歴史の旅・真実とロマンをもとめて

「歴史から学ぶ」(下)加藤友三郎 = アドミラル・ステイツマン

 日露戦争で勝利したあと、日本国民は早くも日米開戦を叫びはじめた。広い大平洋の西と東である。当然ながら、陸軍でなく、日本帝国海軍への期待が高まった。

 太平洋戦争の真珠湾攻撃の原点は、日露戦争の終戦処理からはじまったのである。その理由をあげてみると、
 
 当時、世界最強というバルチック艦隊を撃破したと、日本国民は完ぺきな勝利だと酔っていた。その実、日露戦争は終了していなかったのだ。

 日本は多大な戦費から財政が悪化していた。多額の増税・国債、外債の増発が次つぎになされていた。それは国家予算の6年分に相当した。もう日露戦争の継続は無理だった。(メディアはこれを報じていなかった。敵国に日本の不利な情報を与えるから、と)
 ロシアがわも、血の日曜日事件など革命運動が激化していた。


 双方とも戦争の継続が困難な状態に陥っていた。それこでセオドア・ルーズベルト米大統領が、停戦へと乗りだしてきたのだ。

 日本の大半の大手新聞は、10年前の日清戦争では清国から膨大な賠償金が得られているから、この日露戦争の戦費は膨大だし、それに見合う賠償金が取れると予測した、派手な記事を連日掲載しつづけていた。
 ある報道では、『賠償金50億円、遼東半島の権利、旅順 - ハルピン間の鉄道権利の譲渡、樺太全土の譲渡』と個人の予測を掲載し、国民の期待を高く誘導していた。希望的観測が高いほど、個々の新聞が良く売れる。

 この過剰期待がおおきな失意と、反米感情をあおる要因となった。

 日露はアメリカのポーツマスで、講和会議に入った。
  ロシア側は賠償金の支払いをいっさい拒否した。理由は、戦場は満州南部と朝鮮半島北部であり、ロシアの領内はまったく攻撃されていない。ゆえに賠償は生じないというものだった。

 日本の全権・小村寿太郎は、これ以上戦争の継続はできないと、
 樺太の南半分の割譲
 大韓帝国にたいする指導権の優位
 この点を認めさせることで、講和条約に調印したのだ。


 戦勝気分だった国民は、ポーツマス条約で落胆の底に突き落とされたのだ。
 戦争の戦費による増税の圧迫に苦しんで耐えてきたのに、ロシアから賠償金が皆無だったと、国民の不満が一気に高まり、ポーツマス講和条約の反対を唱える大暴動が起きた。

 東京では、「日比谷公園焼き討ち」だった。民衆が日比谷公園に侵入し、皇居前から銀座方面へむかい、新聞社を襲撃した。内務大臣官邸には抜刀した5人組が襲撃した。交番、警察署なども破壊された。市内の13か所以上から火の手が上がった。まさに、無政府状態に陥った。

 激怒した群衆は、講和を斡旋したアメリカに攻撃の矛先をむけた。東京の駐日アメリカ公使館が襲われた。アメリカ人のキリスト教会までも襲撃の対象となったのである。

 国民の批判は、賠償金を払わなかったロシアよりも、講和をあっ旋したアメリカへとむかった。アメリカの立場とすれば、まさに逆恨みであった。
 ここに対米不信から対米戦争へと、過激な対米攻撃が生まれたのだ。
 日本は大国を相手にしても勝てる。建国から一度も敗けたことのない国だ。その自負心から、対米戦争の期待が国民に根付いてしまったのである。

『大国のロシアに勝ったのだ。アメリカを相手にしても勝てる』
 そこには日英同盟への期待という背景があった。日本はイギリスと日英連合艦隊で、アメリカ艦隊と戦えば、これならば海戦で勝てる、と思い込んだのである。
 


 政府を攻撃する暴徒の渦が大阪、神戸、横浜と全国に拡大していった。戒厳令がだされて鎮圧された。一方で、内閣は倒れた。
 ただ、対米戦争の期待の芽は、そこから摘み取れていなかった。

 内閣が国民に眼をむけて、「対米戦争の期待」に応えようとすれば、海軍力の強化が必要になる。形であらわす。アメリカが新たな仮想敵として、対抗戦力の整備目標の検討がはじまったのだ。基本は太平洋におけるアメリカとの海軍力の対比だった。
 2年後、明治40(1907)年には「八八艦隊」(戦艦8隻・装甲巡洋艦8隻)が帝国国防方針として示された。これが日本海軍の基本だと長く底流にながれつづけた。

           *
 
 日英同盟の期限は10年だった。第一次世界大戦で、日本がこの同盟を利用して、青島のドイツ軍を攻めた。
 当のイギリスはヨーロッパ戦線で甚大な被害を受けているのに、日本が『漁夫の利を得た』と条約継続は不可だと臭わせはじめた。
 となると、日本は独自に対米開戦を組み立てる必要が生じてきた。

