A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

「紅紫の館」は幕末史を変えるか。新発見の連続は偶然の出会いから生まれた(下)

 作家の高橋克典さんと、居酒屋で、日比谷家の執筆を受けるか否かと話をかわしていた。私の気持ちはいま一つ乗り気ではなかった。
「日比谷家の人たちは、穂高健一さんが出版された阿部正弘を読んで、この作家にぜひ書いてもらいたいと言っている。なにか条件を出してもらいたいらしい」
 高橋さんは強く押してくる。
「別に、条件などないよ。引受けた作家に、逃げられないような縛り?」
「そんなところかな」
 高橋さんは、執拗に条件を出してくれと迫る。
「先祖のよいしょ作品など書かないからね」
 私は金銭など貰いたくないとつけ加えた。
「それはわかっているさ。でもさ。何か条件を出してよ。あいてを納得させないといけないから」
 酒の場となると、物事はほどほどに纏まるものだ。
「だったら、広島の中国放送(RCC)で、一年間の幕末・明治・大正の『穂高史観ヒストリー』の企画があるから、スポンサーになってもらうかな。ただし、金のやり取りは直接ぼくがやらないからね」
「それでいこう」
「言っとくけれど、広島の放送だし、東京・江戸の日比谷家の話など一切でてこないよ」
「それで良いんだよ」
 高橋さんはくりかえし、掘り出し物があるよ、とつけ加えていた。

           *

 紡績王の日比谷平左衛門は東京商工会議所の副会頭で、会頭の渋沢栄一と渡米している。日露戦争のあと、日比谷焼き討ち事件が起こり、日米関係が悪化していく。面白いな、と思いつつも、他の日比谷家の一族とはまったくもって結びつかない。

 武蔵国足立郡(東京都足立区)には、幕末・明治に活躍した郷士・日比谷健次郎という人物がいる。明治十年に日本語をドイツ語で引ける『和独対訳字琳』を世に出している。
 紡績王の日比谷平左衛門とはまったく接点がない。
「学者が結びつけられないのだから、作家も難儀だな」
 そう呟きながら、私は日比谷健次郎の取材もつづけていた。

           *  

 日比谷健次郎は北辰一刀流の免許皆伝であり、取材するほどに「内密御用家」の動きがちらつきはじめた。
 さらに日光街道に沿った日比谷家(足立)のみならず、佐藤家(八潮)、加藤家(三郷)が、隠密御用の色合いが強まったのだ。
 ここを掘り下げるうちに、日比谷健次郎そのものが幕末の「内密御用」(隠密)と、明治に入ってからの「日独辞書作り」が分離してしまったのだ。厄介だ。とうとう健次郎は同一人物ながら、小説上のテーマが分れ、一つにならなくなったのだ。


 北辰一刀流・日比谷健次郎、  天然理心流・土方歳三 『武術英名録』にならぶ

 私は高橋さんに、こういった。
「日比谷家を一つにまとめると引受けたけれど、3つに分解してしまったよ。ひとつは日比谷平左衛門。もうひとり日比谷健次郎だが、健次郎はテーマが一つにまとまらず、幕末ものと、明治の日独辞典とわかれてしまった。ついては作品を三つに分けるから」
「三部作なの?」
「全部、ばらばらだよ。セパレートになった」
「穂高さんの好きなように書けば」
 高橋さんは、あきれ顔で、私にまる投げになった。

「実は、日比谷健次郎だけれど、幕末だけでもすごいことになるよ。たんに掘り出し物でなく、幕末史を根底からくつがえす。そんな予感がしてきた」
 私はまず「激流」という題名で、幕末の健次郎から書きはじめてみた。

 ある日、足立の日比谷家の招待で、東京国立博物館(上野)の内覧会に出向いた。そこには日本一とおもわれる雛人形が展示されていた。
 5段飾りで、内裏雛は高さ32センチある。
 徳川時代は御三家でも8寸(24センチ)以上の内裏雛は、奢侈禁止令で作れないはずだ。なぜ、こんな豪華な雛人形が足立区の郷士・日比谷家に伝わっていたのだ。

 ふしぎな疑問だった。
「日比谷家のひな人形の桐箱には、毛筆で、安政七年春三月と書かれています」
 説明者から、それを聞いたとき、私は耳を疑った。
「ええっ。安政七年上巳の節句に、桜田門外の変が起きていますよね。井伊大老が暗殺されたときですよね」
 その井伊大老を暗殺したのが、水戸藩浪士たちだ。

