「歴史から学ぶ」(中)加藤友三郎 = 世界最大規模の軍縮を達成させた海軍大臣
大正10(1921)年10月15日、加藤友三郎(ともさぶろう)が日本首席全権委員、全権委員の徳川家達(いえたつ)、そして随行委員など含めた63人が横浜を発った。
ワシントンで、全権委員となる駐米大使の幣原(しではら)喜重郎と合流した。
日本全権委員は加藤友三郎、徳川家達、幣原喜重郎の三人である。そのなかでも、加藤が主席である。
大正10年(1921)年11月11日~翌年2月6日まで、米国のワシントンD.C.で「ワシントン軍縮会議」が開催される。
そのなかで主要な討議は、五か国の戦艦、航空母艦など海軍の軍縮問題である。とくに、英米日の三か国の軍縮が中心だった。
海軍力の弱いフランスとイタリアはさして議論にならない存在である。
全権の加藤友三郎の同会議での処し方からすると、英米10にたいして対7割、妥協して6割でも決着をつける、と出発前から、この軍縮会議を成功させると、原敬首相と決めていたのではないだろうか。
明治からの「八八艦隊(はちはちかんたい)計画」は、大正時代も引き継がれた海軍の理想像となっている。しかし、軍艦が大型化するにつれて、建造費もうなぎ上りになる。
8年過ぎた戦艦も第二線級として保有し続ける必要がある。(主力艦運用年数は24年である)。
つまり年々、保有戦艦が増え続けるのである。並行して海軍の兵員数の増加、維持費の増大、人材養成も累積されてつづけていく。
これらはすべて膨大な海軍予算の増加となる。と同時に、国家の財政圧迫になってきている。もはや、日本の国力を越えるものだ。軍事拡大競争が、日本経済を破綻させる。
ここらで「八八艦隊計画」から脱皮する必要があると、加藤友三郎が考えても不思議ではない。むしろ、あるべき姿だ。
国内の議会で海軍予算案を縮小するとなると、正当な理由が必要だ。この軍縮会議がよいチャンスである、と加藤は考えたとおもわれる。
ふだんの加藤友三郎は軍服で押し通しているが、ワシントンでは山高帽をかぶったスーツ姿だった。
胃炎で感情が顔に出やすく、しかめ面が多い加藤友三郎だが、この会議では終始ニコニコ顔で振るまっていたという。
それはぜひ軍縮を世界規模で、成功させたい信念がそうさせたのだろう。少なくとも、日本がごねて会議から抜ければ、この世界規模の軍縮は破たんするのだから。
この軍縮会議に入る直前(ワシントンに到着した2日後)、加藤友三郎たちに訃報が飛び込んできた。
大正10年11月4日午後7時10分、原敬首相(写真)が東京駅で、大塚駅に勤務する19歳の青年に短刀で、胸を刺されたのだ。医師の手当てを受けたが、心臓内出血でまもなく絶命した。
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加藤友三郎は首席全権委員だ。本国の原敬首相につど打診がいっさい叶わない。すべて自己責任で処していくしかない責務を負った。それは表現できない重圧感だろう。
月並みな表現でいえば、「背水の陣」でのぞむ。それゆえに微笑をふります。好印象をつくる。
会議は、5か国の軍艦の建造競争を抑制するために、厳しい制限を加えたものだが、各国の思惑が飛び交う。
アメリカにおける加藤友三郎の評判は高く、誠意と信頼のおける人物だと評されている。
日英米の3か国において、主力艦の制限の枠組みについて討議された。建造中の軍艦はすべて破棄する。それも前提になった。
当初の日本は英米七割を要求していた。しかし、加藤は最終的に6割で妥協した。
①主力艦は、米英はともに50万トン、日本は日30万トンに決った。
つまり、英米の六割である。
② 建設中の軍艦はただちに破棄する。
③ 戦艦の新造は、条約締結後から10年間は凍結する。
④ 1艦あたり基準排水量3万5000トン以下、主砲の口径は16インチ以下とする。
加藤は首席全権委員として、「日本は米英と同等の軍備を保有する必要はない。6割で応じる」と表明したとき、会場から大喝采となった。
5大海軍列強国は建艦競争を抑制するために、日本が戦艦等の建造に厳しい制限を加えることに合意したからである。 まさか、日本が譲歩するとは考えていない節があった。
史上初のおおきな軍縮が成立した瞬間だった。
