A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【歴史から学ぶ】広島藩からみた天然痘ワクチンで活躍した人たち(2/2)= RCCラジオ放送

 広島藩からみた天然痘ワクチンで活躍した人たち= RCCラジオ放送から、文章化したものです。

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 1796年、エドワード・ジェンナー(英国)が牛からの種痘法(しゅとうほう)を発見しました。牛が天然痘になると、乳房に膿(うみ)が生じる。それを人間の幼児の腕に接種するし、生涯にわたって天然痘にならない。しかし、親にとって「膿を打つ」とは恐怖でしかなかったのです。

 それでも、予防接種をつづけてきました。
 
 WHO は1980年5月天然痘の世界根絶宣言をおこないました。人類初となる天然痘ウイルスに勝利するまで、人類は約200年も近くかかっています。


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② 文政11(1828)年、長崎でシーボルト事件が起きた。シーボルトの愛弟子の高野長英(ちょうえい)は蛮社の獄(ばんしゃのごく)で、囚われの身になっていた。
 入牢する江戸・小伝馬町の牢屋が火事になった。「必ず帰ってこい、罪を減じる」と全員が解き放たれた。

 ただひとり帰ってこない者がいた。それは高野長英である。高野は江戸から逃走し、一路、広島にむかった。長崎で顔見知りだった広島藩医の後藤松軒を頼ってきたのだ。

高野長英の隠れ家 「日渉園」(広島市) (写真=山澤直行)

 松軒は約一か月間にわたり匿(かくま)った。

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 嘉永2(1849)年に、長崎出島のオランダ商館の医師・モーニッケが、佐賀藩医の楢林宗建(ならばやし そうけん)の要請で、牛の天然痘の痘苗(とうびょう)を3人分を持ち込んだ。当然、幕府の許可がいる。当時は、漢方医学の全盛期で「蘭方医学禁止」への政治圧力も強かった。
 
 老中首座の阿部正弘(福山藩主)が、漢方医たちの大反対があったが、1回くらいの輸入は良かろう、と許可したのだ。それが成功したのだ。
 楢林宗建がわが子に接種した。その一つが成功し、長崎の幼児にも試みて、新しい痘苗が数多く採取された。全国に広がっていく。

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③ 佐渡出身者の長野秋甫(あきすけ)が、長崎で7年間にわたり医学をまなんでいた。楢林宗建の種痘の成功を見て、「わが佐渡が島にも、天然痘がまん延しているので、出身地まで持ち帰ろう」と、痘苗(とうびょう)をもって帰路についた。

 山陽道の途中で、かれは広島藩の藩校教授・頼聿庵(いつあん)のもとに立ち寄った。頼聿庵は頼山陽の長男だった。能書家で、頼山陽をしのぐと全国的に有名だった。、
 長野秋甫は揮毫(きごう)をもとめて立ち寄ったのだった。
「貴殿は、長崎のオランダ医学を学ばれているとか。有益なことがあれば、ひとつ聞かせてください」
「世にも怖ろしい天然痘を撲滅できる、その痘苗(とうびょう)がわが国で入手できたのです」
 秋甫は牛から採取した天然痘ワクチンを語って聞かせた。
「ひとつ、私の子どもに接種してもらいたい」
 進歩的な頼聿庵は、怖れることなく、佐渡の長野秋甫が長崎で手に入れた天然痘のワクチンを接種してもらったのだ。
 つまり、頼山陽の孫が、広島藩における牛の種痘の第1番目だった。長崎・佐賀に次いで3番目の成功例だった。
   
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 広島藩学問所(現・修道高校)の頼聿庵は、後藤松軒にこのことを伝えた。頼聿庵の子どもから、新しい痘苗(とうびょう・ワクチン)がとれた。後藤松軒は、その新種から、広島領内に接種を広める活動にでた。 しかし、後藤松軒の広島藩に高野長英を、三滝「日渉園」(現在・広島大学薬学部の管理)にかくまったことが藩に知られてしまった。

 後藤は停職6か月という、半年間の謹慎処分だった。そのうえ、幕府の漢方医学の圧力もあって、広島藩でも蘭方医学が禁止されてしまった。


 痘苗(とうびょう)は新鮮なうちに受け継がなければ、枯れてしまう。後藤の門人たち三宅春齢(しゅんれい)、津川元敬、喜連(きづれ)良成、小川道仙たちが、隠れて横川村や安芸郡へと引き継いでいった。

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④ 天然痘ワクチンは長崎から京都、大阪へと伝わった。

 足守藩(岡山県)の藩主は、天然痘ワクチンの接種に興味を持ち、緒方洪庵(おがた こうあん)を大阪から呼びもどし、『除痘館(じょとうかん)』を開かせた。
 緒方洪庵の仲間として13人の医師が種痘にたずさわった。

写真提供=小川栄さん(広島市在住)

 そのなかに岡山出身の西夕慶(せきけい)がいた。かれは足守藩の『除痘館』のワクチン医療に携わった実績から、24歳の時、望まれて広島藩医官の小川道仙の後嗣となりました。その名も小川道甫(みちほ)である。

 幕末の変動期には、神機隊の軍医として、上野、奥州等に従軍した。(穂高健一著「広島藩の志士」、「神機隊物語」に登場します)
 
 廃藩置県のあと、神機隊が解散になりました。かれは小川姓のまま草津西家に帰り、草津、高須、古田、庚午、井口、阿瀬波等、広範囲の診療にあたっている。
 小川は和漢の書をひろく渉猟(しょうりょう・多くの書物を読みあさる)し、博学多才、和歌俳句を詠み、医療に尽くしている。
 かれは「仁慈剛直」をモットーとして、「人を医するにあたって薬価を徴することなく、貧者には米麦故衣を与へ、或いは金銭をひそかに恵む」など、世の尊敬を受けた。

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「わが子に種痘を接種すれば、そのうち頭から角が出てくる」
 大勢の民が種痘を嫌がった。長野秋甫が佐渡島に種痘を持ちかえったが、だれもわが子に打たなかったとも言われている。
 
 新型コロナウイルスのワクチンは、はたして全世界から撲滅できるのか。WHOが天然痘の撲滅宣言をしたように、うまく行くのだろうか。
 
 ウイルスは動物を介している。天然痘は牛、エイズは猿、新型コロナはコウモリといわれている。まさに、疫病と医学の戦いだ。

『関連情報』

 
 足守藩(岡山県)の『除痘館(じょとうかん)』(提供:小川栄さん)
                                   

  広島藩からみた天然痘ワクチンで活躍した人たち= RCCラジオ放送           
          

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