歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【歴史から学ぶ】幕末ベストセラーの頼山陽著「日本外史」は歴史書か、戦記小説か(3/3)

 日本外史を著した頼山陽とは、どんな人物だったのか。安永9(1781)年~ 天保3(1832)年、徳川中期の人物です。         
 
 頼山陽は、広島城下の袋町(現・広島市中区袋町)で育ちました。結婚して所帯を持っていながら、山陽は20歳で突如として脱藩を企てたのです。
 無断の脱藩は本人は死刑のうえ、家が潰される。頼家にとっては重大事件でした。叔父の頼杏坪(きょうへい)らが、京都の潜伏先から山陽を連れ戻してきました。

 広島藩から死罪の刑は免れたけれども、山陽は離婚のうえ、廃嫡((家を相続させない)、さらに座敷牢に閉じ込められたのです。

頼山陽像     撮影=芸州広島藩・広報・山澤直行

 幽閉された山陽は、足かけ五年間にわたり、ひたすら歴史関係書を読みあさりました。浅野藩は大藩で膨大な蔵書があり、それが貸し出しされたのでしょう。かたや、山陽は青少年たちにも読める日本通史を書こうと、『日本外史』(初稿)の執筆に取り組みます。

 監禁から解かれた頼山陽は、いつとき広島藩の藩校の助教になります。だが、27歳で福山にでむき儒学者・管茶山の簾塾(れんじゅく)で、教鞭をとります。その境遇でも満足できず、2年間で京都へ出奔します。これも2度目の脱藩あつかいになります。生涯に、4回脱藩し、藩も見棄てています。しかし、山陽は他藩には仕えず、京都で塾を開きます。

 35歳の時、九州に行脚する。日田の咸宜園(かんぎえん)の広瀬淡窓(たんそう)の知遇を受けています。4年後には京都にもどり、屋敷を構えて、「日本外史」の執筆に専念します。約20年間にわたり、考証とか、修正を加えています。

 文化10(1827)年に、頼山陽「日本外史」が完成させます。源平二氏より徳川家に至る、武家700年間の武家の盛衰史です。父・春水(しゅんすい・儒学者)の知己だった松平定信に献上されました。

 定信が称賛してくれました。そして、2年後には、大阪の3書店から全22巻が発刊されました。川越藩も独自に出版しました。

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 頼山陽著「日本外史」が、なぜベストセラーとなったのでしょうか。

 平易な漢文で、若年層にも読めるうえ、群雄割拠の治乱の世、山陽が名づけた「日本三大奇襲」など、波乱に満ちた紀伝が次々に描かれています。

 登場する武将たちの心理描写や、創作の会話体などを織り交ぜた強い文章の求心力で運ばれています。考証に難があっても、ドラマチックな歴史書です。
 源平の争いから始まり、源頼朝の鎌倉幕府、足利尊氏の足利幕府、信長、秀吉、徳川家康の徳川幕府は10代将軍・家治まで、家系ごとに分割されており、一気に読ませます。


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 徳川時代中期には天明・天保の大飢饉がつづきます。さらに中国・清国ではアヘン戦争が勃発し、内憂外患の時代がとなります。
 水戸藩の徳川斉昭が声高に「攘夷」(じょうい・異国を打ち払え)と幕府に迫ります。やがて、水戸藩の藤田東湖が「尊王攘夷」を打ちだします。


 水戸藩は光圀の時代から「大日本史」を編纂をはじめていました。御三家でありながら、水戸藩の底流には皇国思想がながれていました。
 「大日本史」神武天皇から後小松天皇の南北朝まで。完成したのが明治39年、全397巻226冊と膨大です。水戸光圀が史局を開いてから249年を要しています。この「大日本史」は出典も明らかで,考証も念入りに行われた、学術書です。
 徳川時代には100巻(全397巻)しかできておらず、全国の藩校のうち、50藩に配付されたていどです。
 後世でいわれるほど、水戸藩「大日本史」は読まれていなかったとおもわれます。
 

頼山陽が幽閉されて「日本外史を書いた部屋」  撮影=芸州広島藩研究会・広報・山澤直行

         
 尊王攘夷の「尊王」とは何ぞや。その疑問に応えてくれるのが、「日本外史」でした。読みやすく、現代でいえば、小学5、6年生が読める平易な歴史物語です。
 渋沢栄一は7歳のとき、桂小五郎もたしか8歳の頃、篤姫は10歳の頃、むさぼり読んだと記録されています。
 尊王が理解できる国民的な人気になりました。

 物語ですから、歴史編纂の面で時代考証に難があると言われていますが、現在の「歴史小説」と同じで、武将の心理描写、会話など、当人に取材していませんから、そこらはフィクションです。でも、ワクワク、ドキドキ、面白く読めて、歴史の流れがわかるのです。
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 かたや、水戸藩「大日本史」は幕末において100巻揃ったところで、(4分の1)の段階で印刷し、全国の藩校50か所に配布されています。この配布部数からしても、特定の学者の目にふれたにせよ、倒幕にさして影響を及ぼした国史と言えないでしょう。

 とくに通商条約、安政の大獄、桜田門外の変で井伊大老が暗殺されると、若者たちは強く政治に関心を持ちました。
 日本外史」が波乱に満ちたドラマチックな歴史小説として読みやすかった。それだけに、幕末の志士に強い影響をあたえました。
 
 若者たちは、「尊王攘夷」という熱気のなかで、自分は遅れたくないと、武士階級以外でも<「日本の歴史」を知りたくて、「日本外史」をむさるように読みました。
《我が国の最大の権威者は徳川将軍だと信じて疑わなかった》しかし、「国民の頂点に天皇がいる。幕府に政権を委託しているにすぎないのか。徳川幕府が、唯一、絶対の政権ではない。栄枯盛衰で、徳川家も永遠不滅ではない」
 それを読み取った若者らは、250年にわたる徳川政権に疑問を持ち、国家のあり方を問いはじめたのです。青春とは、既成の政治に不満をもちます。改革、革命へと突っ走ります。世界共通です。

 武士階級の者でも脱藩したり、農商階級の子弟でも草莽(そうもの)志士となったり、「尊皇攘夷」を掲げ、己の信念・信条で、激しい政治活動に加わってきました。

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「日本外史」が読まれるほどに、革命の勢いがついてきました。当初の欧米を撃ち払えという鎖国攘夷が、やがて尊王攘夷になり、尊王倒幕へと昇華していきます。さらに、天皇の親政国家へと運動が加速していったのです。

 ペリー来航から、わずか15年にして、徳川政権は瓦解(がかい)します。そこには、「日本外史」の英雄史観がおおきく関わっています。
                      【了】
                  

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