歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【歴史から学ぶ】日本人は既成事実に甘い。遷都のない首都・東京から考える。(下)

 慶応4(1868)年に、江戸城は無血開城し、德川慶喜が水戸に下った。

 新政府は次なる攻撃目標として、東武天皇(輪王寺宮)と元号・延壽の抹殺だ。同年5月15日に上野戦争を仕掛ける。
 危機一髪、巧妙に脱出した東武天皇は、江戸湾から榎本武揚海軍の軍艦で平潟(福島県)へ、そして仙台藩領・会津藩領に入っていく。
 
 西の幼帝、東の東武天皇。この国家分断の戦いで、いずれが日本制覇をするのか。予測もつかなかった。
 

 上野戦争から2カ月では戦況の予想がつかず、優劣が付いていなかった。西軍は長崎・グラバーから西洋の武器を購入している。奥羽越列藩は横浜港から最新銃を購入している。旧幕府軍の購入量は、統計では長崎よりも、横浜港の武器の輸入が2倍ほど多い。
 ここらは後世の歴史学者が、故意に、西軍は最新銃、東軍は火縄銃だと、嘘でまやかしている。
 榎本武揚海軍が江戸湾から蝦夷まで、制海権をにぎっている。大坂湾に攻め入ることも可能だった。

 歴史は後から見れば、戦争の勝敗は明確にわかる。当事者にはいつも敵に対する恐怖である。決着がつくまで、勝敗はわからないものだ。

 戊辰戦争の決着が見えない段階の7月17日に、新政府から『東京奠都の詔』(正式な名はない)の詔書が交付されたのである。
 幼帝・睦仁(むつひと)親王が8月27日に明治天皇の即位する。そこまでなぜ遷都の発布が待てなかったのか。

 新政府は仙台・会津に勝てるとは思っていなかった節がある。「まさか、新政府が勝てると思っていなかった」(板垣退助)

 仙台・会津など奥羽越列藩が巻き返してきて江戸を奪還する。そして、東武天皇が東叡山(上野)に返り咲く。江戸庶民はそれを強く期待している。

 新政府としては江戸市民の心をつかまないと、厄介な状況になる、と判断したのだろう。明治天皇が即位する40日前に、京都人に予告も了解もなく、『東京奠都の詔』を出して暴走してしまったのだ。
 これが160年後の今日におよんでも、東京遷都が曖昧のままにさせている主たる要因になった。
           * 

『東京奠都の詔』とはいかなるものか。

【原文】

『朕今万機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江戸ハ東国第一ノ大鎮四方輻湊ノ地宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン是朕ノ海内一家東西同視スル所以ナリ衆庶此意ヲ体セヨ』

【現代語訳】

『朕(天皇)は、いまから政治を裁決する。親政をおこなって万民を安らかに鎮める。江戸は東国の第一の大きな都市である。四方から人や物があつまり賑わっている。天皇はみずから江戸に出むいて政治を執る。よって、江戸を東京と称する。ここに、朕は四方を海に囲まれた日本を一つ家族として、東西同一視するところなり。民はこの意向を心に留めて行動せよ』

① 「朕」とは天皇のみが使える用語である。7月17日は天皇不在である。つまり、天皇を語った、あやしげな詔書だった。だれが書いたのか。太政官のトップだろう。

② 「海内一家 東西同視スル」。日本は四方を海に囲まれた単一民族である。一つ家族とおなじである。東と西に天皇がふたりいるから、一人の天皇に統合する。
 ここにおいて東武天皇の存在を認めているのだ。

           * 

 睦仁親王が明治天皇が即位した。9月にはすぐさま東京への東幸が行われた。京都人には明確な説明もなかった。そこで一度、東京から京都に帰る。還幸
 翌明治2(1869)年に、ふたたび東京に行幸する。遷都という言葉がつかわれず、行幸でごまかしてしまう。
 江戸城を東京城に、そして皇城となる。京都の御所は継続する。

 一つボタンを掛け違えると、もはや後には戻れない。既成事実の積み重ねで行く。

 明治天皇の即位まで、あと40日間が待てず、だれかが勝手に『朕』(天皇)を名乗り、詔書を発布した。
 この太政官は一体だれだろう。
 
 太平洋戦争をはさんで、天皇制は大きく変わった。皇室も変わった。一世一元も平成天皇の譲位で終わってしまった。

 一千年の歴史から見れば、天皇制は親しみであったり、政略に使われたり、日本史には欠かせない存在であることだけは確かだ。
 長い歴史のなかで、わずか半年だった東武天皇と元号・延壽(えんじゅ)がどう扱われていくのだろうか。

                 【了】
 

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