 徳川御三家の水戸藩といえば、有名な千葉周作の北辰一刀流だ。
「このひな人形の裏には、何かあるな」
  この内覧会には、偶然にも、私と15年ほど前に面識があった林さんが招かれていた。かれはTV鑑定団にも出演している人形の専門家だ。
「なぜ、豪農(大きな名主・郷士)の家に伝わったのか。歴史の謎ですね」
 私のことばに対して、人形専門家の林さんも同感だという顔をしていた。そして、こう説明してくれた。
「人形づくりはすべて分業です。だが、この日比谷家の五段飾りは、一体ずつ一人の人形師が造っています。5段のすべての人形が一人の手です。他には例がない。人形の着物の生地は、本物の十二単よりも豪華です。見てください。ひな形の箪笥もすごい精密です」
 林さんは立場上、日本一ですね、という私の質問には答えなかったけれど、否定はしなかった。

 東京国立博物館が一年かけて補修したものだという。学術的に価値が高いからだろう、と私はそこに執着した。
 そして、幕末歴史小説の題名を「紅紫(こうし)の館」とした。日比谷家は幕末の隠密、将軍家の特命を授かる「内密御用家」だろうと、より的を絞って取材してみた。これが当たった。
 足立区の日比谷家には一級史料がたくさんあり、これまで未公開だったが、特別に開示してくれた。
「内密御用家」を裏付ける資料が次々に出てくる。まさに、歴史ミステリーを解き明かした瞬間に思えた。
      
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 日比谷健次郎の実の伯母が、三河島でおおきな「村田屋」という植木業者を営む。その村田屋は表・裏で讃岐高松藩松平家と深くつながっていた。この藩主が井伊大老と二人三脚で政権を担っていた。ここで「桜田門外の変」へと点と点が結びつく。

 さらに老中首座・阿部正弘に見いだされた天才・鬼才の三浦乾也が、これら隠密御用家の三家と縁戚関係でつながっている。かれは名陶芸家でありながら、仙台藩で大型洋船を建造した奇才な人物だ。井伊大老とは陶芸で師弟関係にあった。乾也が伝授した陶芸秘伝書が、彦根の資料館に現存する。

 歴史ミステリーを一歩ずつ丹念に取材を重ねていくと、内密御用として日比谷家(足立)、佐藤家(八潮)、加藤家(三郷)の三家がより強く結ばれた深い縁戚関係だった。
 三家の家主はすべて北辰一刀流の免許皆伝の腕前である。この三家は影の存在として、松平太郎の指示の下で100万両の徳川埋蔵金を隠す役をになう。
 その舞台が三河島の村田家だろう。昭和(戦後)になって、この村田家から新鋳造の小判の一部が見つかっているのだから。

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 上野戦争(新政府軍と彰義隊の戦い)では、日比谷健次郎たち隠密御用家の面々が、戦火のなかから、寛永寺の貫主の輪王寺宮(21歳)を間一髪で救出する。
 その輪王寺宮が孝明天皇の義弟として東武天皇になった。皇位継承権は学説によって分かれるところだろう。
 ただ当時としては、西は幼帝(のちの明治天皇)、東は東武天皇という、2つの皇族を擁立した国家分断の戦争が起きたのだ(戊辰戦争)。南北朝の再来である。これまで新政府軍と旧幕府軍との戦いという一般の戊辰戦争の常識を覆すものだった。
 睦仁帝はまだ天皇になっておらず、皇太子である。

 東武天皇が慶応3(1868)年3月に、元号として「延壽」を発布していたのだ。(明治の元号は慶応4年9月8日からである。この間は「延壽」であった)。
 こうした新発見の連続になった。

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 日比谷健次郎を追求するほどに、德川側の視点からみた幕末歴史小説が斬新な作品になっていく。執筆中に、芸州広島藩・新機隊の隊士の史料から、えっと驚くべき、歴史的事実が出てきた。
 東武天皇が発布した元号「延壽」が一般にも使われていたのだ。それも西側の、広島からである。こんな偶然は、神がかりにしか思えなかった。
 歴史的な事実として認めれば、慶応、延壽、明治と元号の書き換えが起きるかもしれない。

「紅紫の館」の「あとがき」を書く段になり、神機隊の隊員が記した「関東征旧記・延壽元年」を証拠(エビデンス)写真として載せた。
 思うに、明治時代の薩長政権とすれば、徹底して抹消した元号『延壽』だったはずだろうが、こんな偶然から令和2(2020)年によみがえるとは口惜しいだろう。政治上の巧妙な隠ぺい策はどこかで残っているものだ。

「穂高健一ならば、掘り下げた取材をするから、とてつもない掘り出し物がでてくるよ。きっと」
(高橋克典さんという作家の勘が当たったな)
 この仕事を当初は断ったという経緯が、私の脳裏によみがえってきた。これはエッセイとして書き残しておこうと考え、ここに記した。

                     【了】

  写真提供 = 日比谷二朗さん
  写真(輪王寺宮・東武天皇)はウィキペディア 
                 

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