歴史の旅・真実とロマンをもとめて

「歴史から学ぶ」(上)加藤友三郎 = 世界最大規模の軍縮を達成させた海軍大臣

 明治・大正時代の庶民生活が知りたくて、「台東区立下町風俗資料館」(上野公園内)に出むいた。上野・浅草の暮らし、生活道具、風俗など日常生活が展示されている。遠い存在でなく、「懐かしいな」と思うものが沢山あった。

 身近な生活も、歴史の断絶がなく、連続していると実感した。ふと脳裏をかすめたのが、スペインかぜが世界戦争を止めさせ、なおかつ史上最大の「ワシントン軍縮」を成功させたという歴史だった。
 新型コロナは世界経済を疲弊されている、いまこそ軍縮の最大の好機ではないかな、と思った。

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 大正時代はわずか15年間であるが、この間には第一次世界大戦、スペインかぜ、大正関東大震災と、三つのおおきな出来事が起きている。「大正ロマン」という用語が浮かぶ。月の砂漠、浜辺の歌、城ケ島の雨、朧月夜、浜千鳥、ペチカなどの唱歌はいまも耳にすることがある。

 世界をみわたせば、第一次世界大戦が勃発し、欧州戦線では多大な戦死者をだしていた。全世界で戦死者は2,711万人にも及んでいた。その上、スペインかぜが猛威を振るい、「これ以上は戦争が続けられない」とパリ講和会議による終結を早めさせた。 

 主要国はイギリス、フランス、アメリカ、イタリア、日本の5か国だった。全世界では33カ国の参加である。米国ウィルソン大統領は、ドイツへの領土割譲、賠償金要求には強く反対していた。

 ところが、パリでスペインかぜに罹患し、気力を失くしてしまった。ヨーロッパ戦勝国は秘密裏に会議を進めており、ドイツにたいして天文学的な賠償金を課した。そして、1919年6月28日にフランスで「ヴェルサイユ条約」が調印された。

 ヨーロッパ各国が決めた膨大な賠償金が、後年、ドイツに国粋主義のナチスを台頭させて、第二次世界大戦へとつながってしまった。

 パリ講和会議で、ウィルソン米大統領が提案した国際連盟が発足した(アメリカは議会で批准できなかった)。
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 わが国は日露戦争の日本海海戦においてバルチック艦隊に勝利し、世界第三位の海軍力になっていた。海軍は花形で華やかな光を浴びていた。

 しかし、第一次世界大戦で、日英同盟にもとづいて青島(中国)のドイツ軍を攻撃して勝利した。結果として、最小の犠牲で、大きな利益を得た「漁夫の利」として、世界からは「好戦国日本」の悪印象を与えていた。

 明治40年に、わが国は中国問題から対立を深めていたアメリカを仮想敵国とした「八八艦隊(はちはちかんたい)計画」を国防方針にした。
 アメリカはダニエルズ計画で、超ド級戦艦(どきゅうせんかん・巨砲の搭載)を16隻そろえる三年計画をもっていた。
 日米はともに海軍の軍備拡大競争をやっていた。

【八八艦隊計画とは】

「艦齢(建造から)8年未満の主力戦艦が8隻、および巡洋戦艦が8隻とする」。毎年2隻の新造艦を起工し続けることとなる。


 加藤友三郎(広島市出身)が、大正4(1915)年に第2次大隈重信内閣の海軍大臣に就任した。同時に、海軍大将になった。
 その後、寺内内閣、原内閣、高橋内閣、加藤友三郎内閣で兼務(現職で亡くなるまで)連続して海軍大臣に留任している。

 加藤は海軍大臣として軍事強化の最先端にいた。第一次世界大戦の好景気を背景に、大正5年、6年はまず「八・四艦隊案」を議会に通過させた。

 その後も加藤は八・八作戦の推進者の立場から、大正7年「八・六艦隊案」、大正9年度の「八・八艦隊案」と、毎年、斬新的に予算の増額を要求して通過させてきた。

 日本海海戦では旗艦・三笠に乗り、東郷元帥の横(東郷元帥の左)で、参謀長として勤めていた。『日本海戦史』などでは、加藤参謀長よりも、部下になる秋山参謀のほうが天才的な戦術家だった。秋山参謀のほうが敵艦の動きにたいする読みとか、作戦とか勝っている、という記載が目立つ。

 加藤友三郎は、戦争の勘とか閃きとか戦術家よりも、軍政畑の腕の良い人物だったのだろう。
 一方で、日本海海戦は下瀬雅允(まさみつ・広島鉄砲町出身)が発明した下瀬火薬が、バルチック艦隊を粉砕した。秋山参謀の称賛よりも、下瀬雅薬が勝利のおおきな要因だ、と見なす軍事専門家も多い。

 パリ講和会議から2年が経った。大正10(1921)年だった。英米が共同で『ワシントン軍縮会議』を呼びかけてきたのだ。
 というものも、イギリスは第一次世界大戦の経済疲弊から立ち上がっておらず、日米の軍拡を見過ごすと、海軍二流国になると焦りをおぼえていた。
 そこでアメリカを巻き込み、大規模な軍縮会議を呼びかけたのだ。それに成功すれば、史上最大の軍縮となる。


 会議の招集は英首相のロイド・ジョージである。参加国はイギリス、アメリカ、日本、フランス、イタリアの5か国だった。
             
 平民宰相といわれた原敬首相は、海軍大臣の加藤友三郎を日本首席全権委員として参加することに決めた。それには世間は驚いた。

「加藤海軍大臣は現役の軍人であり、軍服に人を殺す剣が下っているではないか。顧問として参加するならともかく、全権大使など、世界の軍縮の精神にそぐわない」(尾崎行雄)
 加藤のほかに、貴族院代表の徳川家達、駐米大使の幣原喜重郎という三人が全権をつとめることになった。 
「徳川公など、旧将軍さまで封建時代の遺物ではないか」
 こうした痛烈な批判が湧き起っていた。原敬首相の軍縮への本気度が問われていた。

写真= ネットより使用させていただきました。

                       【つづく】

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