった)。
 この婚姻を機に、浅野家は豊臣家から徳川家に鞍替えしている。徳川の親族として幕末まで存続してきた。その縁があった。
 ちなみに、浅野幸長が早くに病死したことから、浅野長政の次男の浅野長晟(ながあきら)が、紀伊和歌山藩2代藩主となった。そして、元和5年(1869)に、安芸国広島藩の初代藩主として42万石で転封してきた。

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 広島藩の浅野長訓は、長州藩と幕府の周旋役をひきうけた。戦火なく、平和裏に事態を収拾したいと裏と表の両面の舞台で動いた。世子の浅野長勲(ながこと)、執政の辻将曹(つじしょうそう)、野村帯刀など、応接役の家臣の船越洋之助、藩主密使の池田徳太郎などが、活発に、目まぐるしく双方の仲介に動いた。
 岩国の吉川家とも密なる連絡をとっていた。

 幕府が総攻撃する日が、元治元(1864)年11月18日と決まった。総督の徳川慶勝は大坂を出て広島に向かっている。猶予の時間はない。
 広島藩の執政・辻将曹と、追討軍参謀の西郷隆盛は協調し、「事ここにいったては、禁門の変の責任を取り、出陣した三家老の切腹しか、収拾の道はない」と岩国藩の吉川経幹を通じ、萩にいる毛利敬親に伝えた。

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 山口から萩に引っ込んだ毛利敬親は、益田右衛門介、国司信濃、福原越後に自刃を命じた。萩の野山獄において、四参謀を斬罪にさせた。三家老の首級が広島に送られた。
 吉川経幹(つねまさ)も、弁明のために広島にやってきた。

 11月14日、広島城下の国泰寺で、三家老の首実検が行われた。このとき、慶勝はまだ広島に到着しておらず、尾張藩の付家老・成瀬隼人正(なるせはやとのしょう)が総督の名代になった。幕府の大目付・永井尚志(なおゆき)、目付は戸川鉡三郎(とがわはんざぶろう)だった。広島藩・辻将曹と薩摩藩の西郷隆盛は次室に控えていた。

 翌日、大目付の永井尚志による尋問がおこなわれた。岩国藩の吉川経幹にたいして藩主・毛利敬親と世子を面縛(後ろ手で罪人として引き渡す)ことと申しわたした。吉川は顔面蒼白となり、「この上はよんどころなく死守する」と答えた。つまり、防長の武士と人民は、そんな条件が付くならば、徹底抗戦すると回答したのだ。
 ここらが戦争寸前における特有のかけひきである。

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 総督・德川慶勝がこの日に、広島に到着した。浅野家の筆頭家老・浅野右近の屋敷を宿所および本営とした。11月18日に、総督・慶勝があらためて三家老の首実検をおこなった。浅野長勲も立ち会った。
 
 この二度目の首実験が、長州人には耐えがたい屈辱であり、幕府への恨みにつながっている。

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 総督の慶勝は、30諸藩の重臣から、「長州藩処分」に関して意見を聴取した。防長二州を没収せよ、毛利家を改易させよ、十万石の封地をさせよ、多くはこうした処分案だった。

 参謀の西郷隆盛から、慶勝にこう進言があった。
「長州処分を実施するには、公儀の指揮を待つ必要があります。この間、数万の兵を広島に残す必要がある。むなしく日を過ごし、いたずらに疲弊するだけです。ここはすみやかに撤兵したほうがよろしいかと存じます」
「さようだな。幕閣に後事に委ねよう。重要な長州処分だ、江戸の幕閣がやるだろう」
 慶勝は西郷の意見を受け入れたのだ。
 型通り山口と萩の視察を行なわさせた。そして、毛利敬親(たかちか)の自筆の謝罪書をうけとると、慶勝は深追いもなく、討ち入る気もなかった。孝明天皇から命じられた長州問題にはまったく手をつけず、処分未決のまま、征討軍15万の兵を早ばやと総引き揚げをしてしまったのだ。
 大目付の知的な永井尚志などは、あきれ果てて、江戸への帰路に就いた。
 
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 この撤兵を知らない江戸の幕閣が、「長州藩の毛利敬親・親子を江戸で裁く。都落ちの公家も江戸に連行せよ」という指令を広島に派遣してきた。大目付永井尚志とおなじ考えだ。途中で、慶勝に出会った。もはや、征討軍の全軍が引き揚げたあとで、すべてが手遅れだった。

 一橋家の徳川慶喜が、徳川慶勝に激怒した。
「それでも全権委任の総督か。毛利家を改易するとか、10万石の削減するとか、なんら処分をするべきだろう」
 まさに幕府の権威を傷つけられたとおなじだと、慶喜は怒り心頭だった。
 ふたりは水戸藩の徳川斉昭の血筋で、従兄弟どうしであった。幕府内に不統一の傷が深まった。
 ふたたび長州征討という第二次長州戦争へとすすんでいく。それが幕府滅亡の悲運へと重大な結果を招いたのだ。

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 たてつづけに2度の長州戦争で、兵をだす諸藩の疲弊は藩の財政圧迫に苦しんだ。
 畿内は大勢の兵士が集まり、米穀の消費が増えて、米価格が狂乱した。民衆の打ち壊しが多発し、関東の秩父や深谷地区まで飛び火した。人心が幕府から一気に離れていく。まさに、幕府瓦解へと加速度を増していったのだ。

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 第一次征討軍の総督と参謀による撤兵は、徳川側からみれば、罪深いものがある。「追って公儀が協議するだろう」と、ふたりの無責任ともいえる、他人任せの軽率な判断が倒幕を早めさせたことは間違いない。

 德川慶勝と西郷隆盛は、このさき明治新政府の擁立者となった。戊辰戦争で新政府が勝利者になったがゆえに、問題視されていない。むしろ、平和解決だったと美化されている。
 それは歴史の事実を覆い隠していないだろうか。


 私たちは、第二次長州戦争の戦禍に眼がとらわれがちだが、第一次長州戦争にも目を向ける必要がある。そこには貴重な教訓がある。
 歴史はくりかえす。現代社会でも、戦争はいつ起きるかもわからない。歴史から学び、戦争回避する。それには全権委任者が自己の判断と読みと、わが身を挺(て)でも決断する、という精神が必要不可欠だ。
 みずから責任をもって解決の道筋をつける。その気構えと勇気がなければ、結果として戦火を呼ぶことになるだろう。
                       【了】
 

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