 加藤友三郎は海軍大臣に着任すると、明治40(1907)年から対米戦争を前提にした「八八艦隊」の構想の実現に着手したのだ。
 毎年、軍艦を2隻ずつ作りつづけてみると、維持費の累積が膨大になり、国家の財政が破たんしてしまうと、加藤は考えはじめた。この作戦はどこかで終止符を打つ。
 
 イギリスとアメリカから「ワシントン軍縮会議」の提案があった。これはビッグチャンスだ、多少の妥協はあっても条約締結につなげていく、と加藤は決意をもって臨んだのである。

 原敬首相が青年に東京駅で暗殺された。

 となると、責任の一端を首相にふれない。加藤友三郎は主席全権として全責任をもって同条約を締結する、それには仮想敵国アメリカとの対米戦争の棚上げの覚悟が必要だった。

 このときの口述が書き残されている。加藤の考え方がよく解る。

①『国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。

② 仮に軍備が米国と同等でも、日露戦争のごとき少額の金では戦争はできない。

③ 戦争をやるのに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかし、その米国が敵であるとすれば、この途は塞がる。

④ 結論として、日米戦争は不可能である。
 
⑤ 国防は国力に相応ずる武力を備うる、と同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。

 ①~⑤は対米戦争の全面否定である。

 加藤でなければ、軍令部など抗戦派の反対を抑え、平和・軍縮条約締結にまでこぎつけることはできなかっただろう。

            *


『加藤友三郎が内閣総理大臣になり、現職で亡くなったことから、内閣としては短命だった」
 だが、その短い期間内に、
 陸海軍の大胆な軍縮
 シベリア撤兵の実行
 日ソ国交樹立の先鞭をつける
 などと外交面の功績が極めて大きい。

 加藤友三郎の知名度はさほどなくても、歴代首相のなかでも、歴史的評価は高いものがある。

 当時、ワシントン軍縮会議の条約参加国から、「アドミラル・ステイツマン」(一流の政治センスを持つ提督)と海軍の知性派として高く評価されていたのである。


日露戦争の旗艦・三笠

【加藤友三郎の横顔】

 広島藩浅野家臣、長兄の加藤種之介は20歳で、弟の友三郎は3歳で、父親の加藤七郎兵衛(53)を亡くした。父の加藤七郎兵衛は儒学者だった。路地奉行で学問所でも藩校の世子(浅野長勲)に講義した。

 兄の種之介(写真・中央)は弟の友三郎(写真左)を加藤家の養子にし、父親代わりで生活の面倒をみていた。
 友三郎は幼年期に広島・修道館(現修道学園)で山田十竹らに学びんだ。


 父・加藤七郎兵衛の教え子には、優秀な家臣が多い。執政(家老)の辻将曹は薩長芸軍事同盟を成立させ、かつ慶喜に大政奉還を為さしめた。

 若きエリートたち高間省三、加藤種之助、船越陽之助、川合三十郎、橋本素助らが「神機隊」を立ち上げた。そして、神機隊は選抜320人をもって戊辰戦争に自費で参戦した。
 上野戦争、奥州戦争と激戦のなかで、死を恐れず、最大の犠牲者を出しながらも、剛毅不屈の進軍していった。

 砲隊長の高間省三が、浪江の戦いで敵の銃弾で死す。それでも、かれらは目標とした仙台藩陥落の執念で北に進攻していった。
 第一小隊長の加藤種之助(25)は、駒ヶ峰の戦いで傷を負いながらも、仙台藩を打ち破るおおきな成果を出している。

                *            
 
 陸軍中尉だった加藤種之助が明治5年、なぜか海軍の少尉に変わっている。東京に出てきた。加藤兄弟はともに築地の東本願寺に寄宿した。

 翌明治6年、友三郎(13)は官費の海軍兵学寮(海軍兵学校・写真)の受験に合格し、入学した。この年から入学が15歳から13歳に引き下げられており、友三郎は最年少だった。
 海兵7期生で成績は2番で卒業している。

 海大に学び、日清・日露戦争では砲術長、参謀長として参加した。
 日本海海戦時で、加藤友三郎は連合艦隊の参謀長であった。戦艦「三笠」の艦橋に立ち、東郷元帥の横で司令していた。

 明治39(1906)年、海軍次官になる。

 明治42(1909)年 呉鎮守府司令長官に着任する。

 大正2(1913)年 第一艦隊司令長官 青島でドイツ軍と戦う

 大正4(1915)年から海軍大臣で、「八八艦隊」の政策の推進者になる。

 大正12(1923)年8月24日、現職の総理として死去した。
 それは大正関東大地震の8日前だった。

・2008年、広島市中央公園内に、ワシントン軍縮会議時のフロックコート姿の加藤の銅像が新しく建立された。

・広島・呉市においても、銅像の建立がすすめられている。

写真 = ネットより引用させていただきました。

                               【了】

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