A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【歴史エッセイ】井伊大老の歴史評価、善か、悪か。あなたはどう見る? ③

 安政5(1858)年から翌年にかけて起きた「安政の大獄」は、将軍継嗣(けいし)問題、日米修好通商条約の違勅(いちょく)問題、「戊午の密勅」(ぼごのみっちょく)問題、という三つが重なり合っている。

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 歴史作家のなかには、徳川将軍家の厳格な掟を知らずして、「安政の大獄」を書く人は実に多い。徳川政権は初期の武家政治から、中期は文治政治になり、法治国家の体制をとっているのだ。その掟や厳格なルールを前提で、歴史関係の筆をすすめるべきである。

 一方で、徳川政権が260余年にわたり、長期政権を維持できた最大要因は、江戸城防衛に徹したからである。
 現代に置き換えながら、徳川将軍家のルールをわかりやすく述べたい。

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 江戸城の防衛は幾重にも障壁を設けている。江戸に近い東海道や関東には、譜代大名か旗本を配置してガードしている。外様大名はその外側に置く。九州には日田郡代や長崎奉行のような防衛と情報拠点を設けている。
 江戸城に通じる五街道には、いずこも「入り鉄砲・出女」に厳しい検問の関所を設けている。

 全国の諸藩の大名正室は、人質として江戸にとめおく。参勤交代で江戸にきた大名は、一年余り在府としてとどまる。大名の将軍お目通りは、正月、五節句、八月一日、月三回と決められている。それは実に厳格である。
 それを破れば、理由を問わず、徳川政権への謀反人とみなす。それは250年間にわたり破られたことのない厳しい掟だった。

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 徳川将軍家は老中(大老)政治である。譜代大名のなかから有能な人材を老中に選び、幕政を行わせる。強い権限をもった老中政治である。
 徳川御三家や外様大名には、幕政に関与させない。

 老中首座・阿部正弘が嘉永6年にアメリカ大統領の国書にたいする意見をもとめたのは、例外中の例外であった。

 それが突如として、水戸藩の徳川斉昭、尾張藩の徳川慶勝、福井藩の松平春嶽らが、将軍継嗣問題と、日米修好通商条約の違勅問題から、江戸城に無断登城し、日米修好通商条約は違勅だ、と叫んだ。一ツ橋の慶喜は登城日だった。

 無断登城した行為は、家康の時代から、問答無用で、『将軍家への謀反人だ』と永蟄居など命じられた。これはルールに徹した処罰であり、弾圧ではない。
 そのうえ、御三家や外様は幕政に意見を述べられない規定にも違反している。 
 
 この行為を現代に置き換えるならば、県知事が東京・皇居に無許可で入り、まわりが静止しても大声で自論を述べる。
 たとえ知事でも現行犯逮捕で手錠をかけられて監禁されるだろう。

 井伊大老は無断登城と幕政への介入に対して処罰した。一般にいわれる「安政の大獄」が思想弾圧ではない。祖法の掟破りにたいする厳重な処罰だった。

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 将軍継嗣問題では、福井の福井藩の橋本甚内らが処刑された。
「徳川将軍選びは重大な幕府の政事だ。藩士ごときが裏で画策するのは、重大な反幕行為だ」
 と井伊大老は処罰した。
 現代に置きかえれば、議院内閣制で内閣総理大臣が決まるのに、地方公務員の事務方(政治活動ができない)が、総理候補者の推薦を根回しする行為だった。現代でも違法行為である。
 井伊大老の処罰は、法治行為だった。

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 さらに、孝明天皇も禁裏諸法度にたいして重大な違反をしている。それが安政5年8月8日の「戊午の密勅」事件である。
 朝廷は直截的に諸藩に指示を出してはいけない。かならず幕府を通す掟だった。ところが、孝明天皇が水戸藩にたいして幕政改革を指示する勅書(勅諚)を下賜した事件である。
 幕府の頭越しだったことから、戊午の時代に起きた密勅とされた。

 現代でいえば、今上天皇が内々で茨城県(水戸)知事に政治改革に関する指示書(勅書)をだし、有力な知事に伝えよ、と命じたようなものだ。
 内閣総理大臣は2日後に、その内容を知らせた。

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 井伊大老は「戊午の密勅」は、幕府に対する朝廷の重大な違反行為だ、と断じた。これは孝明天皇のみずからの意思ではないだろう、だれが天皇を動かしたのか、と井伊は疑った。
 これを放置すれば、朝廷が全国の大名に直接命令を出すことになる。幕府の威信がなくなる。
 そこで、井伊直弼は家臣で国学者の長野主膳をつかって「戊午の密勅」に関係した者、仕掛けた者の偵察・探索をさせた。
 水戸藩を中心とした違法行為者が次々と捕縛(ほばく)された。連座を問われて、処罰されたものもいる。

 船橋聖一著『花の生涯』では、井伊直弼の立場から描かれている。側室で美貌の「村山たか」が長野主膳と結婚する。そして、元芸者の彼女は夫・長野のために、尊王攘夷派のだれが「戊午の密勅」に関与したか、と探索に協力するのだ。そのストーリーが運ばれている。
 
 桜田門外の変で井伊大老が暗殺されると、女密偵として「村山たか」は京都の河原に三日間さらされ者にされるのだ。これは事実である。

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 歴史作家・船橋聖一は「花の生涯」は、実直な性格の井伊直弼の立場から、処罰は合法的だったと描いている。先に紹介したようにNHK大河ドラマの第一回として、一年間にわたり放映されているくらいだ。「安政の大獄」とは、井伊直弼が幕府トップの立場から厳格にルール違反者にたいして処罰を課したものである。決して思想弾圧ではなかったのだと、船橋は強調している。
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 船橋聖一とほぼ同時代に活躍したのが、司馬遼太郎である。司馬は薩長史観につよい影響力をうけた作品を発表していく。とくに坂本龍馬を中心とした幕末歴史小説が大ヒットを飛ばした。司馬史観といわれ始めた。
 司馬は井伊大老をことごとく悪人に描いている。
「桜田門外の変における、井伊直弼のテロ暗殺だけは許される」
 と集団テロを容認している。
 司馬史観の影響から、井伊直弼はもはやTVでは悪役にしか出てこない存在になってしまったのだ。
 
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 時代が流れると、歴史上の人物も再評価される。
 大平洋戦争の終戦から76年間が経った今日、明治政府がつくった幕末史観にも懐疑的な影がさしてきた。薩長史観による歴史のねつ造が随所で露呈してきたのだ。
 明治時代を賛美した司馬遼太郎の作品も、ときには薩長に傾きすぎて、小説とはいえ、極端に事実を曲げている、と批判の対象になりはじめた。

 司馬史観は井伊大老暗殺という集団テロを合法化している。

 あなたがもし当時の政権トップの井伊直弼の立場ならば、どう処しますか。船橋聖一か、司馬遼太郎か。どちらを支持しますか。

   写真(京の河原にさらされた村山たか)=ネットより引用

                           【つづく】

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