『他にも決議された項目がある』
・イギリスは、日米が戦争になれば、巻き込まれたくなかったのだろう。
「ロシアのアジア南下政策の侵略脅威がなくなった無用な条約だ」とイギリスから、日英同盟の破棄の要求があった。大正12年8月17日をもって破棄させられた。
・日本はシベリア出兵に野心は持っていない。適当な協定ができれば、撤兵する。約束通り、加藤友三郎が総理になると、撤兵に踏み切った。
・山東省問題は難航した。
原敬首相は暗殺されている。全権となった加藤友三郎は、日本に問い合わせる相手はいない。この難儀な中国問題の解決が任されたのだ。
第一次世界大戦で、日本軍が青島でドイツ軍に勝利し、旧ドイツの山東省の租借地を奪ったものだ。
しかし、中国がわの主張は、旧ドイツ権益は日本に譲渡されたものでなく、直接、中国に返すべきだものだと主張した。
これには大隈重信首相から大正4年に『対華二十一カ条要求』が出されているので、それがおおきく絡んでいる。
欧米からみれば、第一次世界大戦で、欧州でドイツと戦っているさなか、日本が日英同盟の名のもとに軍隊を派兵し、強圧で中国から青島と膠州湾が奪ったものだ。それは《火事場泥棒》だ。中国の主張に正当性がある。
このように当初から、むしろ大隈首相時代から歴史的にも、とても評判が悪い。
「ワシントン軍縮会議」に参加してきた中国代表は、ここぞとばかりに、山東省の全面返還を求めてきたのだ。
アメリカがふたたび日本の《火事場泥棒》だとして中国に味方した。
ワシントン軍縮の席で、日本側の全権委員はもう軍縮会議を破棄できない。中国の主権独立を尊重し、領土的、行政的な保全を認める、とした。
これはアメリカが唱える《中国の門戸開放、機会均衡》の原則も組み込まれたものだ。
中国の領土的保全は、昭和6年9月の満州事変以降、つねに日本の中国侵略のブレーキをかけてきた。国際連盟でも、中国の領土的保全が問題となり、日本が孤立化へと進むことになった。
とくに日本が中国大陸に擁立した「満州国」という別国家の独立は、国際連盟の全体会議で、全世界から途轍もなくバッシングをうけた。
当時の松岡外相がその場がいたたまれず、日本が常任理事国にもかかわらず、かれの独断で国際連盟を脱退した。その感情的な独断が日本で追及されると怖くて、松岡はしばらく帰国できなかったという。
あえて、加藤友三郎の軍縮会議の平和志向と比較してみると、世界会議の場における松岡外相の独断的な態度は、日本国民を悲劇にみちびくおおきな要因だったともいえる。
その先、太平洋戦争に突入してからも、日本と世界の戦争を止めさせようとする、仲介国(進んで労をとる国)が一か国も現われなかった、という悲劇につながった。余談だが、日本は最後の最期でソ連に仲介をたのんだけれど、裏をかかれて、千島列島の侵攻に及んだ。
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加藤友三郎たち「ワシントン軍縮条約」を締結して日本に帰った。主力艦保有量を対米6割に抑制されたことに一定の不満は抱いたものの、「八・八艦隊計画」が、実現を目指すほどに国家財政は破たんにつながると誰もが解っていた。
野党は議会で、加藤友三郎に、なぜ7割でなく、6割で妥協したのかと、通り一遍の質問だった。
建造中の戦艦「陸奥」はスクラップを要求されだが、完成していると押し通すことで、6割で妥協したと加藤は応えた。
そのほか、アメリカとか、イギリスとかの交渉プロセスを説明した。
日本の野党はさしたる追及をしてこなかった。同条約は批准された。
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ワシントン軍縮条約の期限は、昭和11(1936)年であった。
日本は昭和8(1933)年3月の国際連盟を脱退した。翌昭和9(1937)年7月には、帝国弁護士会が条約廃止通告を求める声明を発表した。政府は1同年2月に条約の破棄を通告した。(破棄通告後二年間は有効)。
昭和11(1936)年12月に本条約は失効した。ここから、無制限の建造艦の競争時代に入った。そして、4年後に太平洋戦争に突入したのである。
写真 = ネットを使わせていただきました。
【つづく・加藤友三郎の横顔】