A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【歴史から学ぶ】解決を先送りすると、滅亡の悲運に至る = 「上」

 私たちは、難問に出会うと、とかく解決を先送りにする傾向がある。戦乱や動乱のなかでは、未解決のままにすると、政治的におおきな命取りになることがある。
「難題は逃げないで、しっかり解決しておく」
 それは、私たちの生き方の教示にもなるだろう。

 265年も長くつづいた德川幕府が、ペリー提督の来航からわずか15年間で、あっという間に瓦解(がかい)してしまう。
 幕府滅亡の原因のひとつが、第一次長州戦争にある。

絵画=第一次長州戦争  ネットより

 長州征討の総督が徳川慶勝(尾張元藩主)、参謀が西郷隆盛(薩摩藩)である。このふたりには「長州問題の断固決着」という気迫が乏しかった。無責任ともいえる、政治的な未解決、先送りがそれである。

 芸州広島藩主の浅野長訓(ながみち)は、文久3(1863)年に薩英戦争、下関戦争が起こると、すぐさま家臣を視察に出している。西洋の兵力のすさまじさから、わが国がいま幕府と長州で戦争をしていると、亡国か、殖民地になると危惧していた。
 長州戦争の総督府が広島になっただけに、長訓は戦争回避への信念をつよく持っていた。
 
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 第一次長州戦争まで、簡略に歴史を追ってみよう。
 ペリー提督の浦賀来航のあと、幕府は鎖国から開国へと政策を変えた。やがて、安政5(1858)年に日米通商条約に勅許なしの締結、将軍継嗣の問題が重なった。井伊大老の弾圧から、「安政の大獄」が起きた。
 水戸藩が唱えた尊皇攘夷論が、全国の津々浦々まで吹き荒れた。そして、安政7(1860)年に桜田門外の変で、井伊直弼が暗殺されると、幕府の権威がいちじるしく失墜した。
 
 かたや、尊王論から天皇・公家による朝廷政治が台頭してきた。政治に素人だった公家らが、地位の改善を図り、処遇を良くしようと、尊皇派の武士の眼を京都にむけさせようと謀った。
 薩摩、長州、土佐らが朝廷政治の主導権争いをはじめた。幕府すらも、和宮降嫁による公武合体で、朝廷の力を借りようとした。

 京の都には、過激攘夷思想の脱藩藩士や草莽(そうもう)の志士たちがあつまり、「天誅」「斬奸(ざんかん)」「夷人切り」「義挙」という血なまぐさいテロ事件がおきた。

 朝廷政治の中核に座った長州藩は、過激攘夷派で、德川14代家茂(いえもち)将軍を上洛させたうえで、文久3年5月10日を「攘夷決行日」をきめさせた。
 その日から、長州藩は馬関(下関)海峡で、アメリカ、フランス、オランダの商船や軍艦につぎつぎ砲弾を撃ち込んだ。外国船が事実上、馬関海峡が航行できなくなった。
 攘夷決行を真に受けていたのは、長州藩だけである。他の藩はどこも従わなかったのだ。

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 孝明天皇は長州の過激行動を危険視した。このころ長州藩は、孝明天皇の詔書など無断で乱発していた。さらに、天皇親政による攘夷戦争を仕かける計画を企てていた。
 過激な長州藩を嫌う。孝明天皇はさすがに暴挙だと見なし、薩摩藩と会津藩に命じて、文久3年8月に、「八月十八日の政変」をおこす。京都から長州藩と尊攘派の公家を追い出す、クーデターであった。
 
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 水戸藩では、安政の大獄で永蟄居処分をうけた徳川斉昭の死去を境に、藩内で内部分裂がおきていた。攘夷派の「天狗党」と幕府寄りと、血なまぐさい殺戮の応酬であった。元治元(1864)年に、天狗党が筑波山で挙兵した。
 
 天狗党の乱に刺激された長州藩は、同年に、復権をはかる意図で、約2000人の軍隊を上洛させた。元治元(1864)年7月、京都御所の近くで幕府と武力衝突が起きた。この「禁門の変」で、長州藩は惨敗した。
 同年8月に、馬関海峡の攘夷・砲撃の報復から、四か国連合艦隊による「下関戦争」が起きた。これも惨敗だった。

 孝明天皇が、「禁門の変」で長州軍が御所に銃をむけたことから、「朝敵」となった。10月に、天皇が幕府に長州征討を命じた。この朝命で、幕府は21藩に出軍の準備を命じた。のちに30余藩になる。 
 そして、幕府軍は15万の兵で、広島城下に総督府をおいた。

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 長州藩は、京都の「禁門の変」と四か国連合艦隊の「下関戦争」、ふたつの戦いで大敗している。そのうえ、征討軍の約15万の兵に取り込まれる。深刻な存亡の危機にあった。

 幕府側は、負ける要素など何もなかった。まさに勝ち戦で優位にあった。強い軍事圧力の下で、長州藩に要求を突き付け、それをのませる立場にあった。

  戦争には仲介役が必要である。長州藩の毛利敬親は、長州藩の親戚筋の筑前藩、宇和島藩に依頼したけれど、両藩とも、幕府の怒りを買うことを怖れて、これを断っている。

 同年9月8日に、毛利敬親は、岩国藩の吉川経幹(きっかわつねまさ)を広島郊外の草津・海蔵寺に使わし、広島藩の浅野家に幕府との周旋を依頼してきたのだ。
 
 平和解決の態度を示す芸州広島藩には、幕府と長州の仲介役を引き受ける、理由が別にあったのである。
                  
                   【つづく】
                   
